強い日射しに青々と茂っていた木の葉もしなだれ、夏も盛りを過ぎようとするセントラルパークを、アーメッドとイーファンは歩いていた。あれ以来、キャンパスで何度かサイモンに会うことがあったが、おたがいに軽くあいさつを交わすだけで済ませ、アーメッドはいままでと変わらず生活していた。大学やアルバイト先の知り合いからは以前より明るくなったと言われることがたびたびあったが、アーメッドにとっては、それは当然だった。今の彼は暗闇を信じ、この世界はリアルな幻想にすぎなかったからだ。それを受け入れてからは、むしろ穏やかな浮遊感のなかに彼はいた。暗闇に漂っている時と同じように、現実という夢に漂っているにすぎなかったのだ。
乾いた影を映す小道を歩きながら、ふたりはいつもと変わらない恋人同士の会話をしていた。

「アーメッド、しばらく会えなくなるとしたら、どんな気持ち?」
「会えない理由によるだろ。君が俺を好きなまま行ってしまうんなら、ちょっとしたドラマを味わえるんじゃない?」
「ふうん、どんな理由でも会えないのは嫌だって言ってほしかったわ」
「じゃあ、どこにも行っちゃだめだ、イーファン」
「もう遅い。でも安心して、おばあちゃんのところにドイツからいとこが来るの。一週間、フロリダへ行くわ。久しぶりに会うのが楽しみなの」
「へえ、おばあちゃんはフロリダに?」
「ええ、パパが呼び寄せてしばらくこっちにいたんだけど、老後を楽しみたいって、7年前に引っ越したのよ」
「うらやましいな、フロリダはいいところだよね。おばあちゃん孝行しておいで」
「フロリダに行ったことあるの?」
「いや、話に聞いただけ。いつから出かけるの?」
「9月11日、朝の便で行くわ。もうチケット予約してあるの」
「見送りに行くよ」
「いいわよ、朝早いから」
「だって、俺の見送りも君の予定に入ってるんだろ?」

照れながらほほ笑むイーファンの肩を抱き寄せながら、アーメッドは空を仰いだ。エルアミール、もうすぐだな。終わりの時が近づいている。俺たちは今度も、手はず通 りに世界を破壊するのだろうか。
地下鉄の駅に入り、それぞれのホームに別れようとする時、イーファンはアーメッドの小指をひいて遠慮がちに告げた。
「あなたの部屋に行こうかな」
「…イーファン、だめだよ、お父さんたちが心配する。それに、すごく散らかってるんだ」
「まだ日は高いわ。もしも飛行機が落ちたらお別れなのよ」
「馬鹿だな、落ちるわけないだろ。じゃあ、君んちの駅まで送ってってやる。その間にもっと話そうよ。それとも、上に戻ってお茶でも飲む?」
「アーメッド、わたしたち、もう大人よ」

世界が俺をひきとめようと必死だな、今度は色じかけか。アーメッドはしばらく迷っていたが、小指をつかんでいるイーファンの手を握りなおして言った。
「まえに君を試して泣かせちゃったことがあるね。今度は君に試されてるみたいだ」
「アーメッド、あなたも泣きたくなるかしら」
「ならない。でも、心配ごとがあるよ」
「どんなこと?」
「後戻りできなくなったらどうする?」
「平気よ、あなたとなら」
「俺はおそろしいやつかもしれないよ」
「優しい人よ。もうわかってるわ」
「約束してくれる?俺をずっと優しい人でいさせてくれるって」
「おかしなこと言うのね。そんなこと簡単よ。今までどおりでいればいいんだから」
「じゃあ、何があっても、今までどおり俺を愛していてくれる?」
「アーメッド、何があっても、ずっとあなたを愛しているわ」

 

 

西日の射し込むアパートのベッドルームで、ふたりはしばらく寄り添って、世間話をしたりふざけて過ごした。イーファンの愛らしい冗談に、笑いながら抱きしめたアーメッドは、そのまま彼女を腰掛けていたベッドに倒してキスをした。小さくやわらかい唇が合わさった時、閉じたまぶたの奥に暗闇を一瞬忘れるような暖かい光が見え、唇を放してイーファンの瞳を覗き込むと、青い明るい鏡のなかに、まっすぐに映っている自分の姿があった。
「イーファン、もしもこのまま時が止まったら、俺たちしあわせだね」
「時を止めて、アーメッド。ずっとこのままでいましょう」
「君はフロリダに行けなくなるな」
「いじわるね。じゃあ、ずっとここにいることにするわ」
「そうしなよ、イーファン。フロリダになんか行くな」

ふたたびキスをしながら、アーメッドはイーファンの胸を手のひらでそっと包み込んだ。イーファンの吐息はいつか歩いた薔薇の花壇のそよ風のように頬を吹き抜け、アーメッドの心を甘い香りで満たした。イーファンの華奢な首筋を唇でなぞりながら、アーメッドはあの男のことを忘れている自分に気がついた。 もしもこのまま彼女と一緒にいられるなら、俺は暗闇を忘れることができるだろうか。アーメッドは目を閉じて、あの男に語りかけた。エルアミール、あなたが悪魔と呼ぶ世界に留まろうとする俺は、悪魔のように醜く見える?もしも俺があなたより彼女を選んだら、俺たちの計画は消滅するのだろうか。
イーファンのブラウスのボタンをはずしながら、アーメッドはさらに呼び掛けていた。エルアミール、この子の体は温かいよ。白くてなめらかな肌は呼吸をして脈打っている。俺に触れられているこの子の顔は、何の迷いも曇りもなく、まぶしいくらいに素直で、しあわせを感じていることがよくわかる。しなやかな腕は生命に溢れて、その命を分け与えてくれようと、さっきから何度も俺を抱きしめているよ。この世界は現実なの?どうして俺は今、あなたを求めていないのかな。

ふたりを邪魔する薄いヴェールは取り除かれ、アーメッドの前には初々しい二つの乳房が並んだ。イーファンはアーメッドを見つめ、優しくほほ笑みながらささやいた。
「アーメッド、ふたりの、新しいはじまりの時よ」
「イーファン、怖くない?」
「わたしはあなたを信じてる。怖くなんかないわ。さあ…」
しかし、彼女を抱きしめたアーメッドは、さっきまで生き生きと暖かかった感触が、ひとりで眠る時のシーツと似た冷たさを持ったことに気づき、不安に襲われた。
「イーファン、俺、緊張してるみたいだ。ねえ、愛してるって言ってみて」
「愛してるわ、アーメッド」
もう一度彼女を抱くと、それはさっきよりさらに実体が薄れ、アーメッドは失望した。エルアミール、やっぱりだめだ。俺はどうしてもこの世界には入れないみたいだ。
「アーメッド、どうしたの?何度でも言ってあげる。愛してるわ」
「…イーファン、でも結局、どうして君が俺を愛するのか、まだ聞いてないよ」
「なぜ理由が必要なの?アーメッド、愛してる」
「君の言葉はまぼろしみたいだ」
「まぼろしなんかじゃないわ。ほら、わたしはここにいるでしょう?」
イーファンは両手をのばし、アーメッドを自分の胸に抱き寄せた。小さな鼓動が聞こえる。でも、これは俺の鼓動だ。ベッドの上には、ひとつの鼓動しかない。
「イーファン、怖いのは俺のほうだ。君を信じられない」

蛍光灯が消えるように、窓から射し込む夕日が消え、部屋はいつものように空虚な暗闇となった。アーメッドはまたひとりでベッドに横たわり、憂鬱にまどろんでいた。俺は世界を信じられなかった。世界の、無条件の愛を受け入れることはできなかった。あとはただ、静かに終わりの時を待つだけだ。こうして、世界と暗闇の狭間を漂いながら。

アーメッドの腕を懐かしい手が掴み、淡い光の球と逆の方向に彼をひっぱりあげた。エルアミール、来たのか。でも、もうどうでもいいや。俺は眠りたい。しかし、アーメッドの体を自分の胸に引き寄せて男は言った。
「鼓動が聞こえるか?」
「ああ…聞こえる。俺とあなたとふたつ、暗闇に生きている証しだ」
「おまえは世界を拒否した。俺たちの計画は成功する」
「…よかったな、エルアミール。あなたの勝ちだね。世界は……」
「眠ってはいけない。アーメッド」
男はアーメッドの胸を自分の胸にしっかりと抱きしめ、耳もとでささやいた。
「俺は思想だ。おまえを救うことができる」
「あなたは…思想だ……」
「さあ、思想の腕の中へ」

触れあった肌の表層でさざ波が起こり、針の先ほどのほころびがきっかけとなって緊張が破れ、アーメッドの中に男の闇が流れ込んできた。それは冷たくも温かくもなく、水銀のような粘力を持ち、静かに淀んでいた自分の闇を押し分けながら広がっていった。体内に満ちていく異質な闇の抵抗感に身をそらし、苦しさに上げた声は息にしかならず、アーメッドは男から体を離そうと両腕を掴んだが、ふたつの闇はすでに同化しかかっていた。

「エルアミール、やめて」
訴えるアーメッドの声を男の唇がふさぐと、新たな闇の粘液が口腔を満たし、そこからも体内に侵入していった。そして隙間から溢れ出た闇は次第に外側をも覆いつくし、アーメッドはかろうじて残った薄い境界線のみの存在となった。
「アーメッド、俺の中におまえがいる」
「…エルアミール、俺の中にもあなたが」

やがて、熱を持った闇が対流をはじめ、中心をオニキスに似た黒く硬質な支柱が貫いた。鋭く巨大な支柱は機械的な振動を起こしながら、身を押しつぶすような磁力でアーメッドを縛りつけた。
「苦しい、もう、嫌だ」
「アーメッド、思想を選んだのはおまえだ。世界を拒否したおまえの行くところは他にない」
「それが、俺の罪だ」
「違う。罪から救われるために、おまえは思想を求めた」
「俺たちの思想は、聖なる戦い」
「そうだ、ジハードだ」
支柱はマグネシウムのような火花を散らしはじめ、内側からふたつの闇の境界線を破っていく。アーメッドにはもはや自分と男の存在さえ区別 がつかなくなり、ただ異様な闇の運動に身をゆだねていた。
「アーメッド、俺たちはひとつになった」
「俺たちはひとつだ」
「溶け合っているのがわかるだろう。おまえは俺になった」
「俺は、あなたになった」
「おまえは思想だ。俺は、おまえの中で恍惚としている」

オニキスの支柱から煌めく閃光がほとばしり、飽和した闇を覆っていった。

これが思想の味だ。
……俺たちは、思想だ。

 

 

9月11日の早朝、アーメッドとイーファンはニューアーク空港にいた。フロリダ行き93便の巡行を確認しスーツケースを預けると、出発ゲートの入り口でイーファンが言った。
「一週間なんてあっというまね。できればあなたと一緒に行きたかったわ」
「ハガキでも送ってよ。綺麗な海の写ってるやつ」
「ハガキとわたし、どっちが早くあなたに会えるかしら」
「君が先に会いに来て。じゃあ、イーファン、早めにゲートに入ったほうがいい。気をつけて」
「あっ、そうそう」
イーファンは思い出したようにポシェットの中を探ると、ベージュ色の手帳にはさんだ一枚の写 真を取り出した。
「これ持ってて。おばあちゃんがフロリダに行く時に家の庭で撮ったの」
「…へえ、可愛いな。この時、いくつだったの?」
写真には、白い薔薇の咲く緑の芝生に並んだ品のいい老婦人と愛らしい少女の姿があった。
「12才よ。今と違う?」
「ずいぶんやせっぽちだな」
「あんまり丈夫じゃなかったのよ。でも今は…あなたが知ってるとおり」
「うん、君は、しあわせそうな大人になった」
「とてもしあわせ。あなたのおかげで」

軽いキスを交わし、ゲートに消えていくイーファンを見送りながら、アーメッドは思った。 イーファン、そういえばこの名前は、あの人がドイツにいた時に近寄ってきたっていう、インテリかぶれの女の名前だったな。俺はいろんな人の記憶を借りて、この世界を造り出した。
ボディチェックを終えてゲートの向こうから手を振るイーファンに、ほほ笑み返しながらアーメッドはつぶやいた。

でもイーファン、自分から言ってくれるとは思わなかったよ。
君は12才で死んだ俺の妹。君の墓に薔薇を植えたのは俺だ……。


手にした写真をしばらく見つめていたアーメッドが顔をあげると、ロビーに散らばった数人の男の姿が目に入った。それは、彼のよく知っている、懐かしい面 々だった。
あそこにいるでかいのはジアド・ジャラヒ。俺たちがハイジャックした93便は、彼の操縦でホワイトハウスに突っ込む。隣にいるのはアーメッド・アルハズナウィだ。真面 目で頼りになるやつだった。それから、あっちにいるチビはサイード・アルガムディ。こいつとはいつもつるんでいた。俺たちは機内を制圧するために、ずいぶん訓練を受けたもんだ。
今頃、他の連中も守備よく持ち場にいるはずだ。あとの2機は世界貿易センタービルに、もう1機は米国防総省に突入する。俺たちのリーダーはムハマド・エルアミール・アタ。親しい人間にだけエルアミールと呼ばせていた。俺はサウジアラビアで学生だった頃、モスクでイスラム過激派グループに出会い、彼を知った。

仲間たちが次々とゲートに消えていくと、アーメッドは持っていたデイパックの中に手を入れ、小さなカッターナイフの感触を確かめた。ナイフに触れながらふたたび目を上げた時、彼は戦慄する機内の通 路に立っていた。乗客たちはすでに客室の後部座席に集められ、かみ殺した悲鳴やすすり泣きが無機質な風切音に混ざっている。背後から軽く肩を叩かれふりむくと、そこには少年の頃の自分が笑っていた。 記憶にある姿のままの無垢な少年は、全身に浴びた返り血を気にする様子もなく、涼しげな声で言った。
「遅かったじゃないか、アーメッド」
「悪い、寄り道してたんだ。おまえこそどうしたんだよ。将来の夢は捨てたのか?」
「夢がかなったんだよ。僕は殉教することにした」
「殉教だって?ずいぶんぶっそうな殉教があったもんだ」
「君こそなんで来たんだ。もしかしたらもう来ないかと思ってたのに」
「…俺は、ダメだったよ。ここは、すべてを終わらせるには上等の場所だ」
「まだそんな甘ったれたこと言ってるの?自分の手を見てごらんよ」

アーメッドの手には血まみれのナイフが握られ、足下には喉を掻き切られた乗客の死体が転がっていた。立ち尽くすアーメッドの背後から「アーメッド」の声が聞こえた。

「これが僕たちの思想だ。さあ、君はどうするの?」

乗客たちの中に、泣き出した子どもを抱くようにしてかばっているイーファンの姿があった。アーメッドはナイフを手にしたまま彼女の前に立ち、静かに告げた。
「イーファン、いや、君は俺の世界だったね。答えてくれ、今の俺にでも愛してるって言ってくれるかい?」
怯えた表情でアーメッドを見つめる彼女の眼から、涙があふれだした。
「ねえ、最後のチャンスだよ。君と俺の悪夢を覚ましたいんだ。お願いだから」
「…助けて」
「そうじゃない、俺は世界を愛したいんだ。俺の欲しい言葉は……」
彼女の顔が歪み、恐怖にひきつった悲鳴とともに機内の後方で凄まじい爆発が起きた。バラバラに砕け散る彼女の破片を浴び、自らも爆風に巻き込まれ崩壊しながら、アーメッドは思考していた。

……これが答えだ。俺はまた闇に帰る。

 

 

闇はふたたびその深淵に彼を迎え入れた。時の止まったような重い空間に漂いながら、アーメッドは思考とまどろみをくり返していた。時おり、闇のはてから聞き取れない声が彼を呼ぶことがあった。それは祈りにも似た節を持っていたが、その声の元に行くには遠すぎるほどかすかなものだった。
それから、透明な体温だけの存在が近くを通り過ぎて行くのを感じたこともある。その存在は彼に何の感情の変化ももたらさなかったが、孤独な闇のどこかに異世界との接点があることを知らせた。意識が覚醒している時、彼はあの男に呼び掛けることがあった。体内に残るわずかな感触をたよりに、彼はとめどなく言葉を漏らした。するといつしか、懐かしい声が胸に響いてくるのだった。


……エルアミール、あの計画を聞いた時、俺は興奮していた。悪魔の手から世界を取り戻し、平和で穏やかで愛にあふれた理想郷を創るために、俺たちは現世を捨てジハードの英雄として天国に凱旋する。先頭で高々と剣を振りかざし指揮をとるあなたに、俺はいつも憧れていた。あなたは血に染まったコクピットの操縦席に座り、なめらかで巨大な飛行機を操って空を飛ぶ。双児のタワーが迫ってくる時、あなたの胸は高鳴りもう他の物は何も目に入らない。操縦桿を握るあなたの手は正確に位 置を整え、あなたの道はただ理想に向けて恍惚と開かれる。

そびえ立つ超高層ビルに突き刺さっているあなたの飛行機を想像してごらん。あなたは世界をレイプした。世紀のエクスタシーの味はどんなだった?果 てたあなたを包んでいる暗闇は、惰性で淫らな余韻を残す真夜中のベッドのように、今も心地よい?


アーメッド、死は終焉への入り口にすぎない。死の扉を開けた時から、魂の旅がはじまる。最後の聖域は宝石のような結晶となって、広大な闇の世界のどこかに存在し魂を呼び寄せる。聖域への旅は孤独で果 てしなく、魂は疲れ嘆き絶望する。しかし暗闇は常にせめゆらぎ、魂が旅の途中で眠ることを決して許さない。

長い旅路のはて、魂はその輪郭を削り取られ、思考は薄れ、記憶を失い、バラバラに崩れ、引力に吸い寄せられる粒子のように結晶に付着し、同化する。同化した魂はその本質を問われることはない。幸福も喜びも愛も、後悔も悲しみも罪も、ただ聖域を形作る点の一つにすぎない。そこにあるのは安らぎでも癒しでも罰でもない。宇宙の、永遠の法則だけだ。俺たちは法則に従って世界の混沌を破壊した。新しい秩序の産屋を用意するために。


エルアミール、いつか海岸で、白い砂を両手ですくってサラサラと風に流した。海を見たことのなかった俺は、浜辺の砂は全部白いと思っていたけど、日に透ける砂粒は白や灰色や黒や、金色や銀色や、それから丸いのもとがったのも、みんな光ったり影になったりしながら消えていったよ。
俺はその中から、ガラスみたいに透明なやつばかり集めてみようと思って、いつまでも一人で砂浜にいた。そのうち日が暮れてきて、砂粒が見えなくなって、それでも波の音を聞きながら砂をすくっていた。

あの日、やるべき事をみんなすっぽかして夜更けに帰った俺に、あなたは何も言わなかった。ただ俺の頬に指先で触れて、それを示して笑った。あなたの指先は濡れていた。俺は時々、いつのまにか泣いていることがある。あの癖は、最後まで治らなかった。

エルアミール、俺はまだ聖域への旅をはじめることができない。胸の中の罪を砕いて、あの砂粒みたいに暗闇に流すんだ。それからひと粒の透明な砂を見つけて、もう一度世界に生まれる。それは断罪のための試練。聖域へ入るための禊。祈りのための生だ。 俺には、余りが多すぎた。それをもてあましたままでは、聖域さえ破壊したくなってしまう。あなたはいっさいの余りを認めずに、救いを法則に求めた。あなたが悪魔と言った世界は、あなたを悪魔と呼ぶ。浄化された彼岸で、あなたはどんな姿をしているの?

もしもまたどこかで会えるなら、俺は人間の姿をしたあなたに会いたい。エルアミール、俺たちの原点は人間であるべきなんだ。

 



2002.2.4■■

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