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しばらくの沈黙の後でシゲオは答えた。 潤は、期待した答えが返ってこなかったので落胆してつぶやいた。
さっきのはしゃぎぶりと打って変わって、うつむいてため息をつく潤の肩を、シゲオは自分の体に引き寄せてしばらく黙って様子を見ているようだった。シゲオの鼓動が伝わる。潤は自分を見放した両親や、体だけのぬ くもりを求めてすがりついてしまった松崎の顔を思い浮かべ、何とか嫌悪感を振り払おうと必死にシゲオの鼓動に集中していた。 トン、トン、トン、暖かい血の流れる鼓動。誰にも流れてるはずなのに、どうして俺には分けてくれなかったんだろう。いや、分けてもらってはいた。勉強のごほうび、セックスのごほうび。ただ、欲しかったのは無償の安心なのだ。それは誰にももらったことがなかった。シゲオとこうしていることは心地よいが、シゲオとて、たまに遊ぶ「知りあい」の一人にすぎなかった。
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「ジャンピングマウスって知ってるか?」 「何それ?」 「うじゃうじゃ地面でエサをあさってるネズミの群れの中にさ、一匹だけ世界を見たいと思って、ジャンプしては遠くの景色を眺めてたやつがいるんだよ」
「ドナーカードでも作って死ねっての?でもそれじゃあ生まれ変わっても人間だしな。鷲に食われようったって、動物園の檻の中の鷲じゃ飛べないしな」
言われたとおり、潤は空を見上げてみた。宇宙にまでつながっていることがわかるほどの深い紺色の青空だったが、やはり飛ぶには自分の体は重すぎると感じた。 「エンジェルダスト」 シゲオのフレーズがダイレクトに脳に入ってきた。
言いながらシゲオに視線を移そうとした時、周囲の草原がプリズムを通
したような虹色になっていることに気づき、あわててシゲオの横顔を見ると、シゲオの輪郭も虹色に分解されはじめていた。
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シゲオは湖を見つめたままフリーズしている潤をゆっくりとやわらかい草原に寝かせ、自分も横になり、大きな腕で抱きしめた。 「落ち着いて、落ち着いて、安心して」 優しく声をかけられながら横になり目を閉じると、いつもなら単なるまぶたに塞がれた暗闇もクリアーな突き抜けた空間になっていて、結局目を開けても閉じても、どちらにしても吸い込まれるように深淵に行き着いてしまうようだった。そのうち自分が目を開けているか閉じているかも、呼吸している空気がどこの惑星のものなのかも、重力がどの方向に働いているのかも、何もかもが混乱してきて、時間はバラバラのフィルムをめちゃくちゃに切り貼りしたようになり、いつの間にかやってきたノブと川口が心配して何か声をかけている顔が遠くなると、散らばった虹色の世界が凝縮され、上空にダイヤモンドのような巨大な結晶となって浮かんでいる光景が現れた。 空のダイヤモンドは長い間硬質な光を放ちながら確実に存在していたが、やがて徐々に輪郭がやわらかくなり、針の先のような細かい煌めく粉となって静かに降り注ぎはじめた。…ああ…これがエンジェルダストか……。だんだん積もってくる。山にも、草原にも、湖にも、俺たちにも。 ダイヤモンドが小さくなるにつれ、あたりは暗くなり夜が訪れた。まだかすかに舞っているエンジェルダストは冷えた空間でおたがいが引き寄せあい小さな固まりとなって空に残り星になった。空に残らずに落ちてきた分は湖に散らばって、満天の星空を映す湖面 となった。 「潤、だいじょうぶか?」 ノブの声だ。いつのまにか、皆は丘の上に並んで腰かけている。潤もシゲオの肩によりかかって皆と一緒に湖を眺めていた。 「うん、だいじょうぶ」 答えたのは俺の声だよな、うん、俺だ。潤はようやくLSDのピークが過ぎたことを知った。 「あせったぜ、潤、死んじまうかと思った。何言っても反応しないんだもん。壊れた人形みたいに転がってさ」 エンジェルダストの最後の一粒が、淡い光を放ちながら星をちりばめた湖水の上をすべっていく。生命が尽きかけたように、ぼんやりと儚く点滅しながら。わかってる。もう、いいんだよ、早く仲間のいる星空に落ちてしまいな。さみしいだろう、ねえ、さみしいね、早く落ちろ、早く落ちろ、俺も一緒に落ちてあげるから。 「おお、蛍じゃん、潤、見ろ、蛍だよ」 もう見てるよ。一緒に飛んでる。ああ、俺飛んでる。シゲオさんの言ったとおりだ。エンジェルダストを浴びたから飛べるようになったんだ。でも、ジャンピングマウスは鷲になったけど、俺はこっちのほうがいいや。落ちろ、落ちろ、落ちて星になって、明日の朝には消えちまえ。 「いいねえ、蛍、風流だね」 仲間はLSDの余韻を名残惜しむように大麻の回し飲みをはじめた。シゲオがジョイントを潤に渡そうとしたが、潤は蛍をじっと見つめていた。 「ホラ、潤ちゃんの番だよ。いらないの?」 仲間の声が遠ざかっていく。潤は星空の中に溶けていった。 |
※参考文献「ジャンピングマウス」山口書店刊
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