うずくまったままのサイモンを残して部屋を出たアーメッドは、エレベーターの中でもあの男の顔が忘れられず自問をくり返していた。あれは幻覚だったのか?いや、俺は確かに、あの人を知っている。あの人の名前が口をついた時の俺は、ここにいる俺よりも、俺らしかった。
エントランスを出ると、生き物のようにまたたく街の灯が目に飛び込んできた。やばいな、まだ抜けてない。俺、チョコレート臭くねえか?自分のアパートまでは地下鉄で3駅ほどだったが、あまり長時間人目につかないほうがいいと考え、アーメッドは歩いて帰ることにした。
来たばかりの頃はニューヨークの街の大きさに驚いたものだったが、はじめての体験の連続に無我夢中でいるうちに、いつの間にか慣れてしまった。久しぶりに剥き出しになった感覚で街を眺めてみると、あの時以上にその異様さが迫ってきた。煌々と灯されたネオンサインやビルの明かりは、電気の霧のように大気に充満している。大通
りには車のライトの軌跡が筋になっていつまでも消えず、体にへばりつく光の川の中を、人々が流れていく。
しかし、そんなきらびやかなメインストリートをちょっと入れば、暗い路地に溶け込んだ得体の知れないたくさんの目が彼を品定めしている。同じ目をしていなければ、連中にとってすべては物と同じだ。奪うか、犯すか、無視するか、隙を見せれば彼らに従うという合図になるのだ。サイモンの部屋を地獄と言ったが、無理もないな。こんなところで育ったあいつには、地獄が天国なんだろう。
ふと、アーメッドはあの男が言っていたことを思い出した。そうだ、あの人も似たようなことを言っていたな。でもアメリカのことじゃない。俺たちの世界のことだ。あれはどこでだったろう。アメリカに来るまえに、俺はあの人に会ってる。そこであの人は言った。俺たちの世界は地獄だと。俺たちは少数派だ。地獄で生まれ育って、それがあたりまえだと思って死んでいく人たちが大勢いる。こことの違いは、地獄しか知らない彼らが、せめて自分たちの場所を天国だと勘違いもできないことだ。いや、俺がアメリカを地獄だと思ったのはあの人がそう言ったからだったな。あの人はここを悪魔の国だと言った。
アパートに着き、とりあえずシャワーを浴びながらも、アーメッドはあの男のことを考え続けていた。あの人は潔癖性だった。俺が部屋に入ると必ずバスルームに行くように言った。そしてあの人のまえに行く時は、タオル1枚身につけることを許さなかった。
ひどい怒りと屈辱感が込み上げてきて、アーメッドは濡れた壁を叩いた。そうだ、俺はあの人を憎んでいた。なんでさっきはあんなに懐かしいと思ったんだろう。あのまま、目が醒めないでいてほしいみたいに。
アーメッドはそのまま何も纏わずにベッドルームに行き、暗い空間に向かって言った。
「エルアミール、この名前も、ふたりきりの時だけ呼ぶように、あんたが命令したんだよな。いまも命令どおり、こうして来たよ」
自分の裸体を示すようにまっすぐに立って、彼は続けた。
「エルアミール、教えてくれないか?あんたは誰で、俺たちはいつ会ったんだっけ」
目の前には、人気のなかった冷ややかな部屋が広がっているだけだった。アーメッドはもどかしさと不安にしめつけられ、うつぶせにベッドに倒れ込んだ。
「エルアミールって誰だよ。俺は気が狂ったのかな」
ふと、背後に誰かの体温を感じた。サイモンの部屋で頬に触れたのと同じ手が、背中に置かれた。その手はなだめるように背中をなでまわし、次第に位
置を下げ、他人には決してさわらせるはずのない箇所で止まった。アーメッドは緊張していたが、そのまま身をゆだねてみようかという気分にも陥っていた。しかし、その手が彼に侵入しようとすると、耐えられなくなって体を起こし後ろをふりむいた。
「思い出したぞ。あんたは次に俺を張り倒すだろう。少しでも抵抗すれば、あんたは豹変するんだ。そして、いつもそうなるように仕向けるんだ」
アーメッドは自分がひどく興奮して息を荒げていることに気づいた。馬鹿みたいだ、なんだって俺はこんなに熱くなってんだ。まだラリってんのか?しかし、今はどうしても沸き上がってくる感情を押さえることができなかった。
「なんで俺を支配したんだ。俺とあんたは…たしか同じ目的を持ってた。同志だった」
暗闇の中に、アーメッドは懸命に男の面影を描き出しながら、その姿に哀願した。
「エルアミール、わかってるぞ。そこにいるんだろ?お願いだから」
静まり返った部屋に、自分の声だけが響く。
「ちくしょう、これがあんたのテなんだ。俺をはめて、観察してるんだ。フロリダにいた時だって」
フロリダ?アーメッドは自分の言葉にぞっとした。俺はフロリダに行ったことなんかないぞ。しかし、ふと最初の悪夢の時に聞いた数人の男の寝息を思い出し、不思議な確信が胸にわいた。そうだ、俺はフロリダにいたことがある。仲間たちと一緒に。
▼
「どうしたの?さっきからうわの空だわ」
大学のカフェテリアで2杯目のコーヒーを運んできたイーファンが心配そうに言った。
「アーメッド、具合でも悪いの?いつものあなたじゃないみたい」
「イーファン、俺の教授の名前は何だっけ?ここは何て大学?」
突然の問いかけにポカンとしている彼女から目をそらしたままでアーメッドは続けた。
「俺たち、どこで知り合った?君はどうして俺を好きなんだっけ。まだ一度も聞いてないよ」
「こんなところでそんな話しないで。みんなに聞こえるわ」
「みんなって誰?なんでいつもはぐらかすのさ。言えない理由でもあるの?」
「ひどい」
「そうだよ。俺は君にひどいことしないなんて、保証した覚えはない」
「怖いわ、アーメッド。お願い、やめて」
「ねえ、俺は誰に見える?」
静かなカフェテリアにイーファンのすすり泣く声が響き、うつむいたままアーメッドは考えた。あの時みたいに、顔を上げたらあの人がいて、いっそのこと俺を連れ去ってくれないかな。とうとう彼女まで信用できなくなっちまった。
「……あなたはアーメッドよ」
「君は」
「わたしはイーファンよ。それだけじゃいけないの?あなたおかしいわ。さっきからどうしてわたしを見ないの?」
またあの人は来る気がないんだな。俺のまえにいるのはイーファンだ。ほら見ろ、そのとおりだ。彼女は泣いてる。かわいそうに、こんなところで泣かせてしまった。うわさにでもなったらどうするんだ。彼女はしばらくの間、友だちに会うたびに何か言われるかと不安になるだろう。なぐさめてやれるのは俺しかいないのに、その俺を彼女は怖いと言った。彼女には綺麗な物語を用意してやるって誓ったのは、どこのどいつだ。
「ごめん、イーファン、どうかしてた。出よう」
こちらの様子をうかがっている他の学生たちの視線から隠すように彼女の肩を抱きながら、アーメッドはカフェテリアを出た。大学の中庭を抜け、ちょうど盛りで薔薇の咲き乱れる花壇のそばを通
りかかると、イーファンがようやく口を開いた。
「わたしたち、この花壇のまえで会ったのよ。あなたが立ち止まって見ていたから、わたしが声をかけたの。男の子がそんなことをしているのがめずらしかったから」
「それはいつ?」
「去年の今頃だったわ。あなたは、薔薇はサウジアラビアの花だって、懐かしそうに話してた」
「そう、家の庭にも薔薇が咲いていた。いや、あれは友だちの家だっけ。同じ名前の友だちがいて、彼は病気の妹のために、窓から見える場所にたくさんの薔薇を植えた」
「アーメッド、よかった、いつものあなただわ。どうしてわたしを試したりしたの?」
「試しただって?」
いや、そういうことにしておこう。アーメッドはまだ涙の跡の残るイーファンの頬を両手で挟み、じっと見つめながら言った。
「自分のことでイライラしてた。やつあたりしてごめん」
「何があったのか話して」
「たいしたことじゃないんだ。ちょっと疲れてた。二度としないから許してくれる?」
返事のかわりにイーファンは頬におかれたアーメッドの手を自分の手で包むと、唇によせて小さくキスをした。
「いいわ、今度だけよ。気分を変えましょう。…そう、お友だちの話の続きをして」
アーメッドは彼女の手を握りかえすと、そのまま一緒に歩き出した。
「友だちはやさしいやつだったよ。でも、家が貧乏で、その妹は医者にもロクにかかれずに12才で死んだ」
「…かわいそうに」
「だけど妹が死んだ時、彼は泣かなかった。妹はようやく天国で遊ぶことができるって。それで、妹の墓にも薔薇を植えた」
「それならきっと、今でも天国には薔薇の花がいっぱいね。やさしいお友だちのおかげで」
「そうだといいな。それにしても、今こんな話をするべきじゃなかった。俺たちのことを話さなきゃ」
そう言ってから、アーメッドは思った。俺たちの話か。もう終わっていくことばかりなのにな。しかし、イーファンはいつものような明るい口調で答えた。
「そうそう、もうすぐ金曜日よ。早く両親にあなたを会わせたい。あなたを見たら、パパの考えなんてコロっと変わっちゃうわ。いい?約束に遅れちゃだめよ」
彼女の学部の校舎のまえで別れると、一人になったアーメッドはつぶやいた。
「薔薇を見たら薔薇の思い出話か…できすぎだな」
それから、さっきまで彼女の手をつないでいた感触を確かめるように自分の手のひらをじっと見つめた。
「あの人の手より、現実感がねえや」
▼
金曜日、アーメッドは一日中カーテンも開けずベッドに横たわっていた。夕方になって雨が降ってきたことが、外を走る車のタイヤの音でわかった。彼はボンヤリと考えていた。雨か…。イーファンはますます最悪の気分だろうな。
床には半分破れかけたオペラのチケットが落ち、脱ぎ捨てた衣類や本が散乱していた。もう公演がはじまる時間だ。イーファンは俺がすっぽかしたことを両親になんて言い訳してるんだろう。どのみちこれで終わった。あとはたぶん、彼女が泣いて、ケンカして、ふたりともしばらくさみしい思いをして、忘れていくだけだ。お決まりのパターンだな。
アーメッドはため息をついて寝返りをうった。綺麗な物語なんてウソッパチだ。そんなこと望まないでもっと早く別
れておけば、彼女をここまで傷つけないで済んだんだ。いや、綺麗に終わらせる方法がひとつだけあるぞ。今日、俺が死んじまえば、彼女は悲劇のヒロインになれる。美化した思い出の中で、俺は永遠に生きられる。
しかし、ベッドから起き上がる気力もない自分を、アーメッドは小声でののしった。
「おいアーメッド、なまけものもここまできたらおしまいだな。死んでるよりひでえぞ」
それからまたあの男の面影が頭をよぎって、むしょうに懐かしくなり、悪夢の中で触れて来たあの手の感触をなぞるように、自分の手を胸にあてた。
あれ以来、俺はいつも部屋に帰るとすぐシャワーを浴び、ベッドに入るときは何もつけない。あの人はここにいないのに、俺はずっと命令を守っている。アーメッドは胸の上で、あの男が自分にしたことを再現していた。
はじめに、あの人はこうしながら、右手であの場所を探す。あの人の右手はなかなかそこに辿り着かない。近くまで来るとまた振り出しに戻って、やりなおしだ。その間中ずっと、あの人は俺の暗闇を言葉でほじくりだす。俺はいつも憎しみと屈辱で吐き気がしていた。でもあの人の右手がようやくそこに辿り着いた時…。アーメッドは自分の手で熱くなったそこに触れ、吐息とともにささやいた。
「エルアミール…」
それが合図だ。あの人は勝ち誇って俺の上に君臨する。余裕で俺を操縦する。俺は自分がみじめで情けなくてどうでもよくなっちまう。ちょうど今みたいに、自分の暗闇にはまりこんで、闇の向こうから伝わってくるあの人の体温にすがりついてしまう。そう、俺の闇に入れるのはあの人だけだった。だからどんなに憎んでも、あの人と離れられなかった。
雨の音に、とぎれながらかすかにパルジファルの旋律が混じっていた。それは意識を集中すると消えてしまう。しかし忘れているといつの間にか透明なロープとなって感覚を縛りつける。潮の満ち干きのようにくり返される緩やかな音の海が、冷たいシーツをしめらせていく。
この音は、泣いてるみたいだ。これはあの子がいま聞いている音なのかな。アーメッドは一瞬イーファンのことを思い出したが、すぐにそれは新しい波にかき消された。今度の音はちがうな。憂鬱で偏屈で融通
がきかない、でも表面を、細かくふるえるゼリーみたいなものが覆っている。そのゼリーはこれと似ている。
アーメッドはそこにあてていた親指で、あふれていた蜜をそっとすくいとった。あの人は音楽を悪魔の歌だと言って、仲間たちには聴くことを許さなかった。でもふたりきりでいるとき、よくこの曲をかけていた。そうだ、あの人はドイツにいたことがある。あの人はドイツに留学して、そこでこの音楽を知ったと言っていた。あの人も、俺と同じように苦しんでいた。
「ワグナーを好むのはファシストだ。どこか俺たちと似ていると思わないか?」
あの人の声だ!アーメッドは思わず身を起こそうとしたが、現実に引き戻される不安からそのまま身を横たえ、感情を押さえながら心の中で答えた。
「……そう、その皮肉を、あなたはいつも言っていた。あなたは自分のすべてを信じていたわけじゃない」
「俺たちが粛正したいのは自分自身だった」
「でも、それは禁句だってあなたは言った。俺たちはいつもウソと真実の狭間にいた」
「アーメッド、おまえの闇は俺に心地よかった」
「エルアミール、あなたの闇の中でしか、俺は眠れなかった」
アーメッドは自分の身体の上に、あの男が静かに重なってきたことを知った。男の吐息は少しの間アーメッドの首筋や耳たぶを彷徨っていたが、やがて唇に合わさり、やわらかく同化していった。
「エルアミール、見て。ずっと命令を守ってたよ」
男は父親のようにアーメッドを抱きしめると、全身に息を這わせてその状態を確かめた。
「いい子だ。自分で準備も整えているじゃないか」
先ほど蜜をすくったその場所が、今度は自分のものではない、温かく甘美なゼリーで濡れるのがアーメッドにはわかった。
「でも、知ってるよ。あなたは絶対に、俺をゆりかごに寝たままでいさせてくれないんだ」
「俺は暗闇すら壊したい衝動にかられる」
「そうだ、だから俺で試してたんだ。あなたは臆病だから、自分で自分の闇を壊すことができなかった」
アーメッドの頬に痛みが走った。
「その調子だよ、エルアミール。俺たちは何かでかいことをしようとしてた。もしも憎しみで防御しなかったら、俺たちはおたがいを哀れんで、中途半端に消えちまうところだった」
「俺はやり遂げた。おまえは…」
「そうだ、俺はあの計画をやり遂げることができなかった。ざまあみろだ。あなたには結局俺を導くことはできなかった。俺を支配することに失敗したんだ」
いきなり、男が乱暴にアーメッドに侵入してきた。アーメッドは苦痛の声を喉元で殺し、とぎれながらも強気に言った。
「せいぜいこれがあんたの支配だ。こんなもの、俺はすぐ慣れちまったよ。コツがあるんだ。心を消せばいいんだ。あんたなんか、この世にいないと思えばいいんだ」
「アーメッド、何を言っても無駄だ。これはどうした」
心とはうらはらに、葛藤から解き放たれたいと望むアーメッドのそれを、男は自分の手で快楽の道に誘導した。
「慣れたのは心だけじゃない、体もだったな、アーメッド」
「…エルアミール」
よく仕込まれたもんだ。アーメッドは自分の中心から次々と広がる官能の波紋にあえぎながら、卑屈に笑った。しかしすぐにその余裕もなくなり、男の闇に吸い寄せられてすべてをあずけ、自分も男のすべてが欲しいと切なさに声をあげるのだった。
「もう、どこにも行かないで、エルアミール」
「どっちなんだ、アーメッド。俺を憎いのか、愛しているのか」
「ただこの闇の中に、一緒にひたっていたいだけなんだよ」
「アーメッド、それは贅沢な望みだ。おまえの罪は許されない」
「…俺の罪……」
「俺は混沌としたおまえの内部をかきまぜる。やがてそこから罪の粒子が分離する」
「エルアミール、もっとかきまぜて」
「罪の粒子は果てしない軌道を巡り、やがて暗闇と共に次元の狭間で消滅する。おまえが許されるのはその時だ」
「いやだ、許されたらあなたと会えなくなってしまう。ずっとこうしていて。一緒にいて」
「アーメッド、俺は行かなければならない。おまえも、おまえの行くべきところに」
「行かないで」
「行くんだ、アーメッド」
「まだ行きたくないよ。行かないで、行かないで」
懐かしい闇が崩壊して溶け出し、螺旋を描きながら胎内をつきぬけ胸にわだかまった。それは胸が破れるかというほど狂おしく吹きすさび、アーメッドを巻き込み、ゆるやかになるにつれ重く淀み沈んでいった。
タールのような闇にまみれて墜ちていきながら最後に男の名を呼んだ時には、アーメッドはもうあきらめていた。あの人は俺を連れ去ってくれなかった。俺はまたこの世界に取り残されてしまった。
しばらく、アーメッドはあの男の名残りを探して、目を閉じたまま指先でシーツの上をまさぐっていた。それから、さっきの嵐にもぎとられて空虚になった胸をかばうように体を丸め、眠っているのか起きているのかわからないような、ボンヤリとした時間を過ごした。
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