モルグとは彼の本名ではなかった。しかしその死者のような青黒い顔色と気味の悪い容貌、陰気な性質から死体置き場を意味する「モルグ」という不吉な渾名がいつしかつけられて、それ以外の呼び名は私の記憶にはない。 一説には名高い「悪魔島」で刑期を勤めていたと言われるが、実在の脱走犯の映画「パピヨン」で有名なその島はすでに閉鎖されており時間的にもかなり無理があるので、無責任な誰かが流した根拠のないデマだろう。

しかし彼の薄汚れた銀髪は抜け落ちてまばらで、その肌は青黒さの中に吹き出物の後が白い斑点として痕跡を呈して鮫肌となっていた。ひび割れてまくれ上った唇から覗く乱杭歯は不潔に黒ずんでおり前歯が一本欠落していた・・・それは中世的な恐怖を想起させると言ってもいいだろう。彼を初めて見る者は必ず肝を冷やしてたじろぐのが常だった。だが彼自身はいつも薄暗いダストシュートの周辺で、ひっそりと自分の務めを果 たしていた。

「モルグ!あなた何をしていたの?」
私は声を厳しくして立ち聞きしていたらしく思えるモルグの非礼を詰問した。するとモルグは地獄の底から聞こえてくるような低いくぐもった声で、黄土色の作業着と揃いの布の帽子を取ってからのろのろと返答する。
「い、いや、すまんです。わしはインクをこぼしたと連絡を受けたんで・・・」
誰もいつからモルグがこの会社にいるのか覚えていない。彼の年齢を推測できる手立てはないが、ごく稀にしか聞けない彼の声が低くしわがれているが思いのほか張りを持っているのことから、荒れた容姿から想像するほどの年齢ではないと思われた。

「インク?そんな連絡はした覚えがないわよ。あなた部屋を間違ったんじゃない?」
モルグは仕事熱心で、呼ぶとすぐに駆けつけてきてどんなつまらない雑用でも己が職務に忠実であるので、彼を忌み嫌うほどの者はいなかった。それに社内ですれ違うと、律儀に頭髪の剥げ落ちた頭を下げて無言で目礼する礼儀正しさも持ち合わせていた。
「あの、オッセンさんの部屋でプリンターのインクが突然漏れたと電話があったんで・・・」
上目遣いでこちらを見ながらモルグは答える。その小さな目は突起した周囲の肉に埋まりこんで、海中のサメの目を思わせる澱んだ光を帯びており、私は一瞬ではあるが背筋が寒くなるのを感じた。

「へえ、どうやら勘違いであったようですな・・・」
モルグは部屋をゆっくりと見渡し、パソコンの側に立っていたジェラールに視線を止めた。
「これはこれはお取り込み中で・・・邪魔してすまんことでした」
私はモルグのこの言葉を聞いて少し焦った。
「いいえ。いいのよ。あなたは間違っただけなんだから。きつく言って悪かったわね。それにお取り込み中でも何でもないから、誤解しないでね」
私の言葉を聞いているのかどうか、モルグは一礼するとドアを閉めてそそくさと出て行った

 

 

「モルグに電話してここによこしたのはあいつだな」
今まで無言で立ち尽くしていたジェラールはようやくリュックを拾い上げてから口を開いた。
「あいつ?あなた何を言っているのよ?」
私はこのストロベリーブロンドの青年を見た。すると彼の瞳はキラキラと輝いており、烈しい感情で揺れているのが一目で見て取れた。

「あいつって解らないか?」
「そんなのわかんないわよ」
ジェラールは、開いたリュックの中を覗き込みながら言った。
「解んなけりゃいいよ。ラビちゃん?大丈夫だった?」
以前のフロッピーの時もそうだったが、私は彼に毎回意味ありげな人物の存在をほのめかされているので、どうしても気になって再度尋ねた。
「いつもそればかり。私も関係しているんだから教えてちょうだいよ」
ジェラールはこの言葉を聞いて顔を上げたが、また視線をリュックの中の子うさぎに戻して独白のように言った。
「あいつ、俺がモルグを避けているのを知ってて・・・わざとやりやがったんだ。最近俺がおもちゃにならなくなったからって・・・」

彼の憤りが瞳と同じ蒼い炎心となって彼の体の中で燃え盛るのが感じ取れる。その熱を持たない炎は静かに、しかし確実に広がって彼自身を覆いつくしていく。蒼さは炎の成長につれ次第に黒みを帯びて、夜の帳の色となりつつある・・・
「あいつらはいつもそうなんだ・・・俺が思い通りにならないと決まって腹を立てて・・・」
闇が彼を飲み込みそうだ。私は意識下の恐怖を感じたのだろうか、ジェラールの存在を確認しようと彼の側に寄って腕を掴んだ。

「ジェラール、どうしたの?気分でも悪くなったの?」
すると自分の世界に没入していたジェラールは、自分の二の腕を掴んだ私の手に気づいて我に戻ったようだ。今までの陰鬱な憤怒をかたどった炎を鎮めると、リュックへ開いた方の手を差し入れて中で丸くなっていたらしい幼いうさぎを取り出した。
「なんでもないよ。俺は大丈夫。ね。ラビちゃん」
自分の隠れ家に避難していた幼いうさぎは、主人の顔を見て安心したのか、大人しく手の中に納まっている。

彼は腕を動かして私の手をほどいて子うさぎをそっと撫でた。毛並みの方向へ優しく動く彼の愛撫を受けて、短い耳を後ろに寝かせたうさぎはいかにも気持ちよさそうに目を閉じている。生き物に触れた時の心の安らぎは私も知っている。幼い頃、仔犬が初めて私の元へ来た時、覚束ない足取りで膝に上ったその柔らかく温かい感触と感動は今でもはっきりと心に残っている。ものを言わぬ 彼らのぬくもりは代えがたい癒しとなるのだ。私は何らかの理由で感情を刺激されたジェラールが小さな天使に触れ、緊張していた心が解けていく様子を黙って見守っていた

 

 

「長居したな」
ジェラールは脱いでいたジャケットをはおり帰り支度を始めた。
「いいのよ。今日はあなたが来てくれて助かったんだから」
これは偽らざる感想だ。私一人ではパソコンの不首尾には絶対に太刀打ち出来なかったのだから。
「ああ、パソのことね。おまえがブッ壊す前でよかったよ」

素直に礼を述べてもこれだから・・・と言っても彼も満更ではないことは今までの経験で知れているので、相手にならず笑顔で言葉を返すのがコツである。
「またこれからもお願いね」
「うん、いいよ、あれしきのことならいつでも」
彼も今度はあっさりとまともな答え方をしたが、その後いきなり手にしていたうさぎを私の手に移して続けた。

「じゃあラビちゃんを頼むよ。ちょっと預かって」
「ええ!?」
私は驚いてうさぎを落としかけたが、それを目ざとく見つけたジェラールは「困るな。俺の大事な彼女なんだから粗末にされちゃあ」と文句を言う。
「ちょっとこの子を私に押し付けるつもりなの?」
「違うよ。ほんの数日のことだから」
そして彼は私の手の中のうさぎに話しかけた。
「ね、ラビちゃん、すぐに迎えに来るからイイコにしているんだよ。このおねえちゃんの言うことを聞いてね」

いつの間にかラビちゃんを預かることにされている。私は承知した覚えもなければ、うさぎの世話などしたこともない。
「どういうつもりよ!私は一人暮らしなんだから。それにうさぎは飼ったこともないのよ!」
しかしすでにジェラールはリュックを担いでドアを開いていた。
「大丈夫だよ。そこにうさぎの世話の仕方をメモしてあるから、その通りやってくれよ」
「メモ?」
見ると机の上に彼の手製のうさぎの世話の手引きらしいものがあった。

「じゃあ頼んだぜ」
私が再び彼のいる方を見ると、彼がこう言い残して退出した後だった。私はラビちゃんと共に部屋に残された訳だが、見ると彼女は私の手の中で小さな丸い糞をしていた。
「・・・・!」
やはり彼は後始末をせずに出て行ったのだった

 

 

さて、ジェラールは消えてしまったので、残された子うさぎをどうしようかと私は思案した。彼女をこのまま部屋で自由に振舞わせておくと、部屋中を糞と毛だらけにされる恐れもあるので、とりあえず古い書類の詰まったダンボールを空にしてその中に入れておくことにした。私は彼女をいったん床に降ろしたが、すぐにそれが間違いであったと後悔する破目になった。ジェラールのなすがままになっていた温和なラビちゃんも私の追跡には容易に屈せず、部屋中を逃げまわって中々捕まえることが出来ない。私は彼女を追いかけながら、机の端でしたたかに向こう脛を打って目から火が飛び散った。

「痛っい・・・ちょっとあんた、言うこと聞かないと丸焼きにしちゃうわよ!」
私は明日は青痣になるであろう足を押さえながら、主人そっくりな我がままものを睨み付けた。子うさぎは初めて対面 した時同様、鼻をピクつかせ黒い目を丸くしてこちらを見ている。その様子は、ジェラールが蒼い瞳を無邪気そうに丸くして私をからかう時にそっくりだった。私は彼女を小悪魔うさぎと勝手に命名することにした。

それから小悪魔うさぎの好物を買って帰路を急ぐのが、私の日課となった。暗い無人の部屋に一人残された彼女がダンボールの仮住まいから飛び出して何か悪さをしてないか、いやそれよりも丸まって冷たくなっていたらと懸念していたことが大きかった。何せうさぎの世話をするのは初体験で、ましてや小悪魔小僧の「女」を預かっているのだから神経質にもなる。

家に着くと真っ先にラビちゃんの入った箱の置いてある窓辺に向かう。少々動悸を早めつつ中を覗き、じっと片隅にうずくまっている時は手で触れ血潮が通 っているのを確認して胸を撫で下ろす。そして新聞を取り替えて水とエサを与えると、やっと人心地がついてタバコを一服するのがここ数日の私の帰宅後の慣習になっていた。

一人暮らしの気まま者が生き物を飼うことはやはり並大抵ではないと、小悪魔うさぎのおかげで身を持って体験できた。ラビちゃんがキャベツとニンジンの千切りを食べ終えたので、糞を警戒はしていたが、運動の為に床へ降ろした。しばらく自由を楽しむように跳ね回った子うさぎは、私の足元まで来てパントゥッフルを鼻で突付きイタズラを始めた。私はなんとなく可愛くなり、ジェラールの「うさぎの手引き」に書いてあったうさぎの好物の一つにパンがあったので、フランスパンならやってもいいだろうと、小片を千切って分けてやった。

食事を終え後片付けを済ませて戻ってくると、箱の中に戻ったラビちゃんがいつもより大きな音を立てて動いている。覗いて見ると、退屈していたらしく底に敷いた新聞紙を鼻先で突付いて遊んでいた。私の存在に気づいて見上げる様が、「外に出して欲しいよ」と無言のうちに訴えているようなので、 食後の運動をさせてやろうと思い、再び私はうさぎに手を伸ばした。今度は箱の中なので、この小さくて自由な生き物は問題なく私の手に納まった。いつもは身をよじって下へ降りたがるのに、今夜は何故か大人しくしている。グレーの毛並みの手触りは柔らかく、丸い体から伝わってくる温かみはやはり無機物では決して味わえない感覚だ。

私は彼女を床に降ろさず胸に抱いたまま赤いソファに寝そべった。その日の仕事がことさらにハードであった時、食後こうして何も考えず時の流れに茫然と身を任す場所が、この地模様のある赤い布を張ったソファなのである。普段はそれだけのことなのであるが、今日は癒しの天使がいるので彼女を愛撫しながら、その主人であるジェラールのことへと思いを巡らせていった。

彼はここ一週間ほど会社に姿を見せない。何故?休暇を取っている様子だったが、いつまで休みなのだろう?ジェラール。不思議な、妙に気になる存在。そして彼の周囲も謎めいている・・・

あの日の終業後、ラビちゃんを持ち帰るために適当な大きさのダンボール箱を探しに雑用係のモルグのところへ行った時のことも思い出された。彼の持ち場である地下の用具置き場へ行ってみると、ちょうど薄暗い物置から出てきたところだったので都合がよかった。彼は私を見つけると慇懃に礼をした。
「さ、さっきはすまんでした」
「いいのよ。それよりもこのうさぎ見て」

彼は私の手の中の一握りほどのうさぎを、相変わらず表情の判然としない象皮を貼り付けたような青黒い顔で見た。
「うさぎがこのビルにいたとは、珍しいものをお持ちで」
「そうなのよ。実はね・・・」
私はモルグに事情を説明し、適当な箱が入用なのだと言った。モルグは黙って私の話を聞いていたが、ゆっくりと後ろを向くとリサイクル用のダンボールをまとめてある台車に歩いて行き、それを探り始めた。しばらく大きさを測っていたが、子うさぎを入れるのにちょうどいい大きさの小箱が出てきたので、彼は無言でそれを私に示すと、手早く組み立て布で汚れを払い落とし、「これでいいのが出来た」と前歯の抜けた口元をゆがめて初めて笑った。

「ありがとう。うさぎちゃん、よかったわね」
「どれ、貸してごらんなさい」
しかし彼が手を伸ばすとラビちゃんはビクっと耳を立て、私の手から落ちるようにして飛び降りてしまった。
「あら!ラビちゃん!」
ラビちゃんは、経費削減の省エネの影響でところどころ電灯を消した薄暗い廊下を、脱兎のごとくと言う表現が相応しいスピードで駆け出した。私とモルグは逃げるうさぎの後を追う。えたいの知れない恐怖心に駆られた臆病な彼女は、リノリウムの床を長い後ろ足で蹴り、 尻っぱねをしながら廊下の角を曲がり姿を消した。モルグは老人めいた容姿の割には走り出すと異常に速く、私はたちまち遅れをとることとなった。少しでも早く走るため、私はヒールを脱ぎ捨ててモルグの後を追った。床の冷たさが足の裏に直接刺さってくる。せっかくジェラールに預かった大事な彼女なのに、何時間もたたないうちにこれでは・・・ エレベーターと床の間に挟まれたり、どこかに潜り込んで出て来れなくなったらどうしよう!息を切らしながら角を曲がると、ラビちゃんを持ったバンサンが立っていた。

「バンサン・・・」
その顔は微弱な明かりで顔色までは解らなかったが、褐色の瞳が異様な輝きを放っている。いつもは優柔不断な光を宿すだけの彼の双眸が激情に駆られてギラギラと高熱に浮かされたかのように輝いている。私が見る初めての表情だ。しかし脱走者を逮捕してくれたのでねぎらいの声葉を掛けねばならない。
「バンサン。つかまえてくれたの?ありがとう」
彼は差し伸べた私の手を無意識に振り払い、うさぎを持つ手に力を込めた。彼女は小さく「ブーッ」と鳴いた。そして彼はうわごとのように、途切れつつ何ごとかつぶやいている。
「これは・・・これは・・・ジェラール・・・うさぎ・・を」

バンサンの声は普段から低いのだが、この時は一段と酷かったので私は問い返した。
「どうしたの?しっかりして」
耳を澄ますと「このうさぎをジェラールは君にやったのか?」と聞き取れる。それにしてもこの動揺は何だろう?
「違うわ」
私は返事をした。
「ジェラールが休暇を取るので数日だけ預かるの」
返事がない。仕方ないのでまだ茫然自失している彼の手からウサギを奪い取ると、モルグの持っている箱に彼女を押し込めた。
「ジェラール・・・」
箱に蓋をしてからバンサンの方向を見ると、彼は夢遊病者のような足取りで来た方向へ歩いていた。何が起こったか解らない私の耳にモルグが地底から響くような低い声で囁くのが聞こえてきた。
「あれには翼があるのに気づかないといけませんぜ・・・」

(翼・・・何を意味しているのか・・・)
彼らとジェラールの間にはなんらかの関係がるのか?私の知らない・・・

私はお腹の上でラビちゃんが動くのを感じながら考えている。あの尋常でないバンサンの様子、意味ありげなモルグのささやき。思考は迷路を駆け回り様々な可能性を模索して今までの見聞の記憶の嚢中から該当する事例を探し出す。バンサンについては・・・もしやと思い当たる節もあったが、モルグのことは霧が降りた山道のように先が見えて来ない。

しかしバンサン・・・ ここまで考えた時、突然インターホンが鳴った。出てみるとそこからはあの晩と同じ声が響いてきた。
「俺、ジェラール。うさぎを貰いに来ました」
私はすぐに上がってくるように言い、オートロックを解除する。彼がエレベーターで上がってくるのを待つ間、大切な預かり物を箱に戻し 部屋を手早く片付けた。しばらくして部屋のチャイムが鳴りドアを開けると、いつものように小粋なスタイルで肩をそびやかしてポケットに手を入れた彼を想像していた私は絶句してしまった。彼、ジェラールの髪は乱れ、頬には大きな青あざがあり、額と口からは血を流して、服装は乱れて黒いジャケットにはあちこち泥が付着してあちこち引き裂かれていたからである



 

 

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