鍛錬怠らぬ アイゼン。今年の5月、僕はフィットネスクラブに入校した。空手や柔道、拳法などの東洋武術も教える「スペリオル1フィットネス」は、アッタが住むハリウッドからほど近いダニアという街では結構名の通 ったジムだ。もちろんそこを僕に薦めたのは当のアッタ本人だ。カリブ海に面 したフロリダ半島の明るい気候に生える白いビルの三階にあるそのクラブは、清潔な雰囲気で様々なフィットネス器具をしつらえ、優秀なトレーナーがいると地元の人間にもかなりの評判を取っている由。経営者はドン・ロドリゲスというスペインに由来する姓を持つ、巌のごとく盛り上がる筋肉とスキンヘッドが特徴の威丈夫だった。後に彼が今年53歳になり、19でベトナム戦争にも従軍したと聞いたが、血色のよさや肌のつやから実年齢から遥かに若く見えた。ロドリゲスはいかつい外貌に似合わない婦人のような優しい声で、僕に希望のコースを聞いた。快適な環境でエクササイズを行いながらじっくりとレベルアップしていくのは、僕の理想でもあったが、もう要点を押さえる時間しか残っていない。
「攻撃の武術はいらない。制圧術の個人レッスンを受けたい」
ロドリゲスは僕の要請を奇異に感じたらしく、鋭い光を持つ瞳を見開いた。
「ほう、制圧術をね」
彼は僕のドイツ語なまりの英語に気付き「オーストリア人か」と尋ねた。君も周知のように僕の故郷はレバノンだが、以下のように答えた。
「いや、サウジアラビア出身です。今、航空学を学んでます。僕の志望はパイロットなんです」
「だが、どうしてパイロットが護身術を?」
「ええ。ハイジャックを押さえ込んだり、酔って暴れる乗客を取り押さえたりする必要があるでしょう。機内の安全は機長の仕事の一つです」
マッチョな筋肉男はこれで納得したらしい。さかんにうなづき「なるほどなるほど」とひどく感心した様子だった。

僕は毎週3回、午前中の空いた時間を狙ってクラブに通 った。ロドリゲスは見かけと違い親切な男で、理論的かつ熱心な教授だったので、僕の技はたちまち上達した。上達の秘けつは復習だった。僕はチームを代表して習っているのだから、帰宅するとアルナミたちを相手にその日の学習内容を伝授していたので、自然に反復していた訳だ。納得が行かないことがあると、僕は航空学を学んだ熱意を以ってロドリゲスに臨んだ。
「この前のレッスンで教わったことなんだが、友人に試したらうまくいかなかったんだよ。もう一度教えてくれないか」
彼はいやな顔ひとつせず手取り足取り教えてくれた。どこをどう押さえたら相手が動けなくなるか。腕をどうひねったら武器を手放すか。それだけではない。かつて特殊部隊に所属していた勇士は、武術の奥義さえ伝えてくれたのだ。
「大事なことは一つだ」とロドリゲスは断言した。
「パニックに陥らず、精神をコントロールして冷静に戦う意志を持つこと。日本の武道で言えば、サムライではなく、ニンジャとなるのだ」
「相手を威嚇するんではないぞ、警戒させずに忍びよって倒すんだ」
実際にジャングル、または砂漠でゲリラを相手に戦った経験のある男の言は説得力があった。僕たちの相手はベトコンでもイラク兵でも中南米の麻薬組織の傭兵でもなかったが、十分通 じる。僕は肝に銘じた。

 

 

「ジアド、これを飲めよ」
リフトアップマシーンで手足の筋力アップに励んでいた僕の目の前に、青と白の缶 が突然出現した。見上げるとロドリゲスがいて、スポーツドリンク二本を片手で持っている。口元には、スポーツマン特有の颯々とした笑みがあった。室内は閉館前でもう客もまばらだったので、僕らは筋力トレーニングマシーンの台座に腰掛けてドリンクを飲むことにした。 いつもと違い、この日僕が「スペリオル1フィットネスクラブ」へ行ったのは夜の部だった。僕は午前限定の会員だったが、アッタたちとの会合が思いの他長引いたので、追加料金を支払ってトレーニングしていた。丸一日中かび臭いモーテルの一室で、ある航空機のセキュリティホールを洗いなおすため、とある企業から引き出した情報を元に複雑な設計図を広げ、パソコンを何度も入力し直して、新たな材料を元に議論を繰り広げていた。むさくるしい男たちは口角泡を飛ばしながら議論を続け、倦むことを知らなかった。皆は異常な情熱に刈られており、それぞれが納得の出る結論に達するまで妥協しようとはしなかったので、長時間に及ぶ会議を厭うものはいかなった。会合が終了し、部屋から出た時はどの男も消耗し、脂汗で顔が照り黒々としたヒゲが浮き上がっていた。僕はエクササイズで爽やかな汗を流して陰鬱な疲労を流し消すため、帰りにクラブに立ち寄ったのだった。

「君は不思議なヤツだな」
ロドリゲスは白いタオルで汗をぬぐいながら言った。
「初めて見た時は、ヨーロッパ人かと思ったくらいだよ。到底中東の人間には見えないな」
それはそうだろう。アッタは制圧術を習得できそうなクラブを片っ端から調べ上げ、デルタフォースに所属していたロドリゲスの履歴に目を付け、ここを選抜したのだが、疑念を避けるため、アーリア人的な容貌と筋骨を持つ僕を差し向けたのだから。ロドリゲスは僕を気に入ったらしく、すぐに友達言葉で話をするようになった。アッタの慧眼はさすがだ。
「それにしても君は上達が早い。このままでは惜しいから、パスを長期に切り替えるつもりはないか?」
「いや、いずれドイツへ戻ろうと思っているし、短期パスでいいよ」
「惜しいな。あっちでパイロットになるんだっけ。だが、お前ならデルタのメンバーだと言っても十分通 用するぜ。それに格闘技の才能もあるし、精神力も特殊部隊向きだ。」
「ありがとう。でも僕はそんなにたいしたものじゃないよ」
しかし彼は僕の言葉を遮って続ける。
「いやいや、お前はたいしたもんだよ。いいガタイしてるし、ハンサムだしな」
先ほどから彼の賛美にはこそばゆい思いをしていたが、ハンサムとまで言われて僕は赤面 した。
「照れるじゃないか。やめてくれよ、ドン」
「なあ、ベトナムで一緒だった戦友が、今レンジャー部隊の偉いさんなんだ。何なら会って見ないか?レンジャーならいずれデルタにも入隊できる。それにこれからの軍隊にはアラブ人も必要になるって言ってたな。もしお前にその気があるなら、俺が推薦するぜ」
歴戦の勇士を選抜したレンジャーの指揮官にもし会えるなら何か収穫があるかもしれない。米軍がアラブ人を欲するということは、次の作戦のターゲットは?ただ下手に動くと藪から蛇を突付きだす結果 になる場合もあり得るので、一応保留とした。やはり一旦アッタの指示を待つべきだろう・・・僕は見事に飼いならされた自分を感じ、心の中で自嘲した。
「どうした?」
僕の微妙なかげりをロドリゲスは見落とさなかった。
「いや、ちょっと疲れててね」
「もう閉館だし、今からメシでも食って行こう。帰りは送るよ」
ちょうど空腹を覚えた頃だったので、僕は好意溢れる申し出を承諾した。

 

カリブ海からの湿った風が肌にまとわりつく晩だった。僕は店じまいをしているロドリゲスを待つ間、夜目にも積乱雲の乱れがわかるどんよりした空を見上げていた。明日もし雨が降ればコンドミニアムで皆を集め、今日の会議の報告と格闘技の講習でもしようかと、ぼんやり考えていると、派手なアロハに着替えたロドリゲスがビルから出てきた。
「待たせたな。レストランはこの近くだから歩いて行こう」
大通りに出るまでは人気のないビルの谷間がしばらく続く。あまり治安がよくないフロリダなので僕は懸念したが、地元の住民である彼が大丈夫だと言うので従った。灯りの消えたビルは黒々とした不気味な影を落とし、不審人物が飛び道具を懐にして獲物を待ちながら潜むには好都合だった。こんなところでつまらない強盗事件に巻き込まれて終わりたくない。僕にはやらねばならぬ ことがあるのだから。 すると右の前方のビルに併設されている非常階段の下にあるブリキのポリバケツが、派手な音を立てて動いた。
「!」
僕はとっさに身構えたが、それはどこにでもいる野良猫の仕業だった。
「大丈夫だ。この辺はまだ安全なんだぜ」
ロドリゲスは僕を安心させるように軽く笑い、肩をポンポンと軽く叩いた。小心な自分を恥じた僕は、照れ隠しに振り返って微笑んだ。すると彼はもう一度「大丈夫だ」と言いまた肩を叩いた。彼の手は次第に緩やかになり、さするような動きに変わっていった。無骨な手が、僕の二の腕を優しく撫でながら降りて行く。後から考えると彼は僕の笑顔を誤解したらしい。彼の無骨で節くれだった手の中に自分の手が包まれると気持ち悪さを我慢できなくなった。体を寄せてきたのを力を込めて振り払い、厳然とジムのインストラクターを見据えた。
「一体どういうつもりなんだ!」
「ジアド、俺は、君が好きなんだ・・・初めて見たときから・・・」

よく手入れされた口ひげをゆがめて請うような表情を浮かべている彼が、暗いビルの陰からのぞく大通 りの明かりで見えた。僕はここもアメリカだということを忘れていた。ここは、最新のセックス産業の発信地であり、個人の自由という大義名分の元にあらゆる背徳や悪徳が容認されている、21世紀のソドムの一角だったのだ。このマッチョな男の中の男とも言うべき外貌を持つドンも、退廃が体の奥にまで染み込んだ悪魔の都市の住人だったのだ。
「悪いがドン」
僕は出来るだけ平坦な調子で、しかしきっぱりと言った。
「僕にはその趣味はないんだ」
「おお、ジアド」
特殊部隊ではつわものとして鳴らしたのがありありと解る不敵な面構えの男だが、この時ばかりは気の毒になるくらい哀れな狼狽ぶりを見せていた。剃り揚げた頭をかきむしる動作を繰り返し、ゆがんだ顔からは大粒の涙がこぼれた。
「すまない。俺はてっきり君も・・・クソ。俺はなんてことをしたんだろう?」
しかし、僕の方へ向いてひざまずき大仰な身振りで十字を切り出したのには、少々げんなりした。
「許してくれ。ジアド。俺は最低のバカヤロウだ」
「もういいよ、バート」
僕は半ば呆れながら言い、筋肉の盛り上がった腕を掴み立ち上がらせた。
「今のことは水に流そう。君は悪いことをした訳じゃないし、僕への友情は嬉しいんだから」
そうだ、この男からはまだまだ習うことが山ほど残っている、ここで決裂することは出来ない。怒らさず、傷つけず、扱わねば・・・・
「ありがとう、ありがとう。ジアド。俺の友情は本物だよ」
彼は安心したのかやっと立ち上がった。
「さあ、ドン、行こうか」
僕はまだ何か言いたげなロドリゲスを促し、色とりどりのネオンが明るい大通 りへ向かった。

正常なるアイゼン、ロドリゲスの逸話を君はどのように受け止めただろうか?思わず失笑しただろうか?それとも耐え難い嫌悪感を覚えて眉をしかめただろうか?見事な筋肉を誇る男ほどその傾向があるとは知っていたが、自分が欲望の対象にされるとは思いもよらないことだった。同性から愛の告白を受けて僕は戦慄した。君も知っているように僕の情動はあくまでストレートにしか作用しないのだから、ロドリゲスの好意が無に帰したのは当然の結果 だ。だがこの矛盾した論理の危うさを聡明な君はすぐに気づくだろう。ではアルナミは?アブハから来た青年への執着は?と問うに違いない。これまでの陳腐で惰弱な、そして粘着した告白の半分以上が、アルナミへの禁じられた愛欲なのは僕も認めている。毎夜彼を獣に売り渡す唾棄すべき人肉業者の僕が、女衒の本性を顕わにして醜い欲望を彼に注ぎ込んでいるのも事実だ。しかし僕にとって、おそらく他の男たちも、彼は性を超越した存在でもあるのだ。語弊があるならば、セックス以上の存在と言い換えさせてくれ。アメリカという敵地で、いまだかつてないほど充実してはいるが、極限の精神状態に常時置かれている者にとっては、普遍的で温柔な美を持つ青年は、聖なる書と共に精神の拠り所なのだ。彼と初めて結ばれた夜の話を思い出して欲しい。僕は一時期偉大なる計画に対して懐疑的になっていたが、アルナミによって世界を正常に戻すために身を捧げる決意を取り戻した。おそらく他の男たちもアルナミをそのように愛しているに違いない。それぞれやり方は嗜好により異なっていても。どうか自分の変態性を取り繕う言い訳だと取らないでくれ。僕という男の根本はハンブルグ時代と変わっていない。ただ正義に目覚めただけなのだ。

さて、衝撃の告白後も、僕は知らぬ 風を装いロドリゲスのジムへ通い続けた。彼の親切さも気さくさも以前と変わらなかった。だた時折、恋焦がれた視線が僕に絡み付くことがあったが、受け流して男の友情を深めればいいだけだった。 格闘技のレッスンは順調に進み、帰宅してからの僕の講習会も盛況だった。数人ずつのグループが日替わりで制圧術の講習を受けに来る。アルナミに会えない日は、風俗店に入り浸ったり、デルレイビーチで金髪女の尻を追い回している軽薄なモケドでさえ、デートの約束を断り真面 目に出席していた。僕はワープロでテキストを作っておき、それを元に講義を始めることにした。文章ばかりでは飽きてしまうし、伝わりにくいことも多いので図解することにしたが、僕は生来絵が下手だった。君も僕のスケッチを見て噴出したことがあったのを思い出すに違いない。
「僕が手伝いましょうか?」
思いがけなくアルナミから助け舟が出た。
「そりゃ助かるな。でもいいのかい?」
「僕、絵は好きなんです」
彼はスケッチブックを僕に示した。そこには僕の横顔のクロッキーがあったのだ。
「勝手に描いてすみません」
アルナミは白い頬をうっすらと染めた。
「昔は絵で優等賞を貰ったこともあったんです。友達の似顔絵も冗談で描きました。でも偶像は禁じられていますから、もうずっと描いていないのでヘタになって・・・」
アルナミは謙遜したが、デッサンもしっかりしており、僕の特徴でもあるアーモンド型の瞳や広い額をきっちりと写 し取っていた。
「いや、ヘタどころか、すごいじゃないか。上手いよ、よく似ている」
「これはカラテの型です」
彼は僕の言葉に自信を得たのか、次のページも見せた。二本の指で目潰しをする男が動的に描かれていた。
「ぜひこれからは手伝ってくれたまえ。アルハズナウィやサイードと型を演じるからそれを描いてもらおうか」
「お手伝いできて嬉しいです」
アルナミはスケッチブックを静かに閉じた

 



 

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