うまか棒

 




「お前も泳がないの?」
海の中に腰まで浸かった潤が、振り返って言う。正午前の太陽はすでに真天にある。ギリシャ神話では、太陽とはアポロンが駆る4頭立ての馬車が天駆けている様だとされているが、美しい青年の姿をした神の運行の証拠は、不遜にも潤の体で遮断され、光彩 を帯びたシルエットになって四方へ光の粒子を撒き散らしていた。そして、逆光によるかげりを帯びた横顔の中で私を見る瞳は、何故か瑠璃色に見えた。瑠璃─ラピスラズリの深い青は、遠海を縁取る水平線の色でもある。
「私はいいわ」
黒いパラソルを回しながら砂浜に立つ私のパレオの裾が、沖からの風をはらんで翻る。潮の匂いが、乱れた髪に絡みつくのを感じる。
「せっかく海に来たのにつまんないじゃん」
潤はかなり不満そうにふっくらした唇を尖らせて、遠洋とは逆方向に体を向け、浜に向かってゆっくりと歩き出した。はるかな大洋で生まれた波が押し寄せ、彼の背を打ち、白い飛沫を上げて砕け散った。崩れ落ちる波頭が潤を一時とりこにして海に引き込んで隠したが、すぐに白い裸体が現れ、私は、ボッティッチェリのビーナスの誕生を連想した。女性神ビーナスの豊満や艶麗とは縁遠い骨と筋肉で構成された青年らしい体型なのだが、太古の生命を創造した泡と初夏の太陽が光輪に見えて、真珠貝から潤が現れたように感じたのだと気づいたのは、後のことであった。

初夏とは言え水温はまだ低く、トランクス一枚の潤の肌は泡立ち、唇は蒼白になっていた。
「ほら、これで体拭いて」
私は手にしていた黄色いポケモン柄のタオルを、濡れそぼった茶色の毛が吸い付いて痛々しい潤の頭に置いた。彼はそれで大まかに雫を取った後、両肩に掛けた。スパルタの戦士のマントのようだ、と思った。その間にも太陽は抜け目なくパラソルに貼った黒い綿布のわずかな隙間をすり抜け、私の美貌を襲う。サンプロテクトは完備しているが、やはり日陰に入った方がよい。
「そろそろお昼よ、少し休んで何か食べましょうよ」
潤はにっこり笑ってうなづいた。体温が上昇したのかやや生気取り戻したらしく、その証拠に上唇には色が差し、新鮮なさくらんぼのような照りを帯びだした。

梅雨時のわずかな晴れ間を縫って、私たちはとある浜辺にいる。彼が蒼い日々を送ったバンド時代に仲間と時折訪れた海岸は、東京から二時間ほどの距離にありながらほとんど人気がなかった。ここは地元出身の友人が教えた知る人ぞ知る穴場だった。孤独を愛するダイバーの黒いウェットスーツがサンドベージュの砂や深い青色の沖合いに点在して6月の陽を弾く斑点と化しているのが、かろうじて他者の存在を主張していた。
「こんなところがあったのね」
私の言葉に潤はタマゴサンドを口へ運ぶ手を休め、長いまつげを上げた。
「うん。いいところでしょ。仲間とよく来たんだよ」
「仲間とはどんなことをしたの?」
ビーチパラソルのかげりが彼の表情に複雑な陰影を投影しているように見えたので、私は彼にとってのタブーに触れたかと、一瞬悔いた。感受性の強いこの青年はそれを敏感にキャッチしたらしく、補うように言葉を続ける。
「いろんなこと。キャンプファイヤーしたり、フリスビー投げたり、ナンパしたり。あ、これは怒るかな?」

ナンパ?私は改めて、ところどころ水滴の残る上半身を晒している傍らの青年を見た。裸の胸には薄いが引き締まった筋肉が充実しており、その下の骨格は緩滑に広がり、鎖骨から肩先へと流れるしなやかな線が美しい。うっすらと日焼けして赤くなった若い皮膚は水を弾き、彼の特徴である桃色の乳首へ流れ落ちようとしている。すると私の脳裏の中では、その小さな突起がわずかな愛撫にも反応し黒味を帯びて立ち上がる様がおのずと反芻された。そしてそれに連動して下の突起も・・・。

「何見てんだよ」
不審げな潤の声に、淫靡な白昼夢から醒めた私は慌てて誤魔化す。
「さ、寒くないのかなと思ってたのよ」
「ふーん」
「何がふーんよ」
「別に。ククク」
彼が見透かしたように鼻で笑うので、私は彼の胸を軽く懲打した。滑らかでひんやりとした質感は、握ったこぶしからも明らかに伝わってきた。
「あんたはいつもそうやってあたしをバカにするんだから」
すると彼は、ギタリスト特有の繊細な動きが得意な右手を私の股間に手を伸ばし、なだめるつもりなのか下着の上からゆっくりと撫で始めた。
「何するのよ!」
「フフ、ここは怒ってないね」
彼の接触を待つまでもなく体の芯がすでに澪を垂れていたのは事実だった。
「したいんでしょ?」
「したい?まさかこんなところで」
私は反発したが、口とは裏腹に想像だけは進んでいく。元から一定の体積を占めていた彼の茎は、私の熱い潮を確かめたことでトランクス型の水着の中で縦横に更なる成長をはじめ、草むらからとがった先を持つ丸い笠を張り出しているのだろうか・・・。そんな私の心を見透かしたのか、彼ははぐらかすように暇な左手で残りのサンドウィッチをつまんだ。
「でも先にこれ食べちゃうよ」
目じりの下がった大きな瞳の奥に嘲笑の光を宿しながら、三角形のパンを口に運ぶ様は「ジェラール」そっくりだと不覚にも思った。今日も彼は小悪魔の面 目躍如というわけなのだ。

潤はサンドウィッチをあっさりと平らげるとおもむろに立ち上がった。太ももにこぼれたパンくずを自分の手で払ったが、同時に水着の下の大臀筋が引き締まるのが生地を通 して見えた。彼はそのまま座らずに、痩せぎすだが確かに逆三角形型をしている背をこちらへ向けたので、私は横座りのまま見上げた。何をするつもりだと見ていると、彼はなだらかな肩に引っ掛けていたポケモン柄のバスタオルを翻して何度も振るい出した。パラソルの外では太陽光線が照っており、タオルに付着していた砂粒が煌きながら飛び散っているのが見えた。
「さあ、これでいい」と、潤が独り言のようにつぶやく低い声が聞こえる。それから彼はパラソルの中に戻って来て私の横に寝そべったが、手にしていたタオルを自分の胸から下半身に被せた。
「ちょっとだけお昼寝しちゃうよ」
「え?」
「泳いで疲れたの。俺、ちょっと寝たい。お前も寝たら?」
「私は別に眠くないわよ」
「じゃあすぐに起きるから、お前はそこで化粧直しでもしてなよ」
小さなあくびをした潤は、鼻を鳴らして一笑いすると大きな黒い瞳を閉じた。

時間は正午を過ぎ、真夏のそれのように砂浜を焦がしていくの日差しにも似た私の思いをよそに、潤は本当に寝入ってしまったようだった。タチの悪い小僧の狸寝入りではないかと疑い、胸を覆うビーチタオルをそっと持ち上げて、ハダカの胸へ手を当ててみた。先ほどまで太陽にさらされた名残として白い肌は赤みを帯びていたが、思いのほかひんやりした緻密な感触が手のひらから伝わってくる。薄いがなめらかな男の胸(トルソー)を分ける雄々しい胸筋を辿り、その両端に端座する双頭の片割れを人差し指と中指の間に挟んでみる。柔らかな突起はたおやかに未熟に静まっている。でもここは潤のウィークポイント。下半身の伸長する神秘な肉根についで彼の中でもっとも真摯で敏感な器官なのだ。このささやかな突起は慰撫に対して嘘を突き通 すことができず、淫乱な彼自身の本性を、明瞭すぎる大脳の灰白質の理知に反して簡単に告白してしまうのだ。私はかたずを飲んで乳首反応を待った。
「う・・・ん・・・かゆ・・・」
乳頭は生理的反応で多少は大きくなった。しかし潤は少し眉をひそめて無意識のうちに自分の胸を掻くと、また深い眠りに入ってしまった。この小僧は本当に寝ているのだ・・・。

私は彼の腰を覆うピカチュウの顔を見た。平らでわずかな腰の中でその部分だけ緩やかな高地になっている。あの台地に緩急をつけた刺激を与えてやれば、眠っていた活断層が地鳴りを上げて脈動し始めるのは必然なので、さすがの潤も目を覚まさざるを得ないだろう。今のそれは子犬の舌のように柔らかく頭を垂れているが、朝取りの果 物でも扱うような愛撫を与えただけで、性の目覚めを惹起して速やかに若者らしい笠の形を張り出し、透き通 った健全な汗を垂らしはじめるのだ。
私は黄色いポケモンへと、手を静かに伸ばした。パール入りのサンドベージュの爪のエナメルの上で砂粒が光り、夏向けのネイルアートを施したように見えたので、タオルに触れる前に自分の長い爪を見た。伸ばした爪は折れやく細かい作業もしづらいものだが、オーバル型に整えた形はこの上なく優美で、女の本懐を端的に物語っている。私は心の中でつぶやいた。
「まるでラインストーンを貼り付けたみたい」
爪丘の砂を払い落としたと同時に、ある計画が唐突に浮かび上がってきた。爪とは何の脈絡もないのに、まさに天啓のようにひらめいたのだ。これほどの計画を思いつくとは、神様の啓示だろうか、と信仰を持たない私が思ったほどの洗練されて卓越した妙案だったのだ。

「見てらっしゃい」
私は、健やかな寝息を立てている潤を睨んでから、傍らにおいた塩化ビニル製のバッグの中身を探った。財布や携帯電話など貴重品は元より、鎮痛剤や傷薬、潤用に買ったサンオイルやちょっとしたビーチグッズまで、レインボー・カラーに色分けした大小のポーチに小分けしてあったので、それぞれ定位 置に行儀よく収まっているはずだったが、目的の赤いポーチは下になっているのか、なかなか出てこなかった。あれは片時も肌身離さず携帯している私の必須物であるのに、どうしたことかしら?早くしないと目ざとい小僧が目を覚ましてしまうわ・・・。焦りも手伝い、カバンの中身をひとつずつ出しているうちに、携帯がケースから飛び出して潤の腕の上に落ちた。
「!」
心臓が凍りつく一瞬をおいて彼を省みれば、厚めの唇から白い歯をわずかに見せて相変わらず正体なく眠っていたので、胸を撫で下ろした。車のトランクの中で動いたのだろう、赤いポーチはバッグの底に入り込んでいたのだった。これは武人の刀剣と同じなんだから、なくならなくてよかった・・・・。さて道具と材料は揃ったし、いよいよ生意気で不埒な小僧を料理する時が来た。

スキンローションをコットンにたっぷりと移して、生みたての小鳥の卵でも撫でるようにそっと潤の顔を拭き始める。
「う・・・」
青年の様子を伺うと、わずかな声を立てただけで目覚めの気配すらない。白濁した乳液も同じ要領で塗り下地を整えた後、柔らかいスポンジでリキッドファンデーションを顔全体に薄く伸ばしてパウダーを鼻に入らぬ よう気をつけながらはたく。男にしては色白でキメの細かい肌に、しっとりとマットな質感が小さな顔全体に宿って眠れる人形のように見えた。これでキャンパスは完成を見た。これからは、ウフィッツィ美術館屈指の名画「春」に登場する神々の役目を私が果 たすのだ。つまりフローラに豊穣の命を吹き込むビーナスと、不敵な誘惑によりいっそうの魅力を与える西風の神ゼフュロスのように、化粧筆の微妙な一刷毛ごとに、この小僧の頭上を飾るコロネーションを編み上げていくのだ。グレイかダークブラウンを駆使して陰影深くエキゾチックな仕上げにしてもいいのだが、初夏に相応しいパール入りの薄いブルーのニュアンスで行くことに決めた。こちらの方が潤の若さをより際立たせるだろう。

閉じた目の縁にアイラインを細長く引いて、その上にハイライト、ブルーとぼかしながら乗せる。眼窩のくぼみはブラウンで隈取り、全体に上手く色が付いたので成功しそうだと満足する。本当は魅惑的な瞳を作るのにマスカラも使いたいのだが、まぶたは閉じられているので、さすがに引き上げるのは躊躇されるので、この過程は省略した。彼は、元々つけまつげをしたかと思うほどの長く密集した睫 の持ち主なので、マスカラはなくてもいいだろう。
頬紅は太いブラシでたっぷりとはたいて愛嬌のある表情を作った。多すぎた時はティッシュペーパーで修正する。さくらんぼのような口唇を生かすため、口紅は使わず薄赤いグロスでポイントを抑えながら塗ればいい。すると男の唇に見る見る新鮮な生果 の輝きが溢れだし、熟れてこぼれだしそうな媚態が出現した。口の端からはみ出たグロスを爪でこそげ取ったその時、潤の目が開いた。メイク完成は間に合った・・・。私は安堵した。
「お前、何してんの?」
「な、何も・・・」
潤は昼寝から覚めた猫のようにゆっくりと体を伸ばしてあくびをした。
「んー、寝ている間に騎乗位でやるのかと思ったけど、パンツに異変はないね」
アイシャドウで魅惑的になった瞳が自分の下半身を見ている。
「さしずめ俺の顔を粘着に見ながら、ナニは自分で処理したんだろ?」
「そんなことするわけないでしょ!お化粧直していたのよ!」
「なんだ、化粧ババアの作業してたのか」
そうだ、いつもの作業だが、対象が風変わりだった。
「すごーくいい作業よ」
うそぶきながら私は自分の作品を見た。いつもの青年が今日はまるで・・・。思った通 り、こいつ化粧似合うじゃない?蒼い瞼のかげりが黒目勝ちの瞳に反映して、光彩 まで蒼く見える。風にそよぐ音さえ聞こえそうな長い睫はやはり自然のままにしておいてよかった。愛らしい唇は思ったとおり、命のしたたりが溢れた泉のように瑞々しい。そして頬は秋の収穫祭で踊る少女のようなピンク色の輝きが見るものを微笑ませる。

「お前何人の顔凝視してんの?俺があんまりイケメンだから見とれたの?」
「・・・フン、呆れてただけよ」
「ちぇ、可愛くないな。まあいいや、喉渇いた。ジュース買ってこようかな。お前も何かほしい?」
ここから国道へ出る道に海水浴客相手のコンビニがあったので、彼はそこへ行くつもりなのだろう。ほんの数分の距離だが、そこには人が結構いたのを知っている。私はほくそえんだ。
「そうね。じゃあコークと、後オレンジシャーベットをお願いするわ」
「アイス系いいよね。もう暑くなってるから美味しいよね。じゃあ俺はブルーベリージュースとうまか棒にしようっと」
うまか棒!なんて思わせぶりないかがわしい商品名なんだろう!それを今の潤が買うなんて、コンビニの店員はどう思うだろうか?
「ここで待ってていい?」
さすがに一緒に行く勇気はないので、潤一人でやることにした。
「いいよ。じゃあすぐに戻ってくるからね」
潤は明るく言うと、ピカチュウとミュウツーのついた財布を掴んた。パラソルの影から飛び出て人気のある方へ、古いジャズをハミングしつつ歩き出した。べったりと色鮮やかな厚化粧をした顔のままで・・・。

 

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