「悪魔に心を売り渡したものは天罰を受ける義務がある」
アメリカに来てからローズマリーの言葉は、僕にとって一つの箴言となった。エゴイズムに満ちた唯一の超大国や、それに随従して盟主を気取る現代のフバルを罰しようとするあまりに、人の心を失った彼─アッタも悪魔ではないのか。偉大なる計画を推進する中で犠牲になった、また計画が成就された時に命を失う予定の人々の中にはアッタや僕らと同じ信仰を持つ人間も少なくない。それに彼はアルナミ─健やかな肌と黒い髪の美しいアシールの青年を、猛獣たちへ与える生餌とした。悪魔に捧げる生贄とした。黒いびろうどの布を延べた祭壇に裸で横たわる彼のところに、毎夜地獄の羅卒たちが来て、彼の新鮮な若い肉を貪り食う。僕は食い散らされたアルナミの体を抱きしめ愛の香油で清めてやる以外に彼を慰めることは不可能なのだ。僕もアッタの道具なのだから、彼の意志に逆らうことはできない。アッタがこれからやらんとすることは正しい、だが・・・
突然後方から赤い光が差し込み、フロントガラスを掃いて薄闇に去った。僕ははっとして我に戻った。バックミラーを覗き込むと同時に暗い高速道路一杯に甲高いサイレンが鳴り響いた。長方形の鏡の中にはせわしなく回転する赤ランプを屋根に載せた車が映っていた。パトカーはエクリプスに向けてライトがパッシングを始めた。ハイウェイパトロールの警察官が僕に停車を命じているのは明らかだった・・・僕は全身から血の気が引いていくのを意識した。
気丈なるアイゼン、僕の本質をよく知る君は僕の狼狽を容易に想像できるだろう。その通
り、僕の心中は様々な予感の恐怖に襲われていた。アドレナリンの血中濃度は著しく上がっているはずで、心臓は激しく波打ち、こめかみが圧迫され眩暈さえ感じた。だが、耐えねばならない、と声に出して自分に言い聞かせ続けた。落ち着け、落ち着け、落ち着くんだ・・・!ハンドルを握り締めながら呪文のように繰り返した。すると突然アッタの冷徹な顔が浮かび、透徹したまなざしで僕を見据えて言う。
「同志ジャラヒよ。これは試練なのだ。君は聖なる書の教えにより異教徒を欺き、我々偉大なる計画を遂行せんとする者を救わねばならない。君の神への信仰と忠誠を示すのだ。神は君と共にある。勇気を出すのだ」
そうだ。警官はおそらくスピード違反で僕を止めようとしているのだ。ハイウェイパトロールにまで僕が手配されている訳がない。アメリカでは殊更に善良な市民として振舞っていたのだがら。思考するあまり、ついアクセルを踏みすぎただけなのだ。そして右ウィンカーを出しブレーキを軽く踏んでスピードを落とし、フリーウェイではすぐに見つかる停車スペースに車を寄せて止めた。追尾していたパトカーも後に続き停車した。行き交う車のライトが、特徴のある警帽を被った二人の男がセダン型の車から降り立って出来たシルエットを浮かび上がらせた。
「ヘイ、君、どこへ行くのかね?」
彼らは、太った中年男と背の高い20代半ばの青年のコンビだった。まず中年の方が窓ごしに僕に話しかけた。語尾にイタリア訛りがある。肉のよく実った赤ら顔の市井のおやじといった風情だ。だが腰のベルトにはアメリカの警官が好んで携帯するグロックが垂れている。黒い皮のホルスターが銃身を包み隠しているが、グリップ部分がつや消しの鈍色を帯びているのが見えた。若い警官の拳銃は銀色に光っているのを見るとどうやらリボルバーらしいが、ベルトについたホルスター付近に軽く手をあて、どんな事態にも対応できるようにと、僕の動きを無言で監視している。おそらく心中では銃口をこちらへ向けトリガーを引いているはずだ。その様子は真銃の迫力とあいまって僕を脅かしたが、不審を感じさせれば最後なので恐怖を克服せねばならない。僕は害意を持たないことを示すため、まずにこやかに挨拶することにした。
「こんばんわ、おまわりさん、いい夜ですね」
「いい夜なのは確かだが、スピード違反だよ」
「ええ?考え事をしている内に、つい・・・一体僕はどれだけスピードを・・・」
「80キロオーバーしてたよ」
「ええ!そんなに!本当に申し訳ありませんでした」
彼らは、僕の人好きのする顔立ちやさわやかな物言いに少し警戒心を解いたらしい。
「先の質問の答えを聞き、君の免許書を預かり違反切符を切ったら開放するよ。君もは協力してくれるだろう?」
「まず、行き先と目的を答えてもらおう」
「ニューアークのパラダイス・インへ行きます。あの・・・彼女・・・と待ち合わせているんです・・・」
これを聞いた途端、二人の男たちは顔を見合わせ微笑んだ。
「じゃあ手早く済ませよう」
僕はアメリカで暮らしてから取得した免許証をパースから取り出した。白頭鷲のマークがついた正規の免許証だから、不審な点は毛筋ほどもないはずだ。ジアド・ジャラヒ26歳。レバノン国籍、住所はフロリダ・ハリウッド・・・
年長の警官は若い警官を促し違反切符を作成させた。彼は肩から下げていたカバンから小切手帳のような切符を取り出し、何事かを書き込み始めた。
その間中年の警官は、本来の人の良さを見せて僕に話しかけた。
「君はレバノンから来たのか。全く欧米人に見えるね」
「よく言われます」
「こっちへは仕事で来たのかね。いつまで滞在するんだね?」
「今は航空技術や航空工学を学んでいます。フィアンセがいるので一年以内に本国に帰ります」
フィアンセという言葉が彼の興味を惹き、話題がアメリカでの活動から変わったのは、僕には好都合だった。
「そのフィアンセがモーテルで待ってるんだな?そりゃ楽しみだな。」
僕は返答に詰まった。モーテルにいるのは、君でも女性でもないアルナミだったのだから。
「・・・いえ、違うんです。フィアンセは本国にいます」
このアメリカ的な答えに、二人の警官は破顔した。
「わっははは。そうだろう、そうだろう。君はいい男だ。女が放っておくはずがないさ。
考え事とはそれだったんだ、そりゃスピードの出しすぎも気がつかんよな。でも事故を起こすとフィアンセにも彼女にも会えなくなるぞ。わっはははは!」
「すみません・・・」
「巡査長、出来ましたよ」
若い男は違反切符を僕に示した。長方形の紙片には、二週間以内に罰金を、交通
省名義の口座に振り込む旨が印刷してある。金額の260ドルだけが青いインクで書き込まれていた。僕は罰金の支払いを約束し、彼らの任務をねぎらいつつ、エクリプスを発車させ、車の波へと戻った。ラフルローレンで買ったダブルカフスがお気に入りの青いシャツは、冷たい汗ですっかり濡れていた・・・
僕の柔弱な心根が油断を生み、予期せぬ
危機を呼び込んでしまった。最悪な事態は切り抜けたが、僕の身振り一つで偉大なる計画を瓦解させてしまう事態も起こりえたのだ。幸いアッタの冷徹さが乗り移ったかのように冷静に対応できたが、瀬戸際で彼の言葉を思い出すとは、根深く彼を憎悪しつつも自分で考えるより遥かに依存しているらしい。僕の唇には自嘲の笑みがこぼれていることだろう。もう僕は彼の呪縛から開放されることはない・・・アイゼン、笑ってくれ。しかし・・・アルナミは・・・僕はスピードメーターを確認してから再びアクセルを踏み込んだ。
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理知的なアイゼン。完遂までわずかとなった大いなる計画での同志ザカリアス・ムサウイが逮捕され、僕らのチームには欠員が出来たことは前に話したと思う。アッタはムサウイを即座に切り捨て、すばやく新しい仲間を手配した。これまでも世界を股にかけて活発に活動していたヨセフ・ビナルシブは、その有能さが足かせとなり、アメリカに入国出来ず終いだったが、この男の経歴にはなんの疵もなく、簡単に入国出来た。本名は知らないが、彼が使用した盗難パスポートには、ハッサン・アルフセインと記されていた。23歳、わずかに縮れた黒髪をポニーテールにまとめた中背の姿のいい若者で、小麦色の利発そうな顔立ちをしていた。
「彼が新しい同志だ。」
アタから紹介された僕は、彼がアルナミと同じアシール州アブハの出身と知り、南西部の地方都市住む人々の容姿が優れているのを実感した。
もう残り少ないアメリカ生活だが、ハッサンの最後の夏が充実した日々であることを願い、僕はサイードとアルナミにハッサンの面
倒を見るように依頼した。思えば彼らがフロリダの地を踏んだのは、紺碧のカリブ海沖で積乱雲の活動が目立ち始めて初夏の気配が漂い始めた5月だった・・・
たった4ヶ月ほどの同居生活だが、アルナミとサイードは兄弟のように仲がよくなった。今年の夏は、フロリダ名物ハリケーンの襲来はなかったが、未発達に終わった竜巻が変貌した低気圧の影響で豪雨が多かった。そんな強い雨が降る日、二人が人の消えた海岸でたわむれている姿を偶然見た。遠目から見る二人はどこにでもいる若くて意気のよい青年だった。強風の吹く砂浜にあえて身をさらし荒い波に打たれてよろめくサイードの姿に、腹を抱えて笑い転げるアルナミ。彼は若者らしい闊達な身振りで転倒した友人の腕を引き上げる。機敏に起き上がり、彼に飛び掛るサイード。明朗なサイードといる時だけは、アブハでの彼に還れるようだった。満ち溢れる若さと生気は少し離れた堤防に止めた車の中にいる僕にさえ明らかだ、今の彼は彼でない・・・僕の前でさえも彼は与えられた役割─僕らの支配者アッタから─を演じているのだ・・・
「ジャラヒさーん!」
機転が効くサイードが、赤いエクリプスを見つけて叫んだ。僕は窓から手を振る。彼らは濡れた砂を蹴り、階段を駆け上がり車に寄って来た。
「高波にさらわれると危ないぞ」
「僕は大丈夫ですよ。あんなのチョロイや」
20を過ぎても腕白小僧のようなサイードが片目をつぶった。
「もう帰ろう。気が済んだろう、サイード?」
「そだな、そろそろ帰るか。あ、ジャラヒさんもしかして迎えに来てくれました?」
僕はアッタと湾岸沿いのデニーズで会食して帰途についたところだった。コンドミニアムへ戻るのは同じだが、びしょぬ
れで砂まみれの彼らをこのまま愛車に乗せるのは・・・
僕が逡巡しながらうなづくと、サイードは飛び上がって喜んだ。
「ありがとう!じゃあ乗ろうぜ」
ちゃっかりものだが、憎めない男だ。僕は苦笑した。
「ハッサンはどうしたの?一緒じゃないんだね?」
三人で地元の小さなジムに通っていたので、当然ハッサンもその辺で雨宿りをしているのだと思っていたから、何の気なしに聞いてみると、助手席に陣取ったサイードが逆に質問してきた。
「あいつ、一体どういう奴なんです?」
「え?彼に問題でもあるの?」
「サイード・・・!」
「いいじゃん。この際だからジャラヒさんに言っておこうよ」
サイードはアルナミの躊躇を遮った。彼はハッサンを快く思ってないらしい。
「あいつ、あんまり話さないんです。それは性格だから仕方ないんだけど、時々誰かに連絡してるみたいなんだ。さっきだって黙ってどこかへ行ってしまったんですよ」
サイードの訴えを聞いて、僕はフロントガラスに掛かる雨をワイパーが左右に弾くのを通
して前方を見ながら、ハッサンの行き場について考えてみた。ハッサンが来た8月から計画の実現へ向けて何度も現地へ飛んだりと多忙な時期にあたり、彼と話したりその人となりを観察する余裕はなかったので、完全にアルナミとサイードに任せていた。馬が合わないのは仕方ないが、不審な行動はそのままにはしておけまい。まさか当局のスパイか・・・?僕は最悪のシナリオを連想した。しかしあのアッタの斡旋なのだ、そんな手落ちがあるはずがない。それでは・・・?
僕はハッサンの顔を思い浮かべた。その面
輪はよく整い、アルナミとも共通点のある南西部特有の怜悧な顔には黒い大きな瞳が光っている。しかしアルナミのそれが黒曜石のように濡れてたゆたう輝きを帯びているのに対し、彼の眼は硬質の、鉄の鋭い光を放っていたのである。これは・・・形は違うがアッタと同じ眼をしている。先刻デニーズを僕が出る時、アッタは誰かの連絡を待つ気配を漂わせていた。もしや、ハッサンは監視のためにいるのか?アッタが同志の間に監視役を設けているのは、前から知っていたが、この僕に対してか?二人の目が重なって僕を見据えた。
「危ない!ジャラヒさん!」
アルナミの叫び声で、僕は我に返った。すると前を横切る老婆がいた!慌ててハンドルを切り人身事故を回避する。タイヤが水しぶきを巻き上げ、通
行人から野次が飛んだ。 同乗の二人は心配してささやいた。
「危なかったなあ・・・気分でも悪いの?」
「もしよかったら運転変わりましょうか?」
僕は「いや、だいじょぶだ。車の掃除のことを考えていたんだよ」と、自分に言い聞かせてハンドルを握りなおした。
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友多きアイゼン。僕のチームでの右腕は、アルハズナウィだ。彼が僕らと同居していることは前にも話したが、彼は、由緒あるモスクで長を勤める聖職者の息子らしく信仰心に篤い青年だったが、父親の反対を押し切ってチェチェン義勇兵に応募したという意志強固な男でもあり、最悪の紛争地帯で激闘した実戦経験を持つ。往時については茫々として語らないが、僕の指令を染み入るような表情で聞き、確実に実行してくれる。その深鎮たる態度は、優良な兵士の典型だった。僕がベガスやメリーランドで他の同志と最終段階の詰めに入るため、コンドミニアムを空けることが増えた時、彼にならあの恥ずべき任務も任せられた。それは・・・アルナミの夜のスケジュールである。彼はこの不愉快で背徳的な汚辱に満ちた任務を、黙々とこなし、事後報告も欠かさなかった。もちろん、さすがにあの永遠に呪われた覗き穴のレポートについては、委託できなかったが。アッタも僕の移動期間中は報告を要求しなかった。僕は、留守の間のハッサンの言動についてアルハズナウィに尋ねた。
この篤実な男の話を聞いていると、やはりハッサンがアッタと連絡を取っている匂いは濃厚だった。
「いや、別に不審には思えなかったんですが・・・。携帯電話で話してるだけだし。どうもドイツ時代の知り合いのようなので」
僕の副官は信頼するに足る人物だったが、やはりまだ若かった。
「留学経験があるのは不思議ではないが・・・彼はアブハ出身だったが、アルナミとは仲がいいか?」
「さあ、話はほとんどしていませんが、特にケンカをしたこともないようですが」
アルハズナウィは彼特有の丸い目を見張って答えたが、核心を掴むことはできなかった。ここで気弱に逡巡していても仕方がない。僕とて統率者として組織の一翼を占める男だ。ハッサンに直接当たってみるべきだと思った。
ハッサンは僕の尋問に対して悪びれることなく自分の役割を認めた。
「おっしゃる通りですよ。僕はアタさんから派遣されたあなたの監視役です」
恬淡すぎる態度には、逆に質問者の方が狼狽させられるものだ。 多少の焦りを感じながら。何故簡単に自分の役割を告白するのか、それでは役目を果
たせないではないかと、詰問してみると、 こんな答えが返ってきた。
「もしあなたが気づいたなら、監視役であると話してもよいとリーダーから指示を受けていましたからね」
平坦な口調であったが、アッタの権威を嵩にきた冷酷さが、ハッサンの整った鼻梁に表れている。僕は彼の背後にいるアッタの姿を見て、悔しいことだがこのふてぶてしい諜者に威圧感を覚えた。
「僕たちは決して裏切らない。監視など不要だ」
重圧を撥ね退ける気概で言い切ると、「おそらくあなた個人はそうでしょう。保険だと思っていただければいい。それに他の同志にもそれぞれ監視はついているようですから、気にしないでご自分の仕事に邁進なさい」。
アッタはこんな男をどこから見つけてきたのだろう?彼は今までどこで何をしてきたのだ?僕はかなり激しい不快感を覚えたが、強いて押さえて出身地を尋ねると、彼の鼻先を愚弄がかすめたが、
「アブハですが、何か?」と答えた。
「それにしてはアルナミと親しまないのは何故だ?監視するのに仲間としての情は不要とでも言うのか?」
すると彼はあからさまに侮蔑の表情を浮かべた。
「親しむ必要などないでしょう。僕はアルナミになど興味はない。彼は黙って好色な同志に奉仕していればいい」
僕は端整な顔をまじまじと見た。冷淡で聡明で傲慢で慇懃で無礼の強権ぶりは、その主人にそっくりだった。やはりアッタは適材を適所に配置する天才だ、もうこの男とは話す必要はない。僕を監視したくば好きにするがよい。僕は話を唐突に打ち切って、彼に背を向けた。
「あなたもアルナミに必要以上に憐憫の情とやらをおかけにならないように。アッタさんは全部ご存知ですからね」
ハッサンは立ち去ろうする僕の背に、追い討ちの言葉の矢つぶてを投げつけた。かつてアッタにも似たようなことを言われたのを思い出した。僕の血潮は沸点を超えた。今まで抑えていたアッタへの憎悪が、一気に堰を切って氾濫していく。許せない、おびえるのはもうたくさんだと、拒否するように肩を怒らせて部屋を後にした。・・・この時から僕の主題は、奴隷の忍従から青い小鳥は元の楽園に戻
すという復讐へ移行する。
有能なるアイゼン。僕が行わんとするささやかな復讐を決意した瞬間を、君に吐露した訳なのだが、一旦主題からは離れるので承知してほしい。
僕の話すことはバラバラであるように見えるが、すべては大いなる計画を核として集約されていくのだ。君も愛するベルリン・フィルハーモニーのオーケストラのように、各人はそれぞれの楽譜を自分の楽器で奏でながら演奏曲を織り成し、全体として調和していくと思ってほしい。無論僕の知性では、世界に冠たるフィルハーモニーには及びも付かぬ
ので、たとえとしては不適当だが、他に思い付きようがないので、僕の稚気を笑ってくれていい。
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