9月7日ボストン

ボストン郊外の閑静な住宅地ニュートンに、偉大なる計画のために選抜された20人が、アッタの肝いりで集合した。ボストンは緑の多い美しい街だが、アメリカの支配階級、いわゆる東部エスタブリッシュメントのゆりかごとなっている。歴史の浅いこの国では最古の学問の殿堂ハーバード大学があり、正教徒の流れを汲むこの最高学府から、経済界つまりニューヨークと政治機構の集合地ワシントン.D.Cへ、優秀な人材を輩出し続けている。この並列した三都市は、アメリカ北東部回廊と呼ばれ、WASPたちは独特の選民意識を持っている。貴族たるもの自ら気高い義務を果 たす、の精神は一見立派で、僕たちの故郷の支配者たちも見習うべきだと思う。しかしどれだけ富を積み上げようと、アメリカが食い詰めた移民の国だというお里は争えないもので、彼らは第三世界を蹂躙して搾取する手段に長けているに過ぎないのだ。石油成金の王族や有力者と手を結び、成り上がりの卑しさ丸出しで、似たもの同士の共存共栄を謳歌している。真の気高い精神を持つなら決して虐げられた人々や鬱屈する若者を見捨てる真似はしないだろう。
しかしボストンの町並みは、そんな事情とは無関係にレンガ作りのチューダー様式の洋館が木々の枝葉をかざす落ち着いた趣を見せていた。僕は何度かここにも足を運んだが、その度、赤レンガに蔦のつるが繁るまろやかで優しい配色に、どす黒く汚れた心を洗われ、癒しを感じたものだった。

僕らの集合場所はそんな邸宅が並んだ一角にある20世紀初頭に建築されたらしいレトロなレンガ造りの館だった。どうやら偉大なシェイク・ラディソ様の一族が所有している家屋の一つらしかった。
蔦を揺らす風以外に音の聞こえない静かな洋館は、最初で最後に同志が一堂に会する舞台としては全く適していた。重い木造のドアを開けるといきなり大広間となり、中央には見事な白百合が飾られていた。この館には白い手袋をした執事やメイドが相応しいが、閑散として人の気配はない。アッタは構わず広間を横切り奥の一室へ僕たちを案内した。その部屋は家具というものが一切ない空間だった。寄木細工の床を覆う見事なペルシャ絨毯と重量 のありそうな赤ビロードのカーテンさえなければ、暖炉が空しく口を開けている寂寥感とあいまって、古人の栄華の跡かと思えるほどだった。
「同志諸君、遠来ご苦労だった。ここへ座りたまえ」
アッタは同志の苦労をねぎらうつもりかほんの少し表情を緩めて言った。みんなは適当な場所へ座ったが、自然と彼を中心に円を描く形となった。アルナミはサイードと並んで末席付近に収まっていた。アブハ時代は知らないが、服装に無頓着な質なので相変わらずの粗末な綿シャツ姿だったが、浅黒い肌に眼光のギラギラしたむさくるしい男たちの中で、アルナミだけがたおやかな別 種の生き物のように見えた。いや、正確に言うと別種の男はもう一人いた。冷ややかな鋼鉄のまなざし、ローゼンベルグと同じ目を持つアッタが・・・ 他のところでは、ハッサンの美男ぶりが際立っていた。アルナミと同じ南西部の出で、利発そうな整った顔立ちとすっきりした体つき。センスのよいスーツはおそらくニーマン・マーカスあたりで購入したのだろう、よく似合っている。一見エキゾチックな伊達男なのだが、アッタの膝下で働く男の冷酷な心根が、黒い瞳に現れていた。

「勇敢にて敬虔な諸君、偉大なる計画の実行まで、残すところ4日となった。君たちは、それぞれ『細胞』としてアメリカ各地で活動していたのだが、全員が集合する機会は今までなかった。私の方針として接触を最小限にとどめていたが、最後の誓いを立てるため、あえてリスクを承知で集まって貰ったのだ」
アッタが静かな、しかし自信に満ちた力強い声で話し始めた。同志達はまばたき一つすらしないで、自分達のリーダーに真剣な視線を送る。それからアタの話しばらくアメリカの暴虐やイスラム社会の矛盾について弾劾となり、その後口調を緩めて戦士たちへの賞賛と自覚の鼓舞となった。
「今まで私は君たちに苛酷な義務と任務を要求してきたが、これから行う最後の任務ははるかに激烈であり、壮絶だ。しかしそれは天国への選抜試験だと思って欲しい。君たちは選ばれた戦士なのだ。聖なる闘いに身を捧げる栄光はすぐそこにあるのだ」
ここで一旦言葉を切ると、傍らに座っていたアルオマリへ顎をむけうなずいた。アッタの右腕と言われたアルオマリはすぐに数枚の便箋を差し出した。それを受け取ると、アッタはまた言葉を続ける。
「これは私が作成した『実行の心得』だ。後でコピーして各人に配布する。偉大なる計画に従事するものは、これを手引きとして一字もらさず熟読しなくてはならない。最後の晩にはこれが神の啓示に変わる支柱となるだろう」
偉大なる計画─総責任者のアッタやパイロットたち、それを補佐する幹部の数名は、この戦慄を伴う作戦をすでに知っていたが、若者達や新入りには全貌を明かしてはいなかった。サイードもずっと疑問に思っていたらしい。生来の天真爛漫さを発揮してアッタに尋ねた。
「あのー」
「何だね?同志サイード」
「さっきからずっと気になっているんですが、偉大なる計画って何なんですか?教えてもらえないんですか?」
「サイード!お前、何を言い出すかと思ったら」
僕は狼狽して彼の口を封じようとした。しかしアッタはそれを制止した。
「いいのだ、ジアド。彼の質問は当然だ。他の皆も口にはしないが、同じことを聞きたいに違いない」 いつか見た凄蒼な微笑みが口元に浮かんでいた。
「無理はないだろう。私が君たちに強いた態度は盲目的な従順だったのだから。今まで訳の解らない任務に各人よく耐えたと感心する。しかし」
ここで言葉を切り、しばし沈黙の後、確信に溢れて以下のように宣言した。
「今はただ、諸君が今までやってきたことは、殉教作戦の過程であるとだけ言っておこう。4日後に遂行する偉大なる計画とは、殉教作戦なのだ。もう一度言うが、諸君は選ばれたる戦士である。神の御心にもっとも近い使徒であるのだ。私は君たちを天へ導くものだ。最後の試練の後には、永遠の天国にいる自分を発見するだろう」

 

それ以降、その種の質問を試みるものはなかったが、4日後の任務が尋常でないのを感じ取って、どの男も真摯な表情を一様に浮かべて言葉を発することがなかった。彼らの上に流れたものは何だったのだろう。巌をも貫くような決意と闘志を各人が持っていることは疑う余地はない。しかしそれらの雄々しい感情を覆うのは、夕霧の中でながれる鎮魂歌のメロディにも似た静かな諦念なのだと、僕は思う。強烈な熱狂は長くは続かない。黙々とルーティーンをこなす誠実と忍従がここまで僕らを連れてきたのだ。アッタは大気が息苦しくなったのを感じて、マルワンにチャイを運ぶように命じた。
「諸君も疲れただろうから、ここで一休みしよう」
彼自身も銀細工のコースターが下半分を覆う透明なガラスのコップを持ち上げながら、一同にくつろぐように薦めた。僕らはチャイに口を付け、天国の泉の水のように美味いと感じることで、自分達の緊張と疲労を思い知って、固まっていた姿勢を崩して隣の男と控えめな雑談を始めた。 そこでも申し合わせたように『偉大なる計画』に触れるものはいなかった。
「生き返ったようだな、諸君」
アッタは、僕たちが一息入れたのを見て取ると、カラになったグラスを置いて立ち上がった。一堂、一斉に彼を注視する。
「私の話は午前中の会合で終わった。後はそれぞれのチームリーダーから説明があるので、この後は分散することになる。その前に」
要点に入る前に言葉を切り、一呼吸置くのは、この冷徹な男の癖なのだ。必然的に聴衆は彼の次の弁を待つ。そこで彼の真の目的を、鈍く光る矛を突くように取り出す。その内容の多寡にも関わらず、人々は彼の重々しさを感じ、畏怖するという運びだ。彼一流のマキャベリズムの手法なのだ。僕の小心な魂は、このやり方にいつも屈していた。しかしそれももう終りだ、いよいよ・・・僕の耳にはアッタの声が響いてきた。
「その前に、諸君、奇しくも今日は金曜日だ。諸君がもし祖国で暮らしていたならば、敬虔なる信徒たちと共に聖堂で祈りを捧げる日にあたる。義務を怠ってよしとする不逞の輩は我々の間には存在しない。残念ながら、アメリカに来てからというもの、我々は共に祈る機会を持たなかった。信仰を持つ君たちは身を切られるように辛かったに違いない。『偉大なる計画』のためには神もお許しくださるというのにだ。そこで、今は時間もちょうど正午、ここで我々で共に神に祈りを捧げようではないか」
固唾を呑んで聞いていた男たちから、吐息と共に歓声が漏れた。アッタは我が意を得たりと微笑して、アルオマリから一冊の本を受け取り、大切そうに右手で持ち上げ皆に示した。赤い革に金の型押しの装丁が美しいその本は、言うまでもなく聖なる書である。
「アーメッド・アルナミ」
アルナミの姓名が厳かに室内に響いた。

皆はアッタから視線をアルナミに移した。彼は自分が指名された理由をすでに悟っていたらしく、静かな所作で立ち上がった。 アッタは彼を前に呼び、横に並ばせて言葉を続けた。
「このアルナミは、本国では聖塔に登って日々敬虔なる人々に礼拝の時間を告げていた。その前は音楽に傾倒してバンドでヴォーカルを担当していたという。オウドのよき演奏者でもあったらしい。君たちは知っていたかね?」
アルナミは男たちとそれなりの接触はあったが、誰かに自分の過去を語ったことがあるのだろうか。僕を含めて彼の前身を知るものはほとんどいなかったと言っていいだろう。一度だけ僕は彼に昔の暮らしについて尋ねたことがある。 しかしアルナミは長い睫を伏せたまま、 「何も知らない愚かな子供だったんです。あれは全部夢の国の、罪深い出来事・・・」と、ポツリと言って二度と語ろうとしなかった。 男たちの間から驚嘆を含んだざわめきが巻き起こる。しかしサイードだけはすでに既知の事柄らしく、得意げに丸い目を輝かせていた。僕は軽い嫉妬を覚えたが、友を誇るサイードの無邪気さには微笑まざるを得ない。
「すげえな、アルナミ、やるじゃねえか!」
マジドが軽躁な声を上げたが、すぐにアッタの刃物のような視線に沈黙を強いられた。 アッタは弛緩しかかった部屋の雰囲気を再び引き締めた。
「私が言いたいのは、彼の声は保証付きであるということだ。高名なセキュレイの聖堂でも評判の声だったと聞いている。彼が音曲に傾倒したのは大きな過ちであるが、人々が礼拝を重ねるために鍛錬を積んだ声が使われるのは、神の御心にかなう善行である。前置きが長くなったが、これから優れた語り部の読誦により我々は共に礼拝しようではないか」
アルナミはいつものように伏目がちなまま立ちつくしており、その感情はうかがい知れなかったが、アッタから聖なる書物を受け取ると、引き締まった蒼白い頬にさっと赤みが宿るのを、僕は確かに見た。

その夜、僕はどうも寝付けず、夜半割り当てられた部屋を出て、屋敷の広大な庭をあてどもなく歩いた。短い夏の間に生い茂った木々は夜風にさざめき、夜鳴きするナイチンゲールのセレナーデに趣きを与える伴奏となっている。学究の街でもあるボストンの杜には相応しい小道具であるが、僕は昼間に聞いたアルナミの礼拝のための唱誦がまだ頭に残っていたのだ。甘さを帯びた張りのある若々しい声は声量 が豊富で、マイクの助けがなかった古、黎明に浮かぶ聖なる塔に登って闇を振り払った聖童を思わせた。アルナミの操る言葉は、心の奥深きところへ届く音楽だった。力強くて奔放でありながら繊細であり詩的であり、誰しもが神秘を感じる哀愁を全体に帯びていた。 僕は、祈りを続けながら心が洗われていくのを実感した。同時に一筋二筋と涙が流れているのにも気づいた。漢たるものが恥ずべきことだと、涙の雫を振るい周囲をうかがうと、隣にいたアルハズナウィーの頬にも涙の跡が一筋光っているのが見えた。そして他の男たちも全員が、不思議な悦びと哀しみを共有していたのだった。この感情は何だったのだ・・・偉大なる計画に参加できる喜悦だろうか、天上への憧れか、それともアルナミという存在への涙か・・・これが眠れない理由だった。

遥かなるアイゼン、僕は樫の巨木の下で立ち止まり、天空を見上げた。木立の間から覗く空には、振るような星空が広がっている。緑が多く空気と水の美しいボストンでは、ドイツの森と同じように数多の星が見える。あの時、僕たちは、煌く星たちが作る星座が君の面 輪に酷似してるのを発見したものだった。今その星団は見えないが、僕はアルナミの横顔を形作る星群を発見した。端整な鼻梁に憂いを帯びた唇がそっくりだ。北天に眼をやると、昔船乗り達が指針とした北極星が輝いている。アルナミはやはり僕の北極星であるのだと、感じ入る。きっと星達も、アッタの偉大なる計画の裏でひっそり進行している僕のささやかな計画を祝福しているのだろう、天然のプラネタリウムにアルナミの星座を見つけたことは成就の兆しであるに違いない!僕の気持ちは爽快になった。そして、ゆっくり深呼吸をして自然の大気を吸い込んだのだった。

 



 

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