私はジェラールの口調が刃物の鋭さを帯びていることに鼻白んだ。
「どこの国かなんて忘れたけど、フランスではないみたいよ」
「ふうん。しかしどこかのイヌになっていることは確かだな」
ここまで言って彼は汚辱を振り払うかもように、コニャックの杯を取り上げて残りを一気に飲み干した。口の端についた雫を手の甲で乱暴にぬ ぐう彼の蒼い瞳の中に憤りの焔が顕れている。
「あいつら・・・人間のクズだ・・・」
一言だけ吐き捨てた後、沈黙した。

彼は何故、未知の人間をどこかの情報部にいるということだけでこんなにも嫌悪するのか?私の顔に不審の色を認めたのだろう、彼は自分の不自然さに気づいて急に笑顔を作った。それは固くこわばっており意識したにも関わらず彼の感情を包み隠すには失敗だったが、努めて軽快さを全面 に押し出し、冗談めかして答えた。
「いやさ、俺昔から悪さばかりしてたから、サツだの何だの権力を傘に来た奴らって大嫌いなんだよ。ほらおまえも車乗るなら捕まったことくらいあるだろ?」
私はもっと奥深い部分に秘められた何かを本能的に感じ取ったが、彼がこのまま話題を戻そうとしているのに合わせて相槌を打つことにした。
「そうね、呼び止められたら最後だもんね」
「俺はね、自転車に乗っている時、『そこのボク』って呼び止められてさ」

私は黙って彼の話に耳を傾けながら、グラスを口に運んだ。ボヘミア製のグラスをテーブルへ置くと、中身のコニャックがたゆたい、緻密に刻まれた切子模様に反射して琥珀色の光になって揺れていた。そのまましばらく雑談を続けていたが、やはり疲れていたのだろう、酒が回ってきたらしく、あくびをし始めたジェラールの様子はいかにも眠そうだったので私はひとつの提案した。
「今夜はもう遅いからここに泊まって行けば?ここで寝ればいいよ」
「うん、ありがと。そうさせてもらう」

睡魔にはさすがの小悪魔小僧も抵抗しがたいらしく、素直な返事をしたかと思うと、そのまますぐに寝入ってしまった。私は彼の手から子うさぎをそっと取り上げて箱へ戻した。彼女は箱の中で新聞紙がこすれあう音を立てていたが、しばらくすると静かになった。私はジェラールに毛布をかけると、バスを使うために自室へ入った。

バスから出て濡れた髪をタオルで拭きながら、私はチェストを開けた。いつものナイトウェアを取り出そうと手を入れた時、『ラ・ペルラ』のナイトドレスの濃いばら色が目の中に入った。これは確かジェラールとフォーブル・サントノーレで出会った時、買っていたものだ。あの時は私は彼にからかわれた怒りをドレスの入った紙袋を舗道にたたき付けて汚してしまった。その後クリーニングに出してから、一度も手を通 さずチェストに放り込んだままてあったことを思い出した。

私はそれを取り出し肩紐の部分を持って広げてみた。襟ぐりが大きく開き裾を長く引いたデザインで、クリーム色のレースをあちこちにあしらったばら色のサテンシルクはナイトウェアとしては贅沢すぎたが、店頭であまりの美しさに惹かれて衝動買いしたのだった。私はしばらくシルクの光沢を眺めていたが、バスローブを脱ぎ捨てるとこのドレスに手を通 した。寝巻きにするには勿体無い綺麗なドレスだけど、このままタンスの肥やしにしたらもっと惜しいのだ、と自分を納得させながら。密度の高い絹布の感触はなめらかではあったが、特有の冷ややかさを以って素肌にまとわり付いたので、私は一瞬だけ背筋に戦慄が走るのを感じた

 

 

私はベッドに入ってからもなかなか寝付くことが出来なかった。ドアには一応鍵をかけてはあるが、もし彼がこの部屋の戸をノックしたら・・・・? そんな場合、男女の間で普通に起こる事態が脳裏をよぎったが、私は声に出して否定した。
「いいえ、そうは行かないわ」
その時こそチャンスである、断固として拒否してやるのだ。ジェラールには自分の分をわきまえさせねばならないと、自分が不埒な小僧をつまみ出す図を想像すると軽い興奮さえ覚えてくる。こんな風に彼が寝ているリビングに神経を集中させていたので、ますます眼はさえる一方だったのである。

しかし耳を澄ました方向からは寝返りを打つ音すら聞こえず、音のない時間が暗い空間を流れていくだけだった。彼のいる部屋からは不気味なほど気配がない。もしや黙って立ち去ったのではないかとすら思える静寂ぶりだ。デジタル時計の蛍光数字だけが幽鬼のような青い光を自ら細々と放っているのが唯一の動きであった。その内、一週間の寝不足が一度に押し寄せて来たので、私の猜疑心も意識と共に深い眠りの淵へと吸い込まれていった。

しかし私の睡眠は、突然のガラスの割れる音と激しい悲鳴によって破られてしまった。
「うわぁぁー!はなせー!わあー!」
今までの静寂から一変してドアの外からは絶叫と家具がきしむが聞こえる。声の主はもちろんジェラールである。何事が起こったのかと、私は寝床から飛び起きパントゥッフルをつっかけると、ドレッサーの一番下の引き出しからあらかじめ装填済みのS&Wを取り出してドアを音を立てないようにドアを開けた。
「ああー!」
薄暗いランプの明かりの中で見たのは、空を掴もうとでもいうのか、激しく両手を振りながらソファの上で叫んでいるジェラールのみであった。

急いで部屋中の電気をつけた。この騒ぎは不審者の侵入ではなく、ジェラールが悪夢にうなされているのだと言うことは一目瞭然だった。彼が寝ているソファの横には象嵌細工の小テーブルがあったが、先ほど聞こえたのはその上のガラス製の花瓶が倒れて床にぶつかり壊れる音であった。その破片と共に生けてあった何本もの百合が散らばっている。一緒に漏れ出た水が花粉を洗い流し白い花びらを黄色く汚していた。床のじゅうたんに染みた水の間から細かいガラス片が砂粒のようにキラキラと輝いている。そしてまだジェラールは毛布を左手で握り締めながらもがき続けている。

「ジェラール!どうしたの!」
私は彼を正気づけるために揺り動かそうと肩に触れると体全体が火のように熱い。体を揺すぶっていると突然眼が開いた。はっきりと見える瞳の瞳孔が狂気を帯びた光を宿しているのが解る。その光が鈍くなると、絶叫はとまったが、今度は激しい痙攣を始めた。
「あ・・・ああ・・・」
私に何事かを訴えようとしているが、激しい呼吸に阻まれて声にならない。息をする回数が尋常ではないのは繰り返し上下する胸の動きから傍目にも解る。であるのに彼は自分の喉元を押さえ、口を大きくあけて更に空気を取り込もうとしている。瀕死の野生動物が動くことすら不可能になっても痙攣だけが生の証であるかのように体を震わせていた。

「ジェラール!」
彼は毛布を手から落とすと助けを求めるかのように私の右腕を力一杯握り締めた。私は救急車を呼ぼうと電話の方を見たが、しかしこれはショック症状でとにかく今は彼の状態を落ち着かせることが先決であると思い直した。私はリセ時代に参加したサマーキャンプで習ったレスキューの方法を必死で思い出そうとした。確かまず第一に呼吸を平常に戻すと聞いた記憶がある。

「落ち着くのよ、ジェラール。聞こえる?私よ、ハリールよ。落ち着いて」
彼に語りかけながら、その実自分に落ち着くように言い聞かせている。どうやら私の声が聞こえたらしく、彼は小刻みに震えながらもかすかにうなづく。
「いい?ゆっくり息をしてみて」
彼は空気を取り込もうと口を開けたが、よけいに息苦しくなったようで、ずっと握り締めていた私の腕を掴む手に再び力が入った。
「いい子だから焦らないで。もう一度ゆっくり少しずつやってごらん」
私は焦る心を抑え、努めて声を優しくして小さな子供に言うように何度も繰り返した。そして彼は、私の声に合わせて少しずつゆっくりと息を吸い吐くことを繰り返し、ようやく本来の平常な呼吸を取り戻したのだった。

私は彼を見た。青白い顔はさきほどの恐怖と苦痛の名残をとどめて憔悴し、額には汗が玉 のように浮かび上がっている。よほど苦しかったのだろう。
「かわいそうに」
つい言葉が口をついて出てしまった。すると彼は崩れるように私の胸に顔を埋めた。私は黙って彼のいちご色を帯びた金髪を撫で、安心させるように背中を軽く叩き続けた。やがてジェラールの呼吸は平静になった。冷えたエビアン水のボトルを渡すと彼は一度に飲み干して大きなため息をついた。

「こわい夢でも見たの?」
この問いかけに対して多分いつものように無言か、はぐらかした返答で報いられることは予想が付いていたが、あまりに異常な状態なので聞かざるをえない。すると意外にも答えが戻ってきた。
「うん。息が出来ない夢。変な魔物に首を絞められてたの」
平常の皮肉屋で挑発的な彼とは違い、萎れた様子で底にわずかに水が残ったプラスティックのボトルをゆがめたり戻したりと手でいじっているのが痛ましい。
「イヤなことがあった時、たまに見る夢なんだ」
「いやなことってその怪我に関係あるの?」

ジェラールは一瞬烈しい眼をしたが、すぐにうつむいた。唇が細かく震えている。やはりこの怪我と呼吸困難には因果 関係があるのだ・・・
「ね、怪我、転んだなんて嘘でしょう?理由を話してくれない?無理にとは言わないけど。何も出来ないかも知れないけど、人に話せば気が楽になることもあるわよ」
もちろん彼に親切の押し売りだ、おせっかいだと撥ね付けられ反発される恐れもあった。だが、一人で抱え込んで悩み抜いてトラウマになる前に、人に訴えることで自分を圧迫している事柄の本質をつまびらかにして、解決の糸口を見出すきっかけになることもあるのだ。少なくとも話をするという作業は自分を客観視することになる。もちろん冷静になるには時間が必要な場合もあるから、私の態度が逆効果 になる恐れもあるのだが。しかし、しばらく間を置いた後、ジェラールは低い声で語り始めた。
「バンサンだよ」
「は?」
「バンサン。ヤツに殴られたんだよ」



 

 

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