博学なアイゼン。こうして僕が懊悩と追想の世界を標榜している間、愛車エクリプスは暗いフリーウェイを黙々と疾駆し続けた。やがて道路は左右へ二分し始め、僕は右カーブへ進路を取り、このドライブ中ずっと右側のガードレールに併走するように姿を見せていたアパラチアの山並みに小さく敬礼して別 離を告げた。道路標識には鮮明な青い文字で「ニューアーク 12マイル」と書いてある。すべての終末であり、また魁でもある運命の地ニューアークまであとわずかだ。
しかし僕はスピードを緩め、フリーウェイのところどころに設けてある停車スペースへ車を乗り入れた。数時間前にもハイウェイパトロールに呼び止められ同じような路肩へ停車したのだが、今度は違う。そしてそこには先客がいた。
僕は、それが古ぼけたトヨタのピックアップで片方だけのハザードランプを点等しているのを確認すると、車から降りた。 ピックアップも僕の車を確認したらしく、一人の小男が今にも壊れそうなドアを開いて、こまねずみに似た動作で現れた。 それは故売屋のミケロッティだった。
「へへへ、だんな、さすが紳士だねえ。時間どうりですな。これはこれはすばらしいお車で」
彼はゆがんだ顔に笑顔を浮かべて、イタリアなまりの強い英語で僕におもねった。
「例のものは用意してきただろうな」
僕は彼の唾を避けながら尋ねた。
「へえ、もちろんで」
ミケロッティは油の滲んだハンバーガーショップの紙袋を見せたが、すぐに引込めた。
「先にお代金拝見と行きやしょうか。近頃は不心得な輩が多くてね。いえ、あっしはだんなを疑うわけじゃありませんが、商売には作法ってものがありやしてね」
僕は彼の長口説を聞くつもりはないので、黙ってバッグから封筒を取り出した。故売屋はすぐに開封して指にツバをつけて札を数えたが、すぐに相好を崩した。
「へっへへ。確かに400ドルありましたぜ、ではどうぞ」
僕も袋を受け取ると、すぐに開いて中身を確認した。確かに約束の品々が入っていた。
「うまいもんでしょう?腕のいい職人に作らせたんですが、モデルがまたよかったねえ」
僕が細部を確認していると、横からミケロッティが自慢げに言った。
「あれはどういう御仁なんですかい?役者か何かが食えなくなったんですかい?」
普段は客に干渉しない男が探りを入れてくるのは当局の手配が?と不安を感じたが、よどんだ瞳はアルナミへの興味で光っていた。
「いつから客のプライバシーを詮索する方針になったんだ?」
僕は、ロドリゲス直伝の強面を作って凄みを効かせた。
「い、いえ、それはちろんノータッチでさ。あっしだってプロだからね」
恐怖して言い訳がましくしゃべりだしたミケロッティには取り合わず、袋の底から小瓶を拾い上げ、ドライブウェーのライトにかざすと、中の白い錠剤が鮮やかに浮かび上がった。
「それも苦労して手に入れたんですぜ」
「ちゃんとした代物だろうな」
「もちろんでさ、こういうのもにはちょっとうるさいこのあっしが保障しますぜ」
「よけいなおしゃべりはしない方が長生きできることを覚えておくがいい。じゃ失敬」
僕はまだ何事かを言いたげなミケロッティを振り切り、車に乗りこみフリーウィエイの流れに戻った。

 

 

ニューアークのジャンクションでフリーウェイを降りると、長い夜は明けていた。清々しい太陽の光が街に降り注ぎ、一望すると家並みのガラス窓やスレート屋根が金色に輝いており、僕の目の前に広がっているのはまさに朝の風景だった。だが、ここは全米でも犯罪率がトップクラスであり、盗難、殺人、ドラッグは日常茶飯事でニュースにもならぬ ほどの治安の悪い場所だった。僕は、何度かニューヨークからハドソン川を一本隔てただけのこの都市を訪れたことがあるが、ゴミとホームレスがいたるところで見られ、空気が臭く思わずハンカチで鼻腔を覆ったほどだった。事情通 の同志は、プラスチックを焼く処理工場の匂いだと説明した。その工場で生産された中古プラスチックは、あまりの粗悪さ故に引き取り手が見つからなかったとも言った。しかし何よりも無法地帯であることが、僕らが誰の目にも触れず最後の潜伏のためには最適だった。高架沿いの道路をしばらく進むと、すぐにリゾート風の建物が出現した。パラダイス・インにようやく到着したのだ。
各部屋に面した駐車場に車を止めると、すぐに一室のドアが開き、エクリプスのエンジン音を聞き分けたらしいアルナミが出迎えてくれた。朝日の中で微笑む白い歯の清潔さが、周囲の饐えた空気を追い払った。

レセプションというにはカジュアルすぎる受付でチェック・インを済ませると、アルナミに二時間後に全員で僕の部屋に集まるようにいい、僕は室内へ引き取った。モーテルらしい簡素な作りだが、大抵の設備は完備している。僕は荷物を置くと、まずシャワーを浴びて汗と疲れを落とし、バスローブを纏ったままベッドに腰を下ろして電話の受話器を取り上げ、レバノンへの国際通 話をオペレーターに申し込んだ。アパートやホテルの電話を利用しないことは、組織の鉄則だった。もちろん当局を警戒してのことだが、それよりアッタの諜報網が隙間なく張り巡らされている。僕は彼の監視の下でしゃべるのは気詰まりなので、いつも公衆電話を利用していた。が、今はそれほど人の会話を聞きたくば聞くがいい、と完全に開き直った気分だった。
国際電話をかけたのは、先日僕が家族に依頼した700ドルの臨時送金の受け取りを報告するためだった。僕は月々2000ドルの仕送りを受けており、留学生が持つには潤沢すぎるほどの金額だったが、ミケロッテイに支払うために急遽700ドルが必要になった。もちろん両親は用途を一切聞かないですぐに送金してくれた。
一ヶ月前に心臓病の手術を受けたばかりの父が電話に出てきた。受話器を通して聞こえる声がか細いのは、遠距離電話のせいだけではないはずだ。昔は野太い声の持ち主で古歌のよい歌い手でもあったのだ。僕は送金の授受と礼を言ってから、術後の容態を尋ねた。
「もうだいぶいいぞ。心配しなくともいい。それよりお前はいつ帰ってくるんだね?来月いとこのファイサルの結婚式があるのを忘れてはいまいな」
「ああ、ファイサルの結婚式があったね。そうだなあ・・・」
「一族が集合するんだから、わがジャラヒ家の長男であるお前が出席せねば始まらない。それより母さんがお前の帰りを楽しみにしているんだよ」
懐かしい母の顔が僕の頭の中に浮かび上がった。
「わかった。出席するよ。ファイサルに言っておいて」
「それでいい。もしチケットを買う金が足りないから遠慮なく言いなさい」
僕は久しぶりに家族の情愛に触れて思わず涙ぐんだ。これから彼らを裏切ろうとしている。家族を騙しているんだ・・・と、心の痛みを感じたのも同時だった。
「今度もアイゼンは一緒かね?」
礼儀正しいアイゼン、突然君のことが話題に出たので、心の柔らかい部分を刺激されて言葉に詰まってしまった。
「ワシも母さんもあの子を気に入ってるんだよ。結婚はまだか?祝いにベンツを贈ってあげよう。実はもう購入してあるんだ」
君と僕の新婚生活を楽しみにしてる故郷の両親、ドイツで僕を待つ美しい君、そして遠い敵地で愛する人々を欺いている僕。すべてが哀れに思えて、ついに涙が崩れ落ちた。しかし最後の最後でくじけるわけにはいかない。僕はアッタとアルナミの顔を強いて思い出した。
「いや、今回はアイゼンは試験があるので来れないんだよ。僕一人だ」
そして自分に言い聞かせるように明言した。父がどれほど残念がったか君にも聞かせたいくらいだった。 僕は電話を切った後も受話器を耳に当てていた。間歇した孤独なトーン音が果 てしなく続いていた。

 

 

ングドライブの一気に疲れが出たのだろう、ベッドに転がるだけのつもりが寝入ってしまったようだった。ほんの10分ほどだったが、ブザーの甲高い音でも目が覚めないほどの正体がない深い眠りだったらしい。「ジャラヒさん!ジャラヒさん!」アルナミの声がおぼろげに聞こえる。どうしたんだろう?また何か起こったのか・・・?僕は自分で彼らを部屋に呼んだことを思い出し、跳ね起きた。ドアの外にはアルナミやサイードらが僕の名を呼びながらドアを激しくノックしていた。すぐにドアを開けようとしたが、ミケロッティから受け取った紙袋の中身がサイドテーブルの上に出したままなのに気づいて、慌てて袋に詰め込もうとすると、紺色の手帳が滑り落ち、ページがまくれて美しい女性の顔写 真が見えたが、すばやく拾い上げて袋に入れ、クローゼットに隠した。

ドアを開けると、アッタから預かった同志たちがうち揃って立っていた。アルハズナウィ、サイード、アルナミ、そしてハッサンの順で部屋に入ってきた。アルハズナウィとサイードの顔には僕の長旅をねぎらう微笑が見えたが、同志というよりはアタの使そうを受けているハッサンが間諜の眼で部屋を検分しているのが見てとれた。僕が実家へ電話をかけていたのを嗅ぎつけているに違いない。ここ二日をやり過ごせないで逃亡する人間がいても不思議ではないから、監視が厳しくなるのは承知済みだ。逆に僕が家族を省みないで沈黙していると、不信感を煽るかもしれない。僕のささやかな計画を仕上げるためには彼らの裏をかかねばならない。
僕はいつもと同じ落ち着いた口調で彼らに最後の会合の詳細を話し、アッタから預かった『実行の心得』をそれぞれに配った。突如として冷酷な指導者が目の前に出現したかのように、全員が一様に厳粛な面 持ちで『心得』のコピーを受け取り、書き手の几帳面さが伺える正確なつづりに食い入るように見入っていた・・・これで彼らは今まで漠然とした観念に過ぎなかった己の運命が、明日実効するのを認識しただろう。

「僕のパスポート、返してもらえるんですか?」
重い沈黙を破ったのは、あえて明るさを装ったサイードの声だった。各リーダーは、チームのメンバーがアメリカに入国するのに使った旅券を、まとめて保管していた。普段はクレジットカードや自動車免許証をIDカードにして、飛行学校の入学申請とか飛行機や車の免許取得など、身分証明が必要な時だけ、リーダーに申告し借り出す形になっていた。この不便さを耐え忍ぶのは、メンバーが国境を超えて逃亡するのを防止するという理由だった。これがアッタの発案で実施されたのは言うまでもない。もちろん僕もメンバーのパスポートを保管していた。もちろんアルナミのも。 ハッサンの眼が鋭く光るのを無視して、胸騒ぎを抑えながら僕は聞いた。やはり逃げ出したいんだろうか?無理もない、しかし・・・
「いや、理由なく返せないが、何故パスポートが必要なんだ?」
そんな周囲の思惑は何処吹く風とばかり、サイードは丸い瞳をまばたいて言った。
「だって明日はみんなバラバラにチェックインするんだから、パスポートいるじゃん?」
彼の邪気のなさに僕は噴出した。アルハズナウィが横からサイードをたしなめるように言った。
「サイード、国内線だからパスポートはいらないんだよ」
この二人はほとんど同じ年なのだが、大人と子供くらい印象が違う。
「あ、そうか!あー勘違いしてたよ。だって俺、飛行機乗るのは三度目だぜ」
照れ隠しにふくれっ面を作ったサイードをみて、終始黙っていたアルナミが笑った。
「もっと乗ってるし、ここに来るのもパスポートいらなかったじゃん。でもそそっかしいのはお前らしくていいよ」
アルナミの笑顔には光輪を伴った透けるような美しさが加わっていた。

 



 

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