ジェラールのいでたちに感銘を受けたのは私だけではなかった。いつの間にかマリーとバンサンがそばにいた。マリーは心からの賞賛を興奮気味に延べた。
「すてきだわ、ジェラール!王子様みたい!」
「やあ、マリー。はずかしいな、あんまり見ないでよ」
本当に恥ずかしいのか、ジェラールは頬をうっすらと染めてうつむいた。 しかしマリーよりも深い感情にかられていたのは、彼女のエスコート役のバンサンと、かたくなに席を離れないハリールだったかもしれない。ハリールは私たちの方向を見もせず、パンフレットに見入っていたが、柳眉が鋭く釣りあがって険しい表情をしているのは遠目にも明らかだった。一方のバンサンに視線を移してみれば、こちらはかなり危険な状態だった。ジェラールへの憎悪と共に綿々とした未練があるらしく、陰気な褐色の瞳に熱っぽい光が宿り次第に呼吸も荒くなってくるようだった。それぞれの個性に合わせた反応は、私には観察するのに格好の素材ではあったが、二人とも晴れやかな場には相応しくない態度である。とりあえずバンサンの方から片付けることにした。
そぐわない借り着のタキシードの打ち合わせを掻きあわせて誤魔化そうとしているが、サッシュの下付近に彼自身が支柱になったテントが打ちあがっているのは同性の私には一目瞭然だった。彼はジェラールに欲情していたのだ。
「バンサン、顔色が悪いようだから、外で風に当たってきたまえ」
バンサンは私の言葉にようやく己の体の状態に気づいた。それほど夢中で青年を凝視していたのか・・・自分の立場を忘れ、醜態を晒すのは、将来的に不安でもある・・・この時私はバンサンに懸念を感じた。彼は被害者意識丸出しの陰気な表情をして何事か言いかけたが、私は無視し、「早くしたまえ、頭を冷やすんだ」とやや厳しい口調で屋外へ追い払った。君にも同情すべき点があるのは解っているのだがね・・・白いナプキンで前を隠してこそこそと部屋から出て行くバンサンの後姿を見送りながら心の中でつぶやいた。
「まあバンサン、気分が悪いなんて」
何も知らないマリーが心配する。ジェラールはチラリとバンサンが退出した入り口を見ただけだった。視線は無感動だったが、わずかな軽蔑が宿っていた。
「大丈夫だろう。しばらくしたら戻ってくるさ」
「それならいいんですけど・・・ハリールも来ているからあっちへ行きましょうよ」
「そうだね。あいつなんて大げさな格好してるんだろ、面白いや」
ジェラールは小悪魔の本性を出していたずらっぽく笑うと、私とマリーに先んじてハリールの席へ歩いた。
「こんばんわ。おまえ何飲んでんの?」
ジェラールは、ホテルに着いた時の上機嫌が嘘のような渋面をしたハリールに構わず話しかけ、隣へ座った。
「ここはあんたの席じゃないでしょ?」
「いいじゃん。何飲んでるか教えてよ」
「いちいち聞かないでよ」
「わかった。アイランだね。ヨーグルト味じゃん。だっせー」
「放っておいてよ。酔うと困るんだから」
「それは美味しいけど子供みたいだよ。ならこれを炭酸水で割ると美味しいから飲んでごらんよ」
彼は手前にあったシャンパングラスを取り上げ、炭酸水のボトルを注いだ後、自分が手にしていたグラスから白い液体を少しつぎ込んだ。
私はこれ以上爆発寸前の彼女に構うなと忠告したくもあったが、他の招待客もかなり入りつつあり、不審がられてもと、ひたすらハリールの火薬庫が頑丈であることを、全能の神に祈るだけにとどめた。さすがに彼女も勤務年数に応じた修羅場を経験しており、周囲に配慮できる成長は遂げていたらしい。自分に絡んでくる小僧を波風立てず適当に追っ払おうと考えたのか、ジェラールの差し出すシャンパングラスを受け取った。
「飲んでみるからグラスを早くよこしなさい、チンドンヤ」
「いばるなよ、ゴージャスもどきババア」
小さな攻撃に対しても逆襲を忘れないのがジェラールであると、私は悟った。
「・・・!ったく。あら、案外美味しいじゃない?変わった風味がするけど何?」
一口舐めたハリールが言うと、ジェラールは我が意を得たりとうなづいた。
「だろ?お酒の弱いおまえならラクを炭酸で割れば飲みやすいと思って」
「ラク?」
私は現地で味わったことがある。二人の会話がようやく平和的になったので胸を撫で下ろしながら会話に加わった。
「トルコの地酒だ。透明な酒だが、水で割ると白濁する面白いものだよ」
「これがそうだよ」
ジェラールはラクのボトルをボーイから受け取り、我々に見せた。緑色のビンには澄んだ液体が入っていた。コップの中で透明で粘度の薄そうなサラサラした液体と水が合わさると、プツプツと細かい泡が立ち始め、それぞれに溶解し白濁して収まった。
「まあ・・・」
マリーとハリールが驚嘆の声を漏らした。その時、突然 「ジェラールちゃん!どこにいたのお?!」耳障りなあひる声と共に鮮やかな紫色が視界に飛び込んできた。それはスー・ジョイナー・ヴィルヌーヴ夫人だった。
▼
彼女の配偶者ヴィルヌーヴ氏はわが社の重要な取引先のパリ支社長だったので、私もその夫人とは面
識があった。スー夫人はフランス系アメリカ人で、本人の申告によれば、国際感覚に富んだ両親の教育方針に従い、幼い頃よりイギリスのミッションスクールに通
い、その後アメリカへ戻りラドクリフ大へ進み、NY州立大学で何かの修士号まで取得したとかいう相当な才女であるらしい。しかし今夜の服装は・・・
「あら、ゲインズブルさんじゃありませんこと!奇遇ですわねーっ!」
優雅なサロンにけたたましい声が響き渡り、衆目が集まる。いや、会場に姿を現した瞬間から彼女は注目の的だったはずだ。女史もジェラールと同様本日のテーマ国の衣装を忠実に再現していたのだが、こちらは究極のセクシーダンスを踊るベリーダンサーのコスチュームだった。
プロのダンサーたちも大抵肉置きが豊かな、肥満一歩手前の女性が多いのだが、スー夫人の場合は・・・私の人格が疑われる恐れはあるが、直裁に言わせて貰えば、中年太りした小柄な女が公の場にストリッパーのような格好で登場するのは、噴飯ものでしかなかった。
垂れた乳がはみ出しかけた紫のトップレスには金のチェーンが揺れ、三段腹の下からは同色の長い腰布が巻かれている。それは裾に近づくに連れて次第に透ける仕組みになっているので、丸太のような足が誰かを悩殺するつもりか、チラチラと見えた。四方から引っ張られたような目と豚の鼻が中央に鎮座している顔には、アラビア風に垂らした薄物のベールが掛かっている。しかし肉の海に埋没した顎を柔らかい絹が逆に強調している。トルコ風に長く眉墨や黒々とした付けまつげを用いた厚化粧の効果
はハリウッド映画の特殊メイクのようで、幼児がこの場にいたらおびえて泣き出すことだろう。要するに存在感は圧倒的なので、礼儀作法を心得た紳士淑女たちも、この婦人を見た瞬間から注目するのをやめることはできなかっただろう。後ろの席にいた老人が「今年はコメディエンヌがベリーダンスを踊るのかね?」と横の老妻に尋ねているのが耳に入った。
「これはようこそ。ヴィルヌーヴ夫人。しかし素晴らしいお衣装ですな」
私は如才なく世辞を述べた。ハリールとマリーもすかさず唱和する。
「卓越したセンスの持ち主ゲインズブルさんにお褒めいただくなどとは、あたくしも非常に光栄でございます。今日はトルコ共和国との友好を深めるためにあえてその国の衣装を装いましたの。あたくしが個人的に親しくしております著名なデザイナーのジョン・ガリアーノに委託しましたの。そういたしましたら、あたくしにはスレイマン大帝の愛妾ロクサーヌのイメージが合うと言いまして、このような、少々奇抜なデザインになりまして。普段はもっと上品な、そうですね、シンプルで上品なキャロリン・ベゼットスタイルをしておりますわ。ジョン・ガリアーノはあなた方も当然ご存知でございますね?彼は非常にシャイで好感のもてる知的なクチュリエなのですわ。ある雪の降る夜モデルのトリッシュ・ゴフが、あたくしトリッシとも面
識がありましてね、彼女は・・・・」
彼女の話は途切れることなく、かなりのスピードで話題が移り変わりながら続いていった。いつもこの調子なので、知的レベルの高いクラスのある会話とはこれであると感心はしているのだが、すぐに核心に入ろうとする未熟な私には到底理解できなかったので、夫人にパーティが始まるからと自分の席に戻るように薦めた。
「あら?あたくしたちのお席はここなんですのよ。素晴らしい奇遇ですわねっ!」
よりによって・・・!このパーティは前途多難らしいと、頭痛を覚えた。
この後スー夫人はM16を連射するようにしゃべり続けたので、私は夫人が会話をよりなめらなに進めるため喉を湿らせた時を狙って発言した。
「ヴィヌルーヴ氏は本日はいらしてないのですか?」
「ああ、あの人はですね」
スー夫人はまた語り始めた。
「主人はまだアメリカに仕事があるとかであたくしだけ先にパリに帰りましたの。アメリカでも片田舎のアイオワに本社がありますので、本当に退屈ですのよ。あたくしは数カ国で教育を受けた身なのですから・・・アイオワじゃよい精神カウンセラーもいませんし。皆さんはご存知だと思いますが、アメリカではかかりつけの精神カウンセラーを持つのはインテリ階級ではあたりまえのことで、歯医者に行く感覚でステータスのある方々に利用されておりますの。上流の方々に掛かるストレスは並大抵のものじゃありませんわ。ハリウッドスターのジョージ・クルーニーやケビン・コスナーの・・・」
「・・・」
また独演の波が押し寄せ、ハリールがイラついているのは一目で解った。私も上流御用達精神カウンセラーの患者名鑑よりも、「ジェラールちゃーん」の真相を知りたい。
突如登場した超個性派スターのおかげで、ジェラールの様子を語るのが遅れてしまったが、彼は、とめどない多弁で周囲を圧倒しているスー夫人には無関心で、ラクを飲みながらボーイが運んできたメデと呼ばれる前菜を選んでいた。
「お話の途中で失礼ですが」
話の腰を折られた彼女が気分を壊さないように配慮するのは当然の礼儀である。
「ジェラール君とご一緒にお越しでしたか」
「ええ、もちろんそうですわ。彼は私のエスコートなんでございますのよ」
「エスコート?」
スー夫人はよくぞ聞いてくれたとばかり、アラブ風のブレスレットをはめた両手を振りながらしゃべりだした。
「そうなんでございますの。今日はジェラールちゃんと一緒ですから、思い切ってペアでトルコ風の衣装で参りましたの」
ペアで、という言葉にハリールは敏感に反応して、一瞬眉をきつく引き寄せた。
「本当はレオナール夫人がいらっしゃるはずでしたの。でも夫人は数日前から持病の神経痛で起きられなくなってしまいましてね。神経痛ってこわいですわね。突然発病してしまうんですもの。でも夫人はもう70にもなられるから当然かしら?神経痛にはシャンパンがよく効くと、懇意にしております医学者がおっしゃって・・・ドンペリニョンが・・・痛風は・・・」
「それでレオナール夫人の代わりにジェラールが来たという訳ですか?」
話がまた脱線しだしたので、私は慌てて修正した。
「そうなんですの。お年寄りのレオナール夫人よりはよほど、あら、私、他人様を非難してしまいまして?」
「いやいや、解りますよ」
ラメ入りの金色のアイシャドウが寄れて不気味な皺を浮き上がらせているが、彼女は構わず小さなとび色の目を精一杯見開き、大仰に両手を揉み絞った。
「そうですわね。レオナール夫人よりもジェラールちゃんの方が誰でもいいですわよね。こんなに若くて美形なんですもの。ジュード・ロウ?違いますわね、リヴァーかしら?もっともっと・・・でもね、ゲインズブル様、私はルックスよりもジェラールちゃんの知性に傾倒しておりますの。難解な社会学の理論を理解し、堂々と名だたる碩学を相手に議論できるなんて今時珍しい天才でございますわ」
確かに私も彼の知性に感服する一人だ。彼女のアンテナも同様にジェラールの天才性をキャッチしていたのだ。
「それで、どちらでお知り合いになられましたの?」
今まで唇を噛み締めていたハリールが、眉を開いて努めて愛想よく問う。しかし底には敵意が篭っているのが私には判る。この時、今まで白けた風でメデを口に運んでいたジェラールが目線を上げた。
「ハリール君、失礼なことを・・・」
こんな晴れがましい場に招待されてはいるが、エスコートすべき亭主や恋人がいない女たちがいる。そんな女たちのために、若くてハンサムな男たちを提供する「エスコートサービス」なる職業がある。大方それだろうと見当を付けていたので、ハリールの質問には私が狼狽した。
「あら、構いませんことよ」
スー夫人はまたもや話手を自分に戻す。
「ジェラールちゃんとは、サンマルタン博士の勉強会で知り合いましたの」
サンマルタン博士。社会学の泰斗であるカールマンハイムの学説を信奉する私大学の教授、と聞いた時は、経済学におくケインズやアダム・スミスを現在のグローバル経済に適用させるごとく時代錯誤な印象を受けた。この白髪美髭の老教授は居心地のよい重厚な教授室には閉じこもらず積極的にアルジェリア問題やグローバル問題などの社会活動を展開している。15年ほど前にわが社がある発展途上国での現地法人設立するのに、当時パリ大学の助教授であった彼をアドバイザーに迎え幹部対象のセミナーを開いたのだが、その内容たるや高位
のお歴々が期待していたアドバイスとはかけ離れており、極端に言えばグローバリズムの糾弾、ナショナリズムの尊重を訴えるものだったので、当時世話役だった私は驚倒しかけた。当然重役達は激怒し、サンマルタン氏はただちに解任されてしまった。
大企業の専任アドバイザーになれば報酬は十分に支払われるし、わが社の勢力範囲内では優先的な待遇を確約されるのに、偏屈なご老体だと呆れたものだった。その後も彼の硬骨漢ぶりにはますます磨きがかかり、派手な活動をする論客をもてはやすマスコミとは距離を置き、取材等は滅多に受けないというル・モンド紙の記事を読んだ時は、相変わらずの彼の偏屈ぶりがおかしくもあった。しかし世界のグローバル化により貧富の差は拡大し、取り残された地域社会の反感により暴動すら勃発し、その後行われる弾圧はテロを呼びパリの地下鉄では爆弾事件が頻発した。はからずしもサンマルタン博士の予言は的中したわけである。
「あなたがサンマルタン先生の社会学に興味を持たれるとは、これは意外でした」
「あら、ゲインズブル様、私、博士を尊敬しておりますのよ」
ジェラールは嬉々として自分の知性の説明を始めた夫人を横目で見た。皮肉な笑いが蒼い瞳に浮かんでいる。おそらくスー夫人の言い分を嘲笑しているのであろう。しかしハリールはジェラールの真意を見抜く余裕などなく、彼が媚びた笑顔で夫人を見た、と思ったらしい。
「ゲインズブルさん、私先ほどから気分が悪くて仕方ありませんので、しばらく外で風に当たって参りますわ」
「もうすぐ開会の挨拶があるが、大丈夫かね?」
ついにキレたか・・・私はため息をついた。ジェラールをこの席へ近づけたことを悔いた。
「一人で歩ける?一緒に行きましょうか?」
「いいえ、結構よ。治るまで一人でいたいのよ」
彼女は心配そうなマリーにはわずかに笑顔を見せたが、 「ハリールさん、私の知人のJ・マルコビッチが具合が悪い時には」
とスー夫人が言いかけたのを無視して、自分で椅子を押しやって淑女に相応しくない音を立てて席を立ち上がった。私が紳士の義務として椅子を引く間もない早業だった。それから優雅なドレスの長い裾を鷲つかみにし、気分が悪い人とは思えない足取りでヒールを踏み鳴らして退出した。ピンと立てた背中を眺めつつ、やれやれ不安なのはバンサンだけではなかった、と長嘆息をついたが、このまま帰宅するつもりじゃないだろうか?と彼女が再び戻ってくるのかにわかに不安になった。しかし壇上に開会式の挨拶が始まるらしく、会場の照明が落ちたのでそのまま待つ以外なかった。
▼
壇上には大礼服に身を固めた司会者が現れ、一方の主催者であるトルコ大使をうやうやしく紹介した。さすがはイスラム国家の中でも女性解放の進んだトルコらしく、美しい中年の婦人が大使その人だった。大柄な体をスパンコールが煌く深緑のロングドレスに包み、精緻な金細工に翡翠やトルコ石、メノウなどをちりばめた伝統的なトルコ風の首飾りが豊満な胸に重々しく垂れている。爛熟した魅力は強烈な印象を与えるものだが、高い知性の裏打ちされた艶美は、重職に相応しい威厳となって昇華されていた。
大使は、トルコと欧州の長い歴史を語り始めたが、国家間に関しては理想的でなかったとは言え、文化面
では先にトルコが欧州各国をリードし、後々はオスマン宮廷がフランスやイタリアの技術やモードを取り入れたりと、市民の交易では常に密接な関係を保っていたことなどを、女性らしい細やかな感性で述べ始めた。
「トルコはフランスの理解を必要としています」
もちろんだ。トルコもわが社の有望な顧客として、表と裏の名簿どちらにも名を連ねてもらう予定なのだ。美貌の大使は何が好みだろうか。挨拶代わりにヴァンドーム広場の宝飾店の品でもどうだろうか。トルコの国花チューリップを意匠にしたブローチが頭に浮かんだが、どのジュエラーが好みかは外務省の懇意な友人が調べてくれるだろう。
大使の心を獲るすべを考えると、私の意気は高揚した。しかし本日の私の真の目的であるロシュフェコー氏はまだ到着していないのは気がかりである。大使が挨拶が終えて壇上から去ると、私はロシュフェコー氏の姿を求めて入り口の方向を見た。だが、バンサンが尾羽打ち枯らしたように背を丸めて陰気な足取りで入室したのを確かめただけであった。私は舌打ちしたが、それが紳士のマナーに対して重大な違反を犯していることに気づき、目の前にあったワインに手を伸ばして場を取り繕った。濃い赤のワインを嚥下すると、表現し難い不思議な味が舌に残った。
「なかなか個性的な味だが、かなり風変わりでもあるな」
「それ、獣の味だよ」
横の席で壇上を凝視していたジェラールが、私の言葉に反応した。
「獣?」
「そう。マジェスティックというんだ。トルコ料理に合うよ」
なるほど、血がしたたるレバーの味がするワインを獣の味とはうまく表現したものだ。ふと見るとジェラールのふっくらした唇はワインの真紅に染まっており、ズブカジで雄たけびを上げる古のトルコ族の若者のような野趣を帯びていた。
大使の挨拶が終わると、司会者はいささかもったいぶった口調で会場にいる貴賓を紹介し始めた。トルコ大使の夫君や子息たちから始まり、詩文の一節のような賓客たちの名が次々と読み上げられていく。このパーティは両国の親睦に重点が置いているので家族連れも多い。紹介を受けたトルコ空軍大佐の令嬢は初々しく頬を染めながら、高名なイスラム学者の一族は慇懃に、絨毯卸で有名な商人の妻は如才なく答礼した。
その後、誰も彼もが待ちわびていたトルコ宮廷料理が、銀の皿を掲げる白手袋をはめた給仕たちによって運び込まれてきた。それと同時に悋気を起こして外に飛び出していたハリールが戻ってきたので、そのタイミングのよさには噴出しそうになったが、こらえるためにメニューを見た。
花のアラベスク模様に囲まれた品書きには、有名なドネルケバブはもちろん、「金持ち男の宝箱」「大王のお気に入り」「女性のふともものキョフテ」など、トルコ人の機知が感じ取れる象徴的な料理名が記してあり、香辛料や肉汁の芳しい匂いとあいまって食欲が刺激される。しかし私と同じことを感じていたのだろう、ジェラールが小さく笑った。
「ふん。いいタイミングじゃん。さすがハリールは鼻が利くね」
「おっと、ジェラール君、紳士は淑女をからかうものではないよ」
これ以上部下を刺激されては困るので、慌ててフォローをしたが、当のハリールは開き直っていた。
「ふん。これが楽しみで来たんだから当然でしょ。トルコ宮廷料理長とクリヨンのシェフのタッグなんて滅多にないことだもの」
すっかりご機嫌は治ったらしく、先ほどのヒステリーはどこへやら、ツンと取り澄ました得意げな表情で白いナプキンをひざにかけて、料理のサービスを待っている。給仕は見るからに美味そうなマメの肉詰めを一堂に示した。
すると、何か言いたくてたまらなかったスー夫人がまた口火を切って、料理を取り分けようとした給仕より先にご馳走の説明を始めた。
「これ、皆様、これですわ。これが一番美味ざましょ?『若鶏のスルタン風』ですわよね?このお料理は、あたくしがロンドン留学時代に、たまさかに寮のお食事で出ましてよ。いえ、シスターが昔トルコで布教活動をなさってたんですのよ。ボーイさん、このジビエはムクドリかしらん?」
「あの、これは・・・」
年若い給仕は、唐突にしゃべりだしたスー夫人への返答で困惑して口ごもった。
「これ、『女性のふともものキョフテ』じゃないですか?だったら牛肉でしょ?」
ジェラールが助け舟を出すと、給仕はホッとして「ウィ、ムッシュウ」と答えた。しかしこれでへこたれるスー夫人ではない。
「ああら、あたくしとしたことが。キョフテ、そうでございますわ。キョフテですのね。有名なお料理ね。作り方はカルダモンとコリアンダーを・・・」
トルコ料理までに造詣が深いとは恐れ入った博学ぶりではあるが、スー夫人が学を衒っている間に、せっかくの『胃袋のスープ』が冷めてしまうのには閉口だった。
「話は後にして、とにかく食べようよ」
ありがたい神託とも言うべきジェラールの一言で、スー夫人にお預けを食わされていた私たちは、ようやくご馳走にありつけたのだった。
|