ジェラールはいきなり部屋の中へ倒れこんだ。倒れるというよりも体中の力が抜けて崩れ落ちたと表現した方が正確であろう。
「ジェラール!・・・どうしたの!?」
予想外の展開に私はしばし息を呑んでいたが、すぐにしゃがみこんで彼の様子を確かめることにした。

汗でよれたブロンドの髪が乱れかかった横顔からは完全に血の気が失せている。その蒼白な頬には明らかに打撲によるものと解る腫れが忌まわしい青黒い地図を浮かび上がらせ、小さな口の端は切れ、鮮血が流れ落ちて寄木細工の床に点々と跡を捺している。白い額には大きな擦過傷があり筋状の傷跡からは血が滲み出していた。黒いナイロンジャケットには泥が付着しあちこちにほころびが認められたが、最も大きな破れは左袖から背中にかけて引き裂かれ繊維が露出していた。もちろんジーンズは泥と血で染められており、まるで何者かが彼を馬に繋いで引きずり回したかのような状態である。そしてジェラール自身は薄く口を開けて目を閉じ、蝋人形のように気配がなかった。

「ジェラール!しっかりして」
もう一度声を掛けてから肩を揺すると、彼の眉がかすかに動いた。
「う・・・ん・・・」
小さく低い声が喉の奥から漏れるのを確認したので、今度は耳元へ寄せて声を掛けてみる。すると彼は薄いまぶたを震わせて反応した。金色のまつげが小さく揺れ、その間から蒼い瞳が細長く見えた。
「ひどい怪我、一体どうしたの?!」
「ころんだ・・・」
「転んだ?どこで?」
しかし彼がこの問いには答えず再び目を閉じかけたので、私は横に座り込んで抱き起こそうとした。すると彼は私の腕を掴んで動きを止めさせ、「ラ、ラビちゃん・・・貰いに来た」とかすれた声で息も絶え絶えに言った。

「大丈夫?傷痛まなかった?」
バスルームのドアが開いて立ち込めていた湯気が、石鹸のバラの香りを部屋にもたらした。そこから出てきたジェラールの足取りはまだ覚束なかったが、額に張り付いた濡れた髪から滴る水滴をタオルで拭きながら答える。
「うん、ちょっと沁みたけどね・・・」
一通り応急手当をして休んだ後、彼は汚れを落としたいと言い出し、私がやめるように忠告しても耳を貸さずにバスを使ったのだ。
「まだ血が出ているじゃないの。早く消毒して手当てしなきゃ」
「大きな傷は額だけ。後は打ち傷だからたいしたことないよ」と、言ったものの、どこかの打撲傷が痛んだらしくいかにも痛そうに顔をゆがめると、そのまましゃがみこんでしまった。

私は腰を抑えて座り込んだ彼に駆け寄り、うつむいている彼の顔を覗き込んだ。頬の青痣が痛々しい。ジェラールはこちらを見て弱弱しくつぶやいた。
「やっぱり痛いよ」
「ほらごらん。だからバス使うなんて無茶だって言ったのに・・・」
白い額にテープで貼りつけたガーゼは水に濡れて血が滲み出しているので、早急に取り替えねばならない。
「手間をかける坊やなんだから」

私は文句を言いつつ彼を立たせるために肩を貸した。細身だと思っていた彼の体重は思いのほか重かったので転びそうになったが、何とか赤いパントゥッフルに力を込め踏みしめて踏み留まった。
「ちょっとちゃんと立ってよ。転びそうになったわよ。腰痛になっちゃいそうだわ」
これを聞いた彼は私を見下ろして本領を発揮した。
「トシだからな。無理させて悪いね。ハリールおばさん」
どうやら彼の痛みを配慮すながら傷の手当てをする必要はないようだ。

「痛!いたた!」
赤いソファに横たわったジェラールの額の傷にヨードチンキをべったりと塗りこんでやると期待通 りの悲鳴が上がった。
「ひっでーな。もっと優しく出来ないの?それにこんなヨーチンなんて塗られたら格好悪くて街を歩けねーよ」
「我慢なさい。それが一番早く治るんだから」
口を尖らせて文句を言う彼を見て私は内心ほくそえんだが、腕や背中の打撲もかなり酷いようで放ってはおけない。痛々しい青痣が白い肌のあちこちに浮かび上がっている。それはあたかも悪魔の紋章であるかのように禍々しく見えた。

果たして彼の説明するところの「転倒」だけでこのように著しい傷を負うものだろうか。韜晦の気配が焼け跡の燃え滓の匂いのように漂っていたが、あえて追求はしなかった。

ラビちゃんのいる箱の方を見ていたジェラールに、背中にシップを貼るから服脱ぐように告げると、彼は笑いを含んだ目で私を見た。
「おまえ、俺の裸を見たいの?」
こんな場合にも憎まれ口を忘れない彼に私はカッとなった。しかしここで激昂すればこの小僧は今の発言を私が肯定したと取るに違いない。
「いいから早く脱ぎなさい」
私はしかつめらしい顔をすると厳然と彼の着ていた赤いガウンの襟を掴んで引き降ろし、痩せた背中にハップ剤を音がするほど勢いよく叩き付けた。
「いててて!」
当然だろう。打ち身を更に叩いたのだから

 

 

「何か飲む?」
手当てを終えた私は、薬や包帯を赤十字の救急箱に収めながらジェラールを見た。彼はソファに身を横たえアームに頭を持たせかけて、先に箱から連れ出した子うさぎを胸に抱いていた。
「うん。じゃあアニス酒ある?」
聞き覚えのない酒の名前だ。私が問い返すと彼はそれには答えなかった。
「やっぱりないだろうな。じゃあブランデー。銘柄は何でもあるものでいいよ」

ブランデー・・・今あるのはもらい物のヘネシーVSOPフィーヌ・シャンパーニュしかないが、封は開けてない。しかし彼は確か以前クレマン家のホームパーティで最高級のワインの銘柄を簡単に言い当てたのだから・・・。私は、そのコニャックを鏡の付いた飾り棚から取り出して封を開けた。バカラ製の重いクリスタルの瓶から琥珀色の液体をカットを施したグラスに注ぐと、さっと独特の香気が漂った。ジェラールに半分ほど注いだそれを渡すと、彼は包帯を巻いた腕を伸ばして受け取り、ニ三度揺らして香りを試した後、ゆっくりと飲んだ。

「ハリールはブランデー好きだったっけ?」
私は軽い酒しか嗜まない。しかしブランデーのなかでもコニャック地方産のものだけが「コニャック」と名乗ることを許された13世紀から続くこの名酒だけは時折飲む。気分が滅入った夜、窓辺にたたずんでそこから見えるノートルダムの神秘的な夜の姿を眺めながら。

開け放った窓からは夜景の灯りが差し込み、ブランデーの琥珀色が私を第二帝政時代の幻想に誘う。貴婦人たちが豪奢な羽飾りとベネチアのレースと手袋を欠かせなかった最後の時代へ・・・ ここまで言って私は後悔した。ジェラールはグラスを横に置いてラビちゃんを抱えながらうつむいて笑っている。
「さすがだな、ナルシー」
「ちょっとあんた、怪我した時くらいはね!」

私が逆襲しようとした時、電話のフォンがけたたましく鳴り、言葉の投槍を押しとどめた。象嵌細工のサイドテープルから白い受話器を取り上げると、そこから聞こえてきたのは父の声だった。
「お父様ね。何か用なの?」
私はジェラールの視線を背に感じていたので極力声を抑えて答えた。その様子をいぶかしげに問う父に対して「ええ、風邪気味なのよ。手短にお願いね」と、早く電話を切りたいので冷たく言った。

今日祖国アフガニスタンの北部同盟のスポークスマンらと面 会したので、モンテーニュにあるジョルジョ・サンクに彼らと共に宿泊していると、父の説明は続いた。そして明日リヨンへ帰る前に同じアベニューの向かいにあるシャネルで母の誕生日のプレゼントを選ぶのに、私の助力を期待して連絡してきたとのこと。しかし具合が悪いなら、と電話を切りかけられて、「ち、ちょっと待ってよ」と私は慌てた。何故なら先週その店で新作のブラウスを見つけて 購入を検討していたところなのだ。ついでに買って貰おうという魂胆が芽生えたので、態度を急変させて協力を申し出た。

その旨の了承を取り付け、明日11時半に赤いひさしがトレードマークであるジョルジョ・サンクホテルのメインロビーで待ち合わせの約束をして受話器を置いた。ジェラールは私が電話を切ったのを確認した途端、腹を抱えて笑い出した。
「何がおかしいのよ!人の電話を横で聞いたりしていやらしいったらありゃしないわ」
私は一抹の気恥ずかしさもあったが、しかしそれを押して抗議した。
「あーごめんごめん。でもいい年して、あたしも買ってちょうだいだのってさ、甘ったれなおねーちゃまだね、ラビちゃん?」
彼は子うさぎに語りかけて再び笑いころげた。

「おまえはファザコンなんだな。なんとなくヘンだとは思っていたけどさ」
笑いの嵐が一通り吹き荒れた後、二杯目のコニャックを口元へ運びながらジェラールは言った。
「そんなことないわよ!」
私はこの見当違いな心理分析をしっかりと否定しておかねば後日またこれで突付かれることになると思った。
「特別に父が好きということでもないし、おじさまに魅力なんて感じないからファザコンじゃないわよ」
すると彼は何故かこちらを真っ直ぐに見た。瞳の蒼さが格別に深みを帯びている。
「じゃあおまえはパパが嫌いなの?」
「そりゃ好きは好きだけど、それでどうこうって考えたこともないわよ」

妙に引っ掛かってくる彼にふと疑問を感じたのでこちらから質問してみた。
「もしかしてあなたこそファザコンなんでしょ?それともマザコン?」
私の問いかけにより青い瞳に一瞬にして氷のカーテンがかかったような鈍い光が宿った。それから彼は何も言わず膝の上のいといけな生き物に視線を落としてその柔らかな毛並みを無言で撫でていた。影を落とすほど長いまつげだけが瞬いて動くだけの凍りついた横顔の引き締める頬の線が、彼が自分のうさぎ以外はこの世の何事にも関心がないということをを静かに物語っている。

この表情は確か前にも見たことがある・・・そうだ月曜に私のオフィスでサンドイッチを食べた時。彼には何か触れられたくない秘密があるのだろうか?その場所を刺激したような気がして、私も押し黙った。
「あなた、大丈夫?傷が痛むの?」
重苦しい空気を打破しようと、私はなるべく穏やかに声を掛けてみた。彼は少しこちらを見たが、依然として子うさぎの灰色の毛並みを愛撫し続けている。彼の手の中では、そのやんちゃさでさんざん私に手を焼かせた小悪魔うさぎも気持ちよさそうに耳を伏せて半分目を閉じていた。

「うん、そりゃ痛いけどね。でも大丈夫だよ」
何か言わねばと思い、私は言葉の接ぎ穂を心の中で探したが適当な言葉が見つからない。すると彼の方から意外な質問が来た。
「おまえのパパは確かアフガニスタンの人だよね。北部同盟側なの?」
「そうなんだけど」
再び話題が父親の方へ戻るので私はまた彼に曇りが差すのでは、と危惧したが、口調に今までのようなたわむれの気配がないので、事実を話すことにして彼の前にある椅子に腰を下ろした。私の赤いバスローブはやはりジェラールには小さ過ぎて細い手足が袖口や裾から伸びている。

「父は今ローマにいる元国王の国費留学生だったけど、死んだ父の姉が北部同盟の将軍、ええと名前は度忘れしちゃったけど、その人と親しかったらしく、そんな縁で肩入れしているみたいよ」
「おまえのパパの姉さんってあの人?」
彼はマントルピースの上の写真立てが林立したコーナーの一点を指差した。私は立ち上がり、蔦と天使を彫金したスターリングシルバーのフォトスタンドをそこから取りあげて席に戻り、彼にそれを手渡した。

「そう。この人よ。でもよく気が付いたね」
彼は精巧な銀細工の間にたまったホコリを息で吹き飛ばした。
「おまえが台所へ行ってた間にラビちゃんと一緒に見てたの。綺麗な人だね」
昔のプリントの方法が稚拙らしく古ぼけて赤茶けた写真の中からは、豪華な民族衣装をまとった伯母と金髪の幼児がこちらをそれぞれに見ていた。

「この人おまえに似てるね」
「そうでしょ?この写真見た人はみんなそう言うわね。伯母は当時美貌で有名だったらしいのよ」
私は事実を伝えたまでなのだが、彼は写真から視線を私に戻して言った。
「だからアタシもスゴイ美人なのよって言いたいんだろ。やっぱナルシー」
彼の生意気攻撃はもう慣れっこなので、無視して話を逸らすことにして、瞳と頭髪の色以外はその母親に瓜二つの幼児の姿をガラスの上から指で示した。

「その子供は私の従弟なのよ。音信不通 だけど」
この言葉でジェラールはまた写真を覗き込んだ。
「ふうん。この子の目の色はおまえと同じだね。音信普通なのか。タリバンにでも入っているのかな」
「伯母の死後、西側のどっかの情報機関に貰われたとか聞いたことあるけどね」
私は座談として気軽に答えたのだが、彼の瞳に鋼の鋭利さが閃いた。
「西側の情報局?フランスの?」



 

 

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