いつから鳴っていたのか、電話のベルの音に気づいたが、アーメッドは無視してそのまま横たわっていた。ベルは長い間ガランとした部屋に反響していたが、やがて途切れた。怠惰なまどろみに引き戻されていこうとした時、アーメッドは誰かの話し声に気がついて、電話の置いてあるサイドボードのほうを見た。
その視線は、ずっと手前で止まった。ベッドに腰掛けている自分の背中がそこにある。背中についたいくつかの傷跡を見て、アーメッドは思った。そういえば、俺はずいぶん熱心に体を鍛えていたな。軍事施設にいたこともある。やりすぎて、体中痛くて眠れない日々もあった。最初の悪夢の時のように。でも、俺たちはあの計画に入れ込んでいた。あの頃はほんとうに充実していた。

「アーメッド、聞いてるの?それでパパは、あなたを見どころがありそうだって」
「聞いてるよ。寝てたんだ。ゆうべは君のことばかり考えて眠れなかったんだよ」
瞬間的に時が移ると、アーメッドはベッドに腰掛けて受話器を持ち、楽しげにはしゃぐイーファンの声を聞いていた。
「昨日は緊張しすぎて、まだ頭がボーッとしてる。聞いてるから、イーファン、君が話して」
「あなたはちっとも緊張してるようには見えなかったわ。あの後食事をしている時にも、パパとずいぶん話がはずんで、わたし、ちょっとやきもちやいてたのよ」
「お父さんは立派な人だね。俺も楽しかったよ」
「今度、ママがあなたのために料理をつくるって。いまからメニューを考えてるのよ。わたしはケーキを焼くわ。それともパイの方がいい?」
「どっちでもいいよ。真っ黒こげじゃなければ」
「まあひどい、覚えてらっしゃい。素敵な出来映えのを見せてびっくりさせてあげるから」

ひどい頭痛のなかで受話器を置いたアーメッドは、床に唾を吐いた。なんだってこの世界は俺をつなぎとめておこうとするんだ。なんだって俺は、この世界に媚びるんだ。 それから思い出したようにプッシュボタンを押してサイモンに電話をかけた。電話口に出たサイモンは相手がアーメッドだとわかると気まずそうに口ごもったが、虚勢をはっていつもの調子で言った。
「何だよ、俺とは遊ばないんじゃなかったのか?」
「サイモン、デートしねえか?ドライブにさそってくれよ」
「はあ?…さては、なんだかんだいって俺様に惚れたな?」
「そうなんだよ。貿易センタービル行かねえか?そこからニューヨークの街を眺めようよ」
「こんなことなら親父のムスタングを借りとくべきだったな。今のはお姫さまを満足させるような車じゃねえぞ」
「中古のポンティアックだろ?色は赤。89年型だ。それがいいんだよ」
「……おまえ、俺の車なんか見たことあったっけ」
「お見通しだ。おまえは赤いオンボロのポンティアックに乗って、1時間後に俺んちの下でクラクションを鳴らす」
「不気味だな。どうせどっかに停めておいたのを見たんだろう」
「早く来てくれよ。お洒落すんのも忘れるなよ。最高のヒッピースタイルでエスコートしてくれ」

1時間待つまでもなくクラクションの音が聞こえて階下に降り、サイモンの車のドアに手をかけたアーメッドは皮肉な微笑を浮かべた。この世界は俺に都合がよくできている。俺はフロリダにいた頃、あの人の赤いポンティアックの助手席に乗って、よく仲間のアジトを訪ねたもんだ。あの人は秘密がばれないように、俺をパシリにしてた。一石二鳥の作戦だったな。みんなは俺をただの下っ端としか思わなかったし、あの人はいつでも俺に会うことができた。

運転席のサイモンはバツの悪さからかぎこちない様子だったが、洗濯したてのシャツやオーデコロンの香りから、これからのドライブに期待していることが十分見てとれた。こいつ、その気になってやがる。アーメッドは吐き気をもよおしたが、助手席に座りシートベルトをしめながらふざけて見せた。
「俺の王子さまは、いつにもまして男前だな」
「アーメッド、その、あんまりチクチク言うのはやめてくれないか。これでも、あれからだいぶへこんでたんだぜ」
「いいじゃねえか、俺がいいって言ってんだから」
「どういう心境の変化だ。あんなに怒ってたのに」
「照れてたんだよ、あの時は」
「信じていいのか?」
「かまわないよ」

どうせまぼろしだからな…。後に続く言葉を、アーメッドは自分の中だけで反芻した。まぼろしだ。世界も俺も。ほんとうに存在するのは、あの闇だけだ。

 

 

車はマンハッタンの中心の大通りを走り、フロントガラス越しに迫る摩天楼にひときわ高い二つのタワーを眺めながらアーメッドは言った。
「でかいビルだな。サイモン、あれはアメリカの経済の象徴だ。誇らしいだろう」
「当然だ。世界の経済はわが国を中心にまわっている」
サイモンはハンドルを握りながら得意げなポーズをつくって答えたが、すぐにしおらしく言った。
「いや、べつにおまえの国がどうとか、そういうことじゃないんだが」
「気を使うなよ。俺の国だってアメリカを中心にまわってるんだから」
「嫌味か?」
「そうじゃねえよ。アメリカが金を落としてくれなかったら、俺の国はいまだにおとぎ話の世界だ。石油さまさまだよ」
胸くそ悪い。そのおかげで、俺たちの世界は戦争だらけじゃないか。しかし、アーメッドはサイモンの肩を叩いてほほ笑んだ。
「そのおかげで、俺らも会えたんだしさ」

貿易センタービルの地下駐車場に車を置き第2タワーに入ると、ふたりはこまごまとした店やレストランの並ぶショッピングモールを抜け107階の展望台に向かった。そこから見渡す街はマンハッタンを中心に増殖し、大気の底に充満する灰色のスモッグは、まるで雑多なビル群の呼吸にも思えた。
「サイモン、このビルが無くなったら、ニューヨークの風景はずいぶん間抜けになるな」
「なんだよそれ。ああ、93年の爆破テロのことか?あれはショックだったな。爆破されたのはさっきの駐車場だ。しかし見ろ、アメリカは偉大だ。すぐに立ち直ってこの通 りだ」
「あのテロをやらかしたウサマ・ビン・ラディンは、サウジアラビアじゃ有名人だよ」
「気にするなよ。あんなのとおまえを一緒になんか思ってないよ」
「しかし、さっきから言うことを聞いてるとおまえはずいぶんな愛国者だな。ラブ&ピースの体現者としてはどうよ。ベトナム戦争のころは御立派なゴタクを並べてたみたいだが、おまえはどんなゴタクを並べてくれるんだ?」
「あの頃と今は違うさ。アメリカは常に反省しながら成長してる。反省を忘れないために、俺たちは愛と平和の歌をうたい続ける」
「その歌を、俺のまえでうたってみてくれないか?ぜひ聞きてえよ。俺がどれだけおまえを殺したくなるか試すためにな」
「おそろしいな。とうとうテロリスト転向をきめたか」
「冗談だよ。俺は自分の道を見つけた。大学はやめると思う」
「なんだって?」

展望台のカフェテリアに落ち着くと、コーヒーを飲みながらサイモンは言った。
「さっきの話、気になるな。おまえ何やるつもりなんだ」
「アフガニスタンが今どうなってるか知ってるか?」
「ああ、たしか内戦で大変なんだよな」
「悲惨なんだ。ほとんど無政府状態で、貧困と暴力と、略奪、レイプ…。いま、とりあえず政権らしきものををとってる一派も、いつまでもつかわからないだろう」
「あそこはソ連に侵攻されてから不幸続きだな。アメリカもずいぶん支援したみたいだが」
「最初はな。でもそのせいで長引いたとも言える」
「まあいいや、で、おまえはアフガンの何がやりたいのよ」
「もうじきわかるよ。必ず知らせる。ていうか、知ることになる」
「なぞかけか?でも、相当たいしたことを思いついたらしいな。まあ、これでおまえの鬱の心配をしなくてよくなるわけだ」
「なんだ、心配してくれてたのか」
「あたりまえだろう」
サイモンは切ない目でアーメッドを見た。アーメッドはかまわずに、しばらく世間話をしていたが、サイモンが生返事を続けるようになってきたのを見て潮時だと考え、ふたりで駐車場に戻った。

 

 

車を置いてある薄暗いフロアに行くと、サイモンは緊張しているのか打って変わって無口になり、ドアのキイを開けた。なんだよ、こいつ女の前でもこうなのかな。モテるとか言ってたわりにはしょぼい野郎だ。シートに座るとサイモンはやっと口を開いた。
「…さてと、これからどうする?まだ早いからしばらくそのへんを流すか」
「ここでちょっとふざけていかねえか?」
「ア、アーメッド、ここはやばいよ、人が来るし。そうだ、じゃあうちに…」
「意外と純情なんだな。俺はもう待ち切れないんだけど」
「おまえこそ、こんなに情熱的なやつだと思わなかった。こういうのはだな、手順が大切なんだ」
「あの時の勢いはどうしたんだよ。ねえ、サイモン、誰も見やしないよ」
どぎまぎしているサイモンに、たたみかけるようにアーメッドはささやいた。
「サイモン、車の中でしてみたいんだ」

耐えられなくなったサイモンが、助手席のアーメッドに覆いかぶさってきた。落ち着きなく位 置を変えるぎこちない腕の中で、アーメッドはほくそ笑んだ。どうだ、エルアミール、見てるんだろ?こんなやつを誘惑してる俺をどう思う?
サイモンの手が、シャツの上からアーメッドの胸をまさぐってきた。くすぐってえな、そこじゃねえよ。あの人みたいにもっとうまくやってくれよ。なんだよ、もう下にいくのかよ。先を急ぎやがって。興奮しすぎなんだよ、てめえは。
「サイモン、待って。大事なことを忘れてる」
「なに?アーメッド。何がして欲しいの?」
「キスして欲しい。サイモン、あの時のキスが忘れられない…」
サイモンに唇を覆われながら、アーメッドは祈った。あの時は、こいつのキスが暗闇の扉を開けた。お願いだ、エルアミール。そっち側からも扉を開けて。でないと俺はこいつとやっちまうぞ。エルアミール、サイモンの舌が入ってきたよ。これはほんとは、あなたの舌なんでしょう?目を開けたらあなたがいるんだよね。ここは、あなたの車の中だよ。

ゆっくりと目を開けたアーメッドの前には、上気したサイモンの顔があった。ちくしょう、様子を見てやがるな。いつもそうだ、取り澄ました顔で、心の中は嫉妬でいっぱいなんだ。フロリダで、あんたは夜の海岸通 りに車を止めて、俺を問いつめた。他の仲間とちょっと話し込んでただけだったのに、根掘り葉掘り聞き出したあげく、助手席の俺の髪をつかんで乱暴に…。
「もう一度、サイモン、キスして」
そうだ、こうやって激しいキスをして、俺を痛めつけた。アーメッドはサイモンの手をつかんでシャツの中に導き、あの男の痛めつけた場所に置いた。サイモンが夢中でそこを刺激したので思わず声が漏れるほどの痛みが走ったが、アーメッドの思い出は鮮明になり、あの男の気配がいっそう近づいたように思えた。

でも、あの日は違ってたな。抜けるような青空の下、あなたは俺を横に乗せて運転しながら、これからあるべき世界の姿を語っていた。それは静かな、祈りに満ちた世界。世界は生まれたばかりの時代に戻って、永遠に、誰からも邪魔されず、人々は神に愛され幸福は平等に行き渡り、感謝しながら土に還る。
あなたに言われて車窓に流れる海を見ると、波に太陽が散らばったようにキラキラ反射して、水蒸気と空の間に鏡のような陽炎がゆらめいていた。あの陽炎が故郷を映してくれたらいいのにねと俺が言ったら、あなたは堤防に車を止めて、手のひらでやさしく俺の目をふさいで、こうすればいつでも故郷が見えると教えてくれた。それから、その手のひらは、俺を安心させるように髪や、頬や、首筋をなで、この間ひどいことをしたばかりの胸をかばってくれた。

「サイモン、もっと、やさしく、そこを」
「アーメッド…こんなかんじ?」
「しゃべらないで、サイモン、俺の声だけを聞いて。さみしかったんだよ。なぐさめてくれ」
でもエルアミール、いつもこんなふうにしてくれなくてよかったよ。もしもいつでも甘えられたら、俺の暗闇は洪水になって、あたりかまわず汚してしまうところだった。俺は増長して、すべてを思い通 りにするために、どんなテでも使っただろう。あなたが言ったファシストという皮肉はあたってる。だから俺たちは罰を受けることになった。俺たちは理想をうたうことで暗闇を隠そうとしていた。
ああ、でも今日はずいぶんやさしいんだな。あなたの手はどんなに俺を愛しても足りないみたいに、せわしなく動いている。あなたは何度も何度もキスをくりかえして、俺の名前を呼んでいる。ここにいるのはあなただよね?今度こそ俺をあの闇に連れて行ってくれるんだろう?俺は永遠に、そこであなたと一緒に漂っていたいんだよ。俺たちは疲れてる。まだ断罪をする時じゃない。エルアミール、お願いだ。あなたの声で、俺の名前を呼んでくれ。

「アーメッド……」
抱きしめられながら自分の名を聞いたアーメッドは、それがサイモンの声だとは認めずに、ふたたびあの男に懇願した。これはいつもの遊びだろう?俺をへこませて楽しんでるんだろう?あなたはもう俺の前にいるんだ。この世界は嫌だよ。早く助けてくれよ。助けて、エルアミール。しかし、相変わらずサイモンの声が自分を呼び続けることに苛立ったアーメッドは、思わず声をあげた。
「見ろ、俺はいまアメリカと浮気をしてるぞ!」
サイモンは驚いて動きを止め、アーメッドの顔を見た。しかし、アーメッドはもどかしい怒りに言葉を押さえることができなかった。
「ちくしょう、俺はいつまでここにいなきゃいけないんだ」
「ど、どうしたんだよ、俺なにかへんなことしたか?」
「気が狂いそうだ。あんたが何とかしてくれないなら、俺が自分で始末するぞ」
「悪い、その、勝手がわからなくて」
「……死にてえよ。でも俺は死ねないんだ」
「アーメッド?」
「俺は死ねない、もう死んでるんだから」

アーメッドはサイモンを押し退けると投げやりにドアにもたれ、長いため息をついた。
「サイモン、全部ウソだよ。こないだの仕返しをしたんだ」
「…おまえ、感じてたじゃないか。ちゃんと反応してただろうが」
「ごめん、うん、そうだ。でも今日はやめよう。やっぱり勇気が出ない」
「なんだよ、その気にさせといてよ」
「まじでごめん。なんかいろいろかみあってないんだ。もう少し時間をくれ」
「つうか、おまえちょっとおかしくないか?言ってることがメチャクチャだぞ」
「メチャクチャに聞こえるのはおまえのせいだよ。おまえが気づいてないだけなんだ」
「わけわかんねえな」
「サイモン、自分が今どこにいるか、おまえこそわかってない」

サイモンはあきらめの浮かんだ表情で片腕をのばし、アーメッドの髪を軽くなでながら言った。
「病気が悪化してるな。展望台で話してくれた目標はどうした。アフガニスタンを救うために何か考えたんだろ?立派じゃねえか。おまえを尊敬するよ。悩んでるヒマなんかないんじゃないか?」
「……そうだな、俺にはやるべきことがある」
「そのとおりだよ。目標が決まったら、あとは突き進むだけだ。先を越されて俺はくやしいんだぜ。大成功して、もっとくやしがらせてくれよ」

アパートの前にアーメッドを送り届けたサイモンは、車のドアを開け降りかけたアーメッドのシャツをひっぱって言った。
「アーメッド、俺は気にしてないぞ。じつは俺も、最後までやっちまうのはちょっとやばいと思ってたんだ。嫌なら忘れてくれてもいいし、またさそってくれれば、そりゃ嬉しいし、おまえ次第でいいんだ。つまりその、友人であることだけは、止めて欲しくないんだ」
「ウソでもありがたい言葉だな」
「おまえの悪いところだ。もう少し他人を信用しろよ。鬱になるのは自分のせいでもあるぞ」
「おい、アメリカ・ジュニア」
「な、なんだよ、俺のことか?」
「俺は地獄の使者だ。めずらしい友人をもって、おまえはラッキーだな」
「あほか」
「アメリカ・ジュニア。おまえはいいやつだな。だけど今生では、俺たちは結ばれないようだ。来世でたっぷり可愛がってくれよ。じゃあな」



 

BACK     HOME     NEXT