9月10日夜 ニューアーク パラダイス・インにて

最愛の人アイゼン。僕はたった今、ささやかな計画を密閉していた箱を開いた。巣の中で壊れやすい卵を抱く親鳥のように僕の懐で静かに暖めてきたものが、ついに生まれ出でて明日その全貌を現す。僕の計画は、アッタの聖櫃に収められるべき崇高な計画に比べれば、可憐と言っていいほど矮小かも知れない。器量 の小さな男の嫉妬と私怨にまみれた悪意は三流紙のネタ以外相応しいものはないと思われても異議を唱えることは出来ない。しかし、僕はそれでも構わない。僕自身が26年間培ってきた市民としての良心や価値観と偉大なる計画との間に折り合いを付けられるのだから。僕の計画はちっぽけだが、歴史の英雄たちにも伍すほどの度胸を持つ鉄の男、完璧極まりないアッタに対してはどんな名刀よりも鋭く心臓をえぐる効果 がある。だから、どんなに世間から嘲笑を浴びようと、僕は後悔しない。堂々と神の謁見を受けることさえできると思う。もし神が僕の所業をお怒りのあまり地獄の羅卒へお引渡しになったとしても本望なのだ。

僕は先ほど、各部屋に孤座する同志達に対して最後の見回りを行った。昼間は思い思いの場所へ散っていた彼らもすでに部屋に戻り、聖なる書を開いて静かに待機していた。僕を認めると、アルハズナウィはすがすがしい笑顔で出迎えてくれた。次の部屋には底抜けな明るさのサイードがいた。天から降りてきた童子とは、まさに彼のことなのだろう。問題のハッサンの部屋に行くといつもと同じ冷淡と無感動の応対を受けた。ハッサンは逆に僕を観察するような態度だったが、もう気にする必要もないので僕は平然とメンバーの存在を確認する義務を果 たした。
最後にアルナミの部屋を訪れると祈りの最中だったが、中断して僕を招き入れた。今までの彼は自分の役割を自覚し、常に奉仕する態度を見せていたのだが、今夜は凛とした誇りに満ちてたたずんでいた。虜囚の王子はついに楔を解き放たれたのだ。祈りのために照明を落とした室内でも彼の顔が輝いているのがわかった。
「気分はどうだい?」
「不思議な感じがします。今夜ほど気分が晴れ晴れしたことってなかったんですが、すごく静かな心持なんです。何でもできるような自信があって、でも躁々としてるんじゃなくて平穏な気持ちなんです」
落ち着いた口調で語る彼の面持ちは、浄界の愛欲を超越しながら万物を愛する聖人のそれだった。僕を見上げた彼の目には天命を知った人間だけに宿る光が溢れ、僕の体を透徹して星の運行を見つめていた。
「今までこれほど満ち足りた気分になったことはないんです」
僕は後ろめたい気持ちになった。これほど幸福そうな彼を見るのは初めてなのに、これから僕が行うことは、彼が身を捧げてまで築き上げた輝かしい王城を粉々に破壊するに他ならないからだ。しかしその城郭は砂の城であることを彼は後に知ると、信じて青い小鳥を空に放つのだ。 普段は鈍感とさえ思えることもある男だが、今夜のアルナミの神経は研ぎ澄まされており、わずかな僕の動揺を感じ取ったらしい。
「どうしたんですか?」
僕は笑って答えた。
「何でもないよ。明日、空港に集合する手はずが頭の中から離れないんだ。君たちと何度も復唱したのにな」
「やはり大仕事ですし、あなたは責任者だから仕方ないですよ。早朝、ここをバラバラにチェックアウトして、飛行機の中まで顔は合わさないというのはやはり不安ですよね。でもきっと大丈夫です。僕たちはずっと一緒だった同志です」
アルナミは同志を心から信頼しているのだろう。楽天家だったらしい故郷での顔をわずかに覗いたような気がした。メンバーの行動よりもリーダーの僕こそ狙いは・・・僕は言葉を飲み込んで、彼の肩を叩いた。
「そうだな。これからもみんな一緒だ」
「どこまでもいつまでもね」
アルナミは、久しぶりの家族全員での外出を喜ぶ子供のように幸福そうだった。

「さあ、そろそろ僕も部屋へ帰ろう、おっと、これを忘れるところだった」
僕は持参していたジュースの瓶を見せた。この濃厚な紫色の甘酸っぱい液体はアルナミの大好物で、僕らが初めて出会った日にも、はるばる本国からやってきた彼の喉を潤すために用意していたのだ。
「これ、好きだったろう?」
「ああ、グランベリージュースですね!僕、大好きです。ありがとうございます」
「100%果汁だよ。祈祷の合間に飲みたまえ。じゃあ僕は行くよ」
アルナミはジュースの瓶を抱えたままドアの前までついてきた。僕は彼を省みて言った。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
ごく自然に挨拶を交わし部屋を出て駐車場から続く自室に戻る途中、ふと空を見上げた。前来た時は重苦しいスモッグのせいで星ひとつ見えなかったので、空を見上げる価値もないと思っていたのだが、普段なら悪臭を放つ工場群が週末の休みだったこともあって、ニューアークの空にもボストンそしてドイツと同じ星が天空高くに煌いていた。

 

 

母なる大地にも似たアイゼン。部屋へ戻った僕は沐浴もせず祈りもせず、精力的に活動している。善行にしろ悪事にしろ最後の仕上げをしくじったとしたら、無為の方が遥かに上等だろう。アッタは彼の偉大なる計画を、壮烈な、劇的な、雄々しいフィナーレに導きつつある。平行して僕は僕でささやかな計画を地味に女々しく、しかし疎漏なく完遂させるのだ。アイゼン、今こそ君に打ち明けよう。君をうんざりさせたかもしれないほど僕が粘着した計画とは、僕らの上に絶対専制主義を以って君臨するアッタへの復讐に他ならないのだ。君は信じられるだろうか、人好きのする優しいプレイボーイだけではなく、猛々しい心根を持つ匹夫が僕の中に棲んでいることを。アッタは僕を気づかぬ うちに調教して野生を封じ込め従順な奴隷に仕立て上げた。他の同志達も似たような状況だが、僕だけは生来の優柔不断さと悩み癖のおかげで、いつのまにか足に填められた重い鎖に気づいたのだ。ワナにかかった動物が鈍色の光沢を持った鉄から逃れようと何度も噛み付くように、僕も黒い足かせをはずそうとした。しかしそれた徒労であり自分を傷つけるのみならず、ますます猟人の思惑にはまりこんでしまうことになる。それならばと、鎖をぶらさげたままの復讐を思いついた。僕も傷つくが彼も同時に痛手を負うやり方で。 アッタは僕を信仰へと導いてくれたが、僕の烈しさも呼び覚ましてくれたのだ。

十字軍要塞のごとく堅固な城砦に守られたアッタの心には容易には入れなかったが。しかし難攻不落と言われたトロイの要塞ですら矢つぶてを避けながら城壁として積んだ大岩の隙間に接近してみると、中がわずかに、しかし確かにうかがい知れる。僕は眼を凝らし懸命に巨人の命を立つアキレス腱を探し続けた。そして解ったのだ。彼の弱点は、あのアルナミだった。日常は人づてか短く愛想のない言葉で苛酷な任務を下知するだけで、アルナミをまともに見ようともしない。彼は長年の同志ですら、疑念を感じると容赦なく切り捨ててきたので、端々の男に対しては路傍の石のような認識を持ってたとしてもおかしくない。アッタとは、自分の忠実な部下でさえ道具としてどれほど優秀か忠実か以外に関心がない男だと思っていた。巨傲な彼の私情に行き当たった時、僕は瞠目した。彼と同じまなざしを持つあのナチスのローゼンベルグも、真心を捧げる子羊を持っていたのだろうか・・・
彼のアシールの美青年への感情は僕と同質ものだった。つまりアルナミの生き身を精神の支柱となし、ギリシャ哲学におけるイデア─至高の愛を彼なりに捧げていたのだ。彼の愛は肉体を伴わない形至上的なものであるだけ、なまじの肉欲では到底敵うことのない強さと烈しさがあった。アッタの求める幸福とはまさに天上にて得るものであり、偉大なる計画がアルナミのために用意されたとまでは思わないが、同志として迎え入れたのは、彼にとって全く都合のいいことだったのだ。地上では汚辱にまみれていたアルナミは結局誰のものにもならず、清浄な天国で彼と共に生き続けていくと踏んだのだろう。それが彼の熱望であり、目的であり、福音であったのだ。彼は旅立ちの日を指折り数えていただろう。その日、彼は毛筋ほどの逡巡も覚えず、真っ直ぐに英雄になるだろう。一瞬の闇をくぐれば偉大な栄光と焦がれていた幸福が待ち受けているのだから。しかし、この僕が彼の野心を許しはしない。僕はクローゼットを開け紙袋を持ち出し、再び部屋を出た。

 

 

僕は暗い駐車場を通りアルナミの部屋の前に立つと、すばやく周囲を見渡した。深夜でも人の出入りがあるのがモーテルなのだが、明日は仕事が始まる月曜だったことも幸いし、出入りする車はなく全体が深海のように静まっていた。まずドアを小さくノックしてみたが、予想通 り応答はない。次にドアに耳を当ててみたが、人の動く気配もない。そこで下げていた袋から細長い器具を取り出し、鍵穴に当てゆっくりと回すと、数分後に鍵は簡単に開いた。パラダイス・インを選んだキーポイントは、鍵の開けやすさだった。行い正しきアイゼン、君はミケロッティが調達したコソドロが使う道具をこの僕が使うと聞いて、さぞ驚くことだろう。しかし安心してくれ。これは訓練キャンプで会得した細胞としての技術の一つであるので、決して僕が私欲のために行使したことはないと断言しておく。

ドアを開けると、スタンドだけに照明を落とした薄暗い部屋の床で眠るアルナミがいた。祈りの最中に崩れ落ちたままの無防備な姿勢で、アラベスク模様の小さな敷物の上に横たわっていた。僕はそっと近づき、頬を床に押し付けている彼の顔を伺った。アルナミは初めて創造された人間を思わす無垢な顔で小さく息をしていた。ためしに額を突いても目覚める気配はなかった。ミケロッティから買った睡眠薬を溶かしたジュースの効果 は著しかった。売人も兼ねた故売屋の弁が確かなら18時間は目覚めないというが、それほどでなくともいい。大いなる計画を乗せた飛行機が離陸するまで眠っていてくれたら充分だ。

僕は正体なく眠りこけているアルナミを抱き上げベッドへ寝かせてから、自分の作業を忙しく、しかし落ち着いて、始めた。まずテーブルに、紙袋から取り出した女性用衣類とサンダル一式を置く。そしてその上にパスポートを置く。パスポートは彼から預かっていたものではなく、ミケロッティが偽造したバーレーン国籍の女性の名義のものだ。聡明なアイゼン、もうわかっただろう。僕は蒼い小鳥を偉大なる計画からはずし、昔飛翔したあの大空へ還してやるつもりなのだ。それには、まず別 人のパスポートが必要だった。そして、明日、飛行場ではアルナミの搭乗手続きも僕が一緒に行う。念のため彼本来のパスポートは僕の手荷物に入れておく。機内を制圧した後、地上で吉報を待つ同志達に最後の挨拶を送る手はずとなっているが、その時に「つつがなく『真実の瞬間』へと向かっている」とだけ伝える。その後、当然起こるべきことが起こる。しかし信仰に殉じたはずのアルナミはモーテルのベッドの中にいる。つまりアルナミという存在をこの世から完全に消し去るのだ。

しかしアルナミが計画に参加しなかったことは、そのうち地上で待機する組織の工作員に嗅ぎつけられるだろう。鉄の包囲網がただちに広がり、空港や国境でアルナミを待ち伏せするだろう。もしアルナミが露見する前にアメリカを脱出できなければ、簡単に彼らに捕縛され、口封じと裏切り者への制裁としてなぶり殺しにされるだろう。ここで彼が女性としても違和感のない容貌を持っていることが生きてくる。いかに優秀な追跡者とても、若い女性のベールを傍若無人に引き剥がすわけにはいくまい。かくして彼は楽々と通 関し、姦淫や飽食など七つの大罪で汚れきった大国から出国するのだ。 それから残りのグランベリージュースはトイレに捨て、アルナミのトランクを開け、93便のチケットとわずかでも組織に関係ありそうな書物や品物を見つけ出すと、後で処分するためにカラになった紙袋に詰めこんだ。

そして僕は、ズボンのポケットからモーテルのレターセットにしたためた彼へのメッセージを取り出し、パスポートの上にそっと重ねた。内容は、今後の行動の指示と、僕がいかに彼に感謝しているか、どれほど愛しているか、また故郷に戻り僕も含めた同志達の来世を祝福するように懇願したものだ。蒼い小鳥には相応しい場所がある。アシールの小都市は、空と水と緑が美しい楽園だ。彼はそこで蒼い羽を休めて、瑞々しく蘇生するのだ。
アルナミがこれを読んでどう思うか、果たして僕の指示に従うのか、随分思い悩んだが、きっと彼は最終的に僕の願いを聞くだろと確信したから行動に出たのだ。

僕らのプロデューサーであるアッタは、今頃、ありあまる敬虔さを遺憾なく発揮して、祈りのために額ずいていることだろう。残酷な少年のようなひたむきさで、何度も何度も、朝日が昇るまで倦むことなく祈り続けているはずだ。彼は天の国でも彼自身であり続けるに違いない。まず自分の製作した筋書きが疎漏なく上演されたかを確かめるため、自分が役を割り当てた俳優たちに召集をかけて点呼を取るだろう。聞く者の肝を氷結せしめる独特の口調で僕らの名前を、正確に順序を守って読みあげるだろう。そして僕のチームに至ると、一瞬の躊躇を置いて、アルナミのフルネームを呼ぶに違いない。無論返答はない。彼は自分の思惑がはずれたことを知るが、別 次元の世界にいるアルナミを同志を使って罰する手立てはない。彼は断腸の思いで諦めざる得ない。一見完璧に見える彼の計画は、彼自身にしか見えないが小さくない瑕を持ったまま終結する。そこで僕の復讐も完結するのだ。

僕はベッドの上のアルナミの頬にキスをしてドアを閉めた。眼を閉じた彼はいつもと同じに愛らしくどけなく、見るものの心を奪う魅力に溢れていた。しかし僕は彼をそのままにしておいた。欲望が起きないのが自分でも不思議だったが、彼への僕の執着は、復讐の成就とともに浄化され、天上へ昇華していたのだった。

地球の女神アイゼン。僕のささやかな計画の全貌はこのようなものだ。長すぎた航海もようやく明日で終りを迎える。君の愛と復讐の二つが原動力になって僕はここまで、心の帆船を曳航してこれた。追い風は吹き始め、帆は果 てしない希望をはらんで大洋を巡航している。 喜んでくれ、アイゼン。輝ける新しい世界が、僕や君、そして全世界の人々目の前に開けているのだ。共に祝福しよう。

 



2003.9.11

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