彼の言うバンサンとは、私の同期のバンサン・ウジェンヌのことを意味するのだと気づくのに時間は掛からなかった。しかしあの、いつも優柔不断な笑みを絶やさない男が他人にこれほどまでの暴行を加えるとは全く信じられないことだった。だが、あのビルの地下での彼の尋常ならぬ 、そう、まるで悪魔の降臨を見た者さながらの恐怖と憎悪に支配された凍りついた表情、嘆きと絶望の響きを含んだ不気味にかすれた声、ラビちゃんを渡した後の魂を抜かれた人のようなよろめいた歩様、これを考え合わせるとありうべからざることではないだろう。

二人の間には何か容易ならざる事情があるのを察するには簡単だった。その事情を問いただしたい欲求を強く覚えたが、何故か聞くのは私には憚られ黙り込んでしまった。
「俺も反撃してやったんだけどな」
今度はジェラールの方から話しかけてきた。
「聞いてもいい?」
私は一旦言葉を区切りもう一度彼の瞳を見た。彼の特徴であるすみれ色の瞳に波立ちはなく静かだった。
「バンサンはあなたに何をしたの?」

バンサンは大人しい善良な男という評判だが、私達の学生時代は日本の進出著しい時期にあたり、彼もブームに乗ってジュウドウという格闘技を一時習っていたと本人の口から聞いたことを思い出した。中背で筋肉質の体型はいかにも東洋の伝統的な武術に向くように思えた。それがこの痩せた背中を持つ青年を相手に立ち回りを演じたのか・・・

ジェラールは堰を切ったように早口で語り始めた。
「俺、バスティーユの知り合いの店で夕メシ食ってたの。ここにラビちゃんを引き取りに行こって店出て来たら、バンサンがいたんだ。あいつ、俺の後をずっとつけてやがったんだよ。それでラケット通 りの裏に連れ込んでラビちゃんのことでネチネチ文句言うの。俺が相手にしなかったらいきなり腹を殴りつけてきたんだよ。俺も不覚を取ってさ、息が出来ないでてしばらく座り込んでた。痛かったよ。でもそのままじゃムカつくじゃん。だから荷物の詰まったリュックを拾ってそれで殴り返したの」

「それがヤツの顔に命中。あいつ鼻血出したからそれで逆上して俺の服をつかんで 自転車置き場に投げ飛ばしやがったんだよ。ヤツは構わず殴る蹴る。でもさ、それで俺は チャリンコを武器にすることを思いついたんだ。残ってた力振り絞ってチャリンコ 持ち上げて横からあいつをブッ叩いてやったんだよ。そしたら形勢逆転してさ」
彼とバンサンとの大立ち回りは私を驚愕させたが、本当に知りたいことはその暴行に至る背景である。私なりにある見当は付いているのだが。

ジェラールの話が一段落するのを待って、相槌を打つ風を装いつつ以前バンサンとラビちゃんの間に起こった出来事を話すことにした。
「あのバンサンが・・・酷すぎるわ。でもあなたにラビちゃんを預かった日・・・」
ジェラールは長いまつげを上げて地下階での逸話を聞いていたが、ポツリと言った。
「ラビちゃんを俺にくれたのは・・・バンサンなんだよ」

「やっぱり・・・」
ジェラールは私の口から自然に出た言葉を聞いてうなずいた。
「そうなんだよ。俺がうさぎが好きだって言ったの覚えててさ。貰った時は嬉しかったけど」
「あなたが私にラビちゃんをやってしまったと誤解してたのね」
バンサンがラビちゃんと私とを見比べながら臓腑の底から搾り出すような声で彼の名前をつぶやいていた様子は忘れられるものではない。その様はまさに地獄に堕ちた亡者の想いには、己の境遇への絶望と呪詛と悔恨と同時に天上の天使への憎悪と憧憬を含まれていることを証明していた。

ある不安が現実になる予感が私の背すじを戦慄させた。その正体を知る必要があるのだろうか?しかしこのままでは・・・私の内部で葛藤が湧き上がった。ジェラールは言葉を続ける。
「うん。おまえにラビちゃんを何故やったんだって俺を責めるの。だからやってねーよ、さっさと帰れって言ってやったらあいつキレて俺に殴りかかったんだよ」
「それだけのことでバンサンはあなたに暴力を振るったの?他にもっと理由があるんじゃないの?」

その瞬間、蒼い瞳に稲妻が走ったが、彼がすぐにうつむいたので光は私から反れた。このまままた沈黙で報いられるのかと思っていると、意を決したように顔を上げた彼は視線を私に据えた。蒼白んだ顔はベネツィアの仮面 劇の登場人物さながらの無表情に覆われている。
「あいつは・・・俺が自分のオモチャにならなくなったから俺を殴ったんだよ。俺がいつまでも大人しくあいつの・・・アレをくわえると思っていたんだ!」

 

 

私の忌まわしい予想が的中していたことをはっきりと彼の口から宣言された。やっぱり・・・またも同じ言葉が口を付いて出たが、今度は声にならなかった。
「あの野郎、俺をボコボコにした後、また自分のをくわえろって言い出したんだよ」
ジェラールとバンサンの間が特殊なものであったことは明らかになったので、これ以上彼の秘密を聞くのは残酷だ。それに耳を覆いたい衝動が湧き上がきて聞くに堪えられない。ここで話を打ち切るべきだ、人のプライバシーではないか、とは承知していたが、いつしかこんな相槌を打ってしまっていた。
「あなたはバンサンと特別な関係にあったのね・・・」

この言葉により放たれたジェラールの殺気が私に押し寄せるのを感じたが、ここで眼をそむけてはならない。私は自分の弱気を押し込めて彼の蒼い瞳を見返した。すると蒼い瞳の方から私を避けた。柔らかい間接照明が彼の姿に阻まれて水の残る床に影を落としている。
「そうだよ・・・」
彼は落ち着いた声色で続けた。
「俺はバンサンとデキてたんだ」

ああ、何故彼自身に言わせてしまったのだろう、悔恨の情が私の内部から突き上げてくる。しかし最後まで聞かねば、私から言い出したのだから、と決して戻れない迷宮に足を踏み入れてしまった自分を感じていた。そんな私の感情をよそに彼は自分とバンサンのいきさつを告白していた。

「あいつが無理やり俺を・・・初めから狙ってたから親切にしてくれてたんだ。オモチャに意志があることを知って殴りつけて服従させようとしやがったんだよ。下がチャリンコなのに散々に殴りやがった」
彼の感情は凪の海のように静まっているように見えるが、こぶしを固く握り締めているのが私の角度から見えた。

「・・・あのまま殺されるかと思ったけど、あいつ、俺を蹴ろうとしてチャリンコに躓いたんだ。だから別 のでブッ叩いてやったんだよ。それであいつが倒れたスキに逃げてきたんだよ」
「ひどいことされたのね・・・怖かったでしょう?」
黙っているのも気まずいような気がして言葉を挟んだが、我ながら稚拙な言い方だと内心舌打ちした。彼はそれには答えなかったが、次第に内部の感情が抑えられなくなるようだった。

「・・・バンサンも殴りつければ俺が自分の言いなりになる思っていやがったんだよ。俺を力で抑えつけて従わせようとするの。そして、散々に俺を痛めつけておいた後で、今度は俺が悪いから殴られるんだって言い出すに決まってる。いや、あいつだけじゃないな。世間の良識あるとかいう連中も俺が全部悪いって決め付けるんだ・・・! 誰も俺の言うことは聞く耳持たないんだよ。今までずっとそうだったんだ・・・」

彼は吐露していた。明らかに今まで胸につかえていた感情を吐露していた。バンサンによる暴行以外にも、彼が世間から負わされた深い傷を私は見た。どれほどの深さかはまだ確かめてはいないが。あのピーターラビットのお母さんと子うさぎの事件は、彼にとってほんの魁にすぎなかったのだった。彼の心の傷は涙と共に悲しみの泉となっていった。瞳には透明な涙の幕がかかり、その真珠が盛り上がり一粒ずつ清らかな泉にこぼれ落ちて蒼い光を放つウォータークラウンを作っていたのである

 

 

ジェラールが次第に落ち着いてきたようなので、クッションをいくつも持ち出しメーキングし直したソファに寝かせて毛布を掛けてやった。彼の青ざめて震えていた唇には血の気が戻っていたが、笑みはなかった。しかし子供のような素直さで私に従ったので、掛けた毛布を軽く叩いて「寝かしつけ」終了の合図とした。そして床に散らばったガラスの破片や花を掃き集めこぼれた水をふき取った。あえてバンサンについての私見を述べることは避けた。先ほど拾い上げたサイドテーブルのランプだけを残して電気を消し、彼に就寝するように告げた。

「今夜はもう寝た方がいいわね。じゃあお休みなさい」
げっ歯類のごとくクッションの山に埋もれ首まで毛布に包まれていた彼は、閉じていた目を開いた。長いまつげの影が動き、オレンジ色の灯りが揺らめく。
「うん。今度はちゃんとねる。ありがと。おやすみ」

薄闇の中で彼がかすかに微笑んでいるのを確認すると、私は自室へ引き上げ、冷たくなったベッドに入って目を閉じた。また眠れそうもない。先刻のジェラールの告白が頭の中を慌しく駆け巡っていたのだ。
「バンサンは自分のをくわえろと言ったんだよ・・・!」
なんということだろう。あれほど善良な一般常識の権化のような男が、年少の同性に性的な関係を強制し、嫉妬のあげく理性を失い手ひどい暴行を働くとは、しかもその原因はこの私であるとは・・・

小悪魔小僧ジェラールに一方的に振り回されている私としては、バンサンの嫉妬は心外であり冤罪も甚だしいのであるが、彼の心の芯に多分に湛えられている粘液性のものが、時折褐色の瞳を通 して透けて見えることも確かだった。来週顔を会わせたらどんな態度で接しようか、いやバンサンが従来どおりの態度であるならばこちらも自然に応対すべきなのは解っているのだが、彼の臓物の腐臭を嗅いだ後では、果 たして私にそれが出来るだろうか?

暗い部屋で白く浮かび上がった天井を見つめながら様々なパターンを想定していたが、ドアが開く静かな音が私の堂々巡りの思考を中断した。
「ハリール・・・」
リビングに面したドアから差し込むランプのわずかな光を背に立っているのはもちろんジェラールだった。
「どうしたの?まだ気分悪いの?」
私は彼が再び悪夢に襲われ、不快感を訴えでもするのかと思い、すばやくベッドの上に起き直った。ちょうど陰になっているので彼の表情は解らなかったが、小脇に子うさぎの入った箱を抱えているようで、中からカサカサと生き物が動く小さな音が聞こえる。

「ううん、気分はいいんだ。あのね、俺、ね、言っても怒らない?」
彼の声は小さく気弱げな哀願の口調を帯びている。
「何?いいわよ。言ってごらんなさいよ」
「あの、俺、こっちで、おまえの横で寝てもいい?」
ジェラールは子うさぎの箱を抱えなおしてから私の部屋へ素足を踏み入れた。

「ねえ。いい?横に寝ても」
「・・・」
「おまえ、やっぱり俺のこと嫌いなの?」
私が彼を嫌ってる?私は自問自答した。今までの私と彼の交渉は何なのだろう?毎回彼のイヤミに私は腹を立てている。その度、心の中で小悪魔小僧!と悪態をついている。しかし私の行動パターンを鑑みれば、本当に嫌いならは、家に泊めたりはせずタクシーでも呼び寄せて追い返しているはずだった。プライベートにおいて納得の出来ない相手に妥協して関わることは、私には不可能だ。
「嫌いじゃないわ」
急いで否定して、一呼吸置いて答えた。
「いいわ・・・」

「ラビちゃんもここでねんね。お休み」
彼はドアを閉めると、中にいるうさぎに声をかけてダンボール箱を床に置いた。そして爪先立ちになり私のベッドへ近づいて来る。足の甲の腱が緊張して浮き出しているのが見えた。私が体をずらして彼の場所を作ると、蒼い瞳の小鳥はそこへ身軽く滑り込んだ。
ベッドのスプリングがたわむのが伝わってくる。彼は完全に隣に体を埋めていた。この後は当然・・・しかし薄闇の中で見る彼の様子はまるで満ち足りた天使のようだ。柔らかなカシミアの肌触りを楽しむように首まで毛布を引き上げて目を閉じている。そんな彼と並んで私は先ほどまでの一人寝と同じ状態で天井を睨んで横たわっているのだ。

どのように対処すべきか何か声を掛けるべきだろうか、と躊躇していると、彼が口を開いた。
「ねえ、ハリール」
落ち着いた風を装ってはいるが、私はかなり勝手の違う彼のやり方に戸惑っている。
「な、何?」
「だっこして」
「・・・・」
私は顔を彼の方へ向けた。故意にゆっくりと・・・
「いや?」
ジェラールもこちらへ顔を向け目を開けていた。
「いいえ。おいで」

衣擦れの音を立てながら彼は体を摺り寄せてきた。そっと腕を差し伸べると、彼は自らを預け、私の胸に顔を寄せた。
「おまえ、あったかくていい匂い」
確かに人の肌に触れ、じかに体温が伝わって来る。でもこの子は一体どういうつもりなの?
「今晩はしないけど、いい?」
「・・・ジェラール!私はそんなつもりじゃ」
あまりに露骨なもの言いは私を狼狽させたが、彼は私の心を見通しているかのように言う。
「おまえのことはとっても好きだからしたいよ。でも今日はね」
蒼い瞳の奥を覗き込むと冴え冴えとした光が宿っている。
「なんかね、セックスと関係なく、誰かにだっこしてもらって、いっしょのおふとんでねんねしたいの。男でも女でもどっちでもいい。俺のことわかってくれて、俺もわかってる人だったら。いっしょにあったまって、安心してねんねしたい気分なんだよ」

この言葉は私にジェラールが背負う孤独の深淵を垣間見せた。彼のエキセントリックで皮肉な言動は、暗い淵に対するやるせない憤りと哀しみだったのだ。バンサンに身を任せたのは、同性の慰み者になる屈辱よりも一人取り残されることへの恐怖が勝っていたのだろう。彼はそれほど人のぬ くもりを求めているのだ。目の前にあるいちごブロンドをそっと撫でると、彼はまぶたを閉じた。それは子うさぎが毛並みにそった愛撫を与えられて耳を伏せる様子そのものだった。

「俺が眠るまでだっこしててね」
「いいわ。安心してねんねなさい」
私がそのまま彼の肩を抱いて自分の方へ引き寄せると、彼も背中に手を回した。私のナイトドレスは背のくりも深いタイプなので、そこへジェラールの手が直接触れた瞬間戦慄を感じた。名状し難い奇妙な焦燥感が私の胸の底から湧き上がってくる。するとジェラールがつぶやくように言った。
「うさぎはなんにも武器を持ってないんだよ・・・ 」
「え?」
「うさぎはね、敵に見つからないように、声も出ない。でも死ぬ時とか、びっくりした時なくよ。敵をすぐに見つけられるように、真後ろ以外はほとんど見える。でも視力は悪いんだよ。 足音がしないように、足の裏は毛でおおわれて、クツ下をはいてるみたい。これ前も言ったよね」

唐突にうさぎの生態について語り始めたジェラールに、私は面 食らった。
「いきなりどうしたのよ?」
しかし彼は私に構わず話を続ける。
「最後にはどうせ何かに食べられちゃうから、痛みをあんまり感じないんだって。すぐ気絶しちゃうんだよ。うさぎはふざけ屋さん。楽しそうにはしゃぐよ。好奇心も旺盛だよ。あんまり長生きじゃないから、生きてる間はしあわせなように、神様がそうしたんだと思う」

はかないうさぎの宿命が彼の心の涙となって静かに私の感情に染み入り胸を締め付けた。彼にとって常にうさぎは哀しみを含んだ愛惜の対象なのだ。この無力で無垢な生き物をこよなく慈しみ愛することは、彼に起こった何らかの悲しい出来事への哀悼の代わりなのかもしれない。私は真横で子供のように体を丸めて私に寄り添う青年に深い憐憫の情を覚えて、もう一度髪を撫でると、彼は私の脇の下から背へ回していた腕を更に深くまとわり付かせた。

体が密着し規則正しい鼓動すら聞こえる。彼はバスローブを着ていたが、前がはだけたのか、ずり落ちてむき出しの肩が露出していた。素直な髪に添って肩まで撫で下ろした時、素肌に触れたので気づいたのだ。なだらかな肩は緻密で弾力のある肌に覆われており、その下には確かに若者特有の新鮮な生気が感じ取れて触れるものの指を吸い込んでいく。しかしジェラール自身はこれほど私に体をゆだねていても静かに安らいでいる。

私はそのまま彼の裸の肩の上に手を留めて行き来させいていたが、捲くれ落ちた赤いローブを掴んだ。タオル地の毛羽立った繊維の刺激が手の中に広がったが、そのわずかな逡巡を振り払うかのように勢いよくローブを上に引き上げ彼の肩を包んでやった。
「風邪引くわよ」
それから布の上から痩せた背中をさすり始めると、「打ったとこだから痛い」とジェラールは小さく抗議したので、そのまま手を留めた。
「このままでじっとしてて」
彼は私の胸に顔を埋めて言った。

しばらくして彼は静かな寝息を立て始めた。私の胸に体をゆだねて眠るジェラールの様子をうかがうと、長いまつげが蒼い瞳を封印し、そこへ乱れかかる長めの前髪が、薄闇の中で光沢を放っていた。それから、私は一体何をしているのだろう、と前髪をまぶたから取り除いてやりながら自問自答する。 一つの夜具の中で若い男を胸に抱いて横たわり・・・もちろん彼も私を抱く形になっている。であるのに、昼間遊びたわむれていた子供たちが、夜は互いに体を寄せ合って無邪気に眠るのと同様に、清浄な夜を過ごしている。

そこでもう一度覗き込むと、ジェラールの寝顔は邪気の要素は微塵もない汚れを知らない天使のそれだった。愛情と信頼と安らぎとを表現すれば今この時の彼になるのだろう。少し厚めの唇をわずかに開いた彼の寝顔を見ているうちに、割り切れない矛盾を感じていた私の心は次第に解けていく。私は彼の眠りを妨げないようにそっと、清らかなお休みのキスを引き締まった頬に与えた。すると今まで張り詰めていた意識が嘘のようにほどけ、やがて私も眠りに落ちていった。

 

 

窓から差し込む眩しい陽が私の目を覚ました時、隣にいるはずのジェラールの姿はすでになかった。とっさに時計を見ると10時を過ぎたところだった。勝手に何か食べているのかも知れないと思い、ガウンを羽織り起き出してダイニングに行ったが、ここにも彼はいない。リビングに戻ると彼が横たわっていたソファの横の寄木細工のサイドテーブルの上に一枚の便箋があるのが目についた。手に取ってみると、そこにはやや右上がりだが流麗な筆跡があり、走り書きがなされていた。
「ラビちゃんのお世話&昨日はいろいろありがと。よく寝ているので起こさず帰ります。ラビットフードは貰っていくよ。じゃあまた会社でね」

彼はあのイタズラものの雌うさぎと共にすでに帰っていたのだ。マントルピースの横に転がっていた空虚なダンボール箱を見ると、小悪魔主従が消えた寂しさを感じている自分に気づいた。
「あんなに迷惑がっていたのにいないと淋しいものだな」
気づくと独り言を言っていた。短い期間世話しただけの他人のうさぎなのに、人の心は不思議なものである。そしてジェラールは・・・

それから私は、父とモンテーニュで待ち合わせの約束を思い出した。約束の時間までは十分余裕がある。しかし何故か億劫になり、ジョルジュ・サンクに電話を掛けて、もっともらしい理由を付けて断った。この私の気まぐれな態度は父にとっては意外なことでも何でもないので、簡単に話はついた。今日は・・・どうも人と話をしたりショッピングに付き合うという弾んだ心持ちにはなれなかったのだ。

では一体どのような感情に支配されているのか?悪びれた様子のない子供のようなジェラールの態度に腹を立てている?それは違う。しかし・・・ 私はしばらく昨日彼がしたようにソファに転がっていたが、やがて立ち上がった。リュクサンブール公園まで散歩しようと思いついたのだ。歩きながら己の不明な感情の正体を探り当て、取り出し、仔細に検証し、整理して分類し、合理的に対応すべきだと思ったからである。最近は混乱した時、この方法で感情を整理して効果 を上げていた。

柔らかい秋の日が振り注ぐ中、サンジェルマン・デュ・プレの古びた教会の前を通 り、開店してまもないブランドショップの数々を眺めながら大通りに至り、そこを渡りリュクサンブール宮殿のある公園へ向かった。この公園はパリの学生街カルチェ・ラタンにも近いので、平日などは、彼らが食事をしたり休んだりする憩いの場所となっていた。今日は土曜日であるが、それでも近所の図書館通 いの若者などがパンをかじりながら本を読んだりしている。

私は秋色をまとったマロニエ並木の下を歩きながらベンチに彼らは腰掛けてる彼らを見た。すると紺のジャケットを着たブロンドの上品な青年が、黒いリュックから何かを取り出そうとしているのが、私の目にとまった。年頃はジェラールと同じくらいだわ。まさかうさぎを持っているんじゃ・・・ 青年が取り出したのは、うさぎではなく分厚いノートだった。私は自分自身が可笑しくもあり、同時に腹立たしさも感じたので、故意に取り澄まして昂然と胸を張った。そしてその青年の前を通 り過ぎると、公園の中心部にある八角形の池を目指し、紅葉したマロニエの落ち葉が折り重なる芝を踏みしめて歩いた。


 

※うさぎ・パソコンに関して一部192氏のアドバイスを頂きました。192、ありがとう。



 

2002.7.25 次章「チューリップの夜会」へ→■■■■

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