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「ナチスは、彼らは悪魔です」 「しかし開戦後の進撃が止まると、ナチスは各地でユダヤ人狩りを激しく行うようになりました。もちろん戦前からユダヤ人を取り締まる方針の政権でしたから、大都会ではゲットーが設けられ、彼らは黄色い星を付けてそこに集団で住んでいました。ええ、もちろん裕福な人々は外国へ脱出しましたよ。ユダヤ財閥がドイツの大銀行を経営し国を牛耳っていることを苦々しく思っていたドイツ人も多かったので、彼らのことを聞いても特別
かわいそうだとは思いませんでした。でも・・・ナチスはやりすぎました。アウシュビツ、ダハウ・・・後から事実を知った時、ドイツは世界に対してもう顔向け出来ないと思いましたよ」 「『ここの責任者は誰だね?』コツコツと石畳を鳴らす軍靴の音と抑揚のない調子で氷河を連想させる声が凍りついた会場に響きました。黒い服の男達は、そうです。彼らはヒトラー親衛隊員だったのです」 「親衛隊員は5,6人しかいなかったのに、圧倒的な存在感を以って私たちの間を恐怖で席巻しました。その先頭に立っていた背の高い男が一行のリーダーで、会場を戦慄させた冷ややかな声は彼のものだったのです。男の問いかけにバイエルン連隊の隊長は群集の間から慌てて出てきました。男は底冷えのする青い目で実直そうな隊長を見ると、黒光したブーツを鳴らして敬礼し自分の名前と階級とを名乗りました。『自分はベルリンの本部から参りましたハインリッヒ・フォン・ローゼンベルグ大尉であります。』上官に対しての言葉使いは階級制を重んじる軍紀通
りでしたが、総統閣下の直属という待遇に狎れた尊大さが態度からにじみ出ていました」 慈悲深いアイゼン。僕が何故ドイツ人の歴史や異教徒の受難について固執するのか不審に思うかも知れない。しかしローズマリーの逸話はある人物への僕の感情と重なっていくのだから、もう少し辛抱して欲しい。このドイツの年老いた語り部は、現在の僕の迷いを解くある重大な決心の要石になったのだから。
死神の眼。僕はその時は漠然と少年時代ハリウッドのホラー映画で見たステレオタイプな妖怪を連想しただけだったが、後年まさしくこれに合致する瞳に出会って戦慄した・・・
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そしてシュタイナーがユダヤ人だったことが、この後判明して事態は急展開を迎える。 親衛隊の長は黒いマントをバイエルン連隊の従卒に預けると、やじ馬たちには眼もくれず真っ直ぐに白い家に向かいました。人々の上には恐怖と好奇心の入り混じった沈黙が流れました。私は友達の存在を忘れ、物見高い人々の間を掻き分けて最前列へ出ました。ローゼンベルグが家に入り10分も立たない内に、シュタイナーさんが出てきました。彼はいつものフロックコートを着て街の本屋かどこかに出かけるかのように淡々としていました。全く普段と変わりない様子だったのです。両脇に黒い制服のSS隊員が、後に銃を構えた灰色の制服の兵士さえいなければ。シュタイナーさんは彼らを運んできたトラックの後部に乗せられて住み慣れた家を後にしました。白い家はそのまま廃屋になって朽ち果 てました」 「彼が連れ去られた後、固唾を呑んで見守っていた人々の緊張はほどけ、あれこれと噂をしあいながら思い思いの方向へ散り始めました。『ローズマリー、もう帰ろうよ』ブロイデが私を促しましたが、頷じえませんでした。家の中にはまだSSの指揮官が残っています。恐ろしくもありましたが、ことの顛末を最後まで見届けてやろうという好奇心がより勝っていたのです・・・それからしばらくして、古いオーク材の扉が重々しい音を立てて開き、5.6人の黒い男達がローゼンベルグと共に出てきました。ローゼンベルグの様子は彼の部下である他のSS隊員とは明らかに違っていると思いました。その気品に満ちた面
持ちや典雅な物腰からは、彼が領主階級の出身であるのが一目で見てとれました。端整な横顔には、代を重ねて熟成された血の冷たさという複雑な遺伝が現れていたのです。私は残酷さと優雅さはヤヌスの鏡でもあることをこの時実感しました。
ローゼンベルグが車に向かって歩みかけると、横にいた部下が何事かを耳打ちしました。自分達の主人が薄い唇を緩めたのを見た忠実なしもべたちはすぐに引き返しました。彼はかすかな身振り一つで部下を意のままに操作するすべを心得ていたのです。男達は、私が前に覗き見した時に見た蓄音機と数枚のレコードを抱えて戻ってきました。『フィリプス社製の高級品と大尉殿のお好きなワグナー全集であります』ローゼンベルグのブルーグレーの瞳がキラリと光ったのが見えました。『ワグナーは誰のタクトかね?』『クナッパーツブッシュでありますが、よろしいでしょうか?』ローゼンベルグは、髑髏の不気味な帽子を取り、ほとんど色のない金髪を整えて被りなおしました。『我々だけで聴くのであれば差し支えあるまい。ベルガー曹長、私は数年前ベルリンのオペラハウスで、彼のワルキューレを聴いたが、あれはまさに至高の楽劇であったよ』『では今晩宿舎にご用意しておきます』部下達はワグナー好きな上官のために気を利かせて、シュナイダーさんの蓄音機とドーナツ版を家から徴発したのでした。 ここでローズマリーの話は終わった。怜悧なるアイゼン。当時の僕は、シュタイナー氏の受難の物語を我が身には全く無関係の過去の大戦の一場面
として受け止めていた。ナチスの選抜エリート集団のSSという存在には興味が湧き、先にも話したように図書館でローゼンベルグの人となりを調べたほどであったが、それ以上ではなく、じきに日常に忙殺されて記憶の底に沈んでしまった。この領主階級出身の端麗なSS隊員の存在が蘇るのは、ある人物との邂逅を待たねばならなかった。
我々ムスリムのあらゆる不幸の原因である不倶戴天の敵ユダヤ人の迫害者もまた敵である。そんなものを敬虔な信仰心を有するアッタをなぞらえるのは明らかにお門違いであり全くの暴論かも知れない。しかし人間の系譜は人種や宗教を超越して存在する。アッタとローゼンベルグは同じ体質の人間だ。この思いはアメリカへ来て、アッタと偉大なる計画に邁進すればするほど僕の中で確信に変わって行く。そしてドイツでローズマリーがローゼンベルグの末路について述べた言葉が蘇る。 悪魔に魂を売り渡す。まさにアッタはそうではないのか。彼は偉大なる、しかし恐るべき計画を推進している。科学者が真実の使徒としてわずかな疎漏も見逃さないように、彼も計画のほころびを的確に察知し、抉り出す。僕は臆病風に吹かれて彼の指示に反した同志が処理されるのを数度見た。その時の他の仲間たちは、北洋の氷山ほどの質量 を持った彼の意志に圧倒されて無言だ。もちろん僕も沈黙している。被疑者は手振り身振りをまじえて命乞いをするが、アッタはいつもの無表情で報いる。彼の薄い唇がわずかに動き、それを決して見逃さないアルオマリが側に控えているアルシェヒ兄弟に耳打ちする。彼らは強い腕っぷしを発揮し、涙と錯乱で正気を失った男をひきずっていく。この間アッタは眉毛一つ動かさない。一言「最後の慈悲を施してやるように」とだけ屠殺者に告げる。隣の部屋から聞こえる長く尾を引いた断末魔を聞いた男達は、それぞれ個性に見合う反応を示す。飛び散る血を思い浮かべて興奮する気性の激しいもの。気の弱い質の男は唇を噛み締め青白い顔をうつむけて耐えている。死体と血潮に慣れたものは日常と同じ顔色で聞き流すが、それは学習によって習得した無関心である。しかしアッタだけは、悲鳴の質と屠るのに要した時間の相関関係を、推測して図式化するごとく冷たい光に満ちた理知の中で静まっていた。 |