海ほたる




赤坂プリンスホテルのロビーで彼女を待った。吹き抜けの半地下のホールを見下ろすガラス貼りの手すりにもたれて、白いグランドピアノを弾く女の横顔を何の気なしに眺め、ニューヨークで会った彼女のほうが綺麗だったな、とか、ニヤけていると、軽く背中を叩かれた。振り向くと、あのときより薄化粧で、胸元まで開けたベージュ色のブラウスにチャコールグレイのパンツスタイルの彼女が立っていた。
「アサミさん」
会ったらさいしょに名前を呼ぼうと決めていたので、なんだか不自然な出だしになってしまった気がして、そのあとの言葉につまった。普通 ならこういうときどんなリアクションをするんだろう、「わ、びっくりした!」とか、「おー、久しぶり」とか、なにか軽いかんじのほうがよかったのかななんて少し後悔していたら、彼女は俺の口調をマネして、「ジュンちゃん」と言って笑った。

「はじめてリアルで名前呼びあえたね」
「だって、おまえが教えてくれなかったんじゃん」
「おまえじゃないわよ、アサミ様でしょ。ジュンちゃんだって、あのとき教えてくれなかったじゃない」
そうだった。ネットの掲示板で知りあったときのハンドルネームのままメール交換するようになって、去年まで俺の住んでいたアメリカに彼女が来たあの晩、俺たちはニューヨークのホテルでおたがいの名前も知らないまま寝たんだ。

「俺のほうが先に教えたよ。でも、アサミさんもすぐ教えてくれたね、連絡先も。それ、似合うじゃん」
彼女の首には、俺がニューヨークから送ったGUESSのペンダントが光っていた。たぶん、大人の彼女にとったら安物の、金メッキの細い鎖に小さな金のブロークンハート、赤いラインストーンのハートと鍵をたばねた、子どものオモチャのようなペンダント。アクセサリーに疎い俺にとっては、割れたハートに鍵がついているところがあの頃の心境にピッタリで選んだのだが、後から考えると、ブランド物に相当うるさい彼女が、あんな安っぽいペンダントではかえって迷惑だったろうと後悔していた。でも、彼女は赤いマニキュアを塗った中指で小さなハートをいじりながら言った。
「よくつけてるのよ。これ好きなの。あと、ホラ」
エルメスのポーチから取りだした車のキイには、ペンダントといっしょに送ったテディベアのキーホルダーがついていた。
「これさ、ジュンって名前つけたの。いつも一緒にドライブしてるのよ。渋滞してイライラしてるときは、たまにイジメてたりして。さ、行こうか」

彼女に言われてホテルの正面の車寄せで待つと、真っ赤なメタリックのスポーツカーが現れて俺の前に止まり、これ見よがしに黒い幌が開いた。運転席には得意げな表情の彼女がいた。
「どう?あたしの車」
「どうって、ちょっと、まじスか?」
「いいから、後にタクシー来てる。早く乗って」
彼女が乗ってきたのは、ホンダのS2000だった。メールのやりとりで彼女が車好きということも、最近新車を購入したということも知っていたが、このマニアックな本格的なマニュアルカーを、まさか女が選ぶとは想像もつかなかった。総革張りの黒いコクピットは、長身だが華奢な彼女とは違和感がありすぎる感じもしたが、プレミアムカラーの口紅のようなモンツァ・レッドは、むしろ彼女にしか似合わないような気もした。音というより、重く心地よい空気の振動とでもいうようなエキゾーストノートを響かせて彼女は車を発進させ、俺たちは首都高に乗って湾岸に向かった。

「とりあえず道案内はしてよね。あたしは東京は不慣れなんだから」
「・・・案内つっても、俺だっていつも親父の隣に乗ってるだけだし。テキトーに標識見て行けばいいじゃん」
いちおうめぼしいドライブコースは頭に叩き込んできたが、思いもかけなかったS2000に気後れして自信を無くし、俺がボソッと言うと、彼女は冗談めかして言った。
「そうね、ジュンちゃんはペーパーだし、なんだっけあれ?オートマ免許?そか、オートマだから、あたしが疲れても運転変わってもらえないのよね、オートマだから」
「うぜーーー!その話はやめろ!」
「教習所でずいぶん怖い目にあったらしいね。教官に怒鳴られた?アハハ、あたしなんか教習中に居眠り運転して、大物認定されちゃったわよ」
「大物はいいけどさ、幌閉めてよ、寒いよ」
「あたしは寒くないよ。この車よく出来ててさ、オープンでもちゃんと暖房が循環するようになってるのよ。下半身は暖かいでしょ?」
「言っとくけど、俺はおまえより頭ひとつ出てるの。頭寒い」
「軟弱者。でも、もう高速入っちゃったから無理。どこかで休む?」

そこからいちばん近いのは大黒ふ頭のパーキングエリアだったが、深夜には改造車で乗りつけた連中がタムロして馬鹿騒ぎをしているので、彼女と寄るのははばかられた。最初の計画では、レインボーブリッジからつばさ大橋を通 り横浜のベイブリッジに抜け、宝石のような夜景を満喫しながら「みなとみらい」の観覧車にでも乗って気分を盛り上げるつもりだったが、お決まりのコースにますます難癖をつけられるような気がして、俺は「東京アクアライン」から千葉方面 に向かうコースを選んだ。幌を閉めるのは、途中の「海ほたる」パーキングまで我慢してやろう。

川崎から海底トンネルに入ると、長い直線道路で、彼女はスピードをあげはじめた。
「すてき!!」
「ちょっと、あぶないって」
「うわさには聞いてたけど、アクアラインてほんとにガラガラだね。やっぱり料金高すぎるから。あ、高速代はワリカンだからね」
言ってるあいだにも彼女はどんどんアクセルを踏み込んでいく。スピードメーターは180キロを示していた。
「ワリカンはいいけど、やだ、もお、マジでこわい。スピード落としてよ」
「何よ、いくじがないのね」
不満げな顔でスピードを落とした彼女は、どうしても言い足りないというふうに、一言つけくわえた。
「ほんとなら、300は出るはずなんだけどね」
「そんなのサーキットでやりなよ。ほら、パーキングの看板出た」

「海ほたる」は、東京湾の真ん中に作った人工の浮き島だ。道なりに立体駐車場に入ると、星のきらめく夜空に、対岸の工業地帯の灯が水平線のまっすぐな輪郭をふちどっていた。停車して幌を閉めると、風切り音で慣らされた耳が急に静かになり、いま、彼女とふたりきりでいるのだという緊張感がわいてきた。彼女は平気な顔をして、バッグからポーチを取り出してリップクリームを塗っている。
「運転、おつかれ」
テレかくしに言ったつもりなのに、目も見られなかったので、緊張感は彼女にもさとられてしまったかもしれない。でも、彼女は軽く笑って、「ああ、何か飲みたい。出よ」と、運転席のドアを開けた。「そっち側、気をつけて」と、車に対してか俺に対してかわからないが、優しく気づかってくれながら。

自動販売機で缶コーヒーを買い、人気のないエスカレーターに乗ってフロアに出ると、夜間でほとんどのレストランや土産物屋が閉まっているなか、一軒だけ営業しているゲームセンターの灯がまぶしく目に入った。
「あっ、プリクラがある!ね、やろう」
彼女は俺の返事も待たずにプリクラの前に立つと、もう図案を選びはじめている。
「やだよ、恥ずかしいよ」
「いいじゃないの、せっかく来たんだから、あ、これいいよ、夜景に花火が入ってる」
小銭を入れ、画面にうつる自分の髪を整え、何度かすました顔を作ると彼女はボケッとしたまま突っ立っている俺の腕をつかんで強引にひきよせ、ボタンを押した。あんのじょう、できあがったシールには、カメラ目線の気取った笑顔の彼女と、寝ぼけたような俺の顔が並んでいる。
「ダッサー・・・せっかくケータイに貼ろうと思ったのに、これじゃあダメだわ。友達に笑われちゃう」
「いいトシして、ケータイにプリクラなんか貼るなよ。そっちのほうがダサイよ」
「失礼ね、ね、海見よう」

彼女は俺のことを相手にもせず、東京から横浜の街の灯が見渡せるデッキへと歩きはじめた。「海ほたる」の名のとおり、小さな青い無数の電球に誰もいない広いデッキは包まれて、海からの風に吹かれていると、ここがまるで地上のどこでもないような錯覚にとらわれた。
「きれい・・・」
さすがの彼女も黙ってしばらく風景に見入り、そのうち俺の手をつないで、イルミネーションに浮かぶベンチにさそった。
「すてきね」
「気に入った?」
「ええ」
彼女は俺の肩に軽く頭をのせて言った。
「ほんとは、もう会えないかもって思ってた」
「・・・どうして?また会おうぜってアサミさんが言ったんだよ」
「あの時は、キミがあんまり元気なかったからね」
「じゃあ、おあいそで言ったの?」
「そうじゃないよ、でも、私たち、違いすぎるでしょ?」

たしかに、俺たちは違いすぎる。彼女はいつも溌剌として、いいことも悪いこともすべて受け止めて、人生をわりきって、力強く生きている。反対に俺は抗鬱剤を飲んで親のスネをかじってブラブラしている身分だ。さっきのプリクラの写 真には、そんなふたりの対比がよく表れていた。
「また、暗くなってぇ」
彼女は俺の背中を叩くと、立ち上がり、浮き島の反対側を見てみたいと言った。そちら側には千葉方面 へ、海底トンネルを出た高速道路が続いているはずだ。長いウッドデッキを手をつなぎながら歩くと、思ったとおり、東京側にくらべて暗い木更津へ海上を抜ける道がまっすぐに続いていた。

「何か、さみしいけど、なつかしいような風景ね」
「うん、遠くにいきたいけど怖いみたいな」
「よし、行こう!」
「えっ?」
「海の上をオープンで走ったら気持ちいいわよ、きっと」
「えっ、まだ行くつもり?」
「こんな気持ち良さそうな道を走らないテはないって。さ、行くよ」

ヨコシマだが、とうぜん今夜は彼女と軽くドライブをしたあとホテルに戻って・・・という気持ちがあった。だから、「海ほたる」でUターンすればじゅうぶんと思っていたのだが。

星空の下、彼女のS2000がふたたび走り出した。左手に東京湾岸のオレンジ色の灯、右手には暗い重たい海と銚子の白い灯、夜空を見上げると、オリオン座が明るくきらめいている。オリオン座からかぞえてシリウスへ、次に休んだときに彼女に教えてやろうと思ったが、彼女は彼女で俺のことをほとんど忘れて海上のドライブに没頭している。けっきょく、木更津でアクアラインの終点を迎えても彼女は帰る様子もなく、千葉の田舎道をときどき迷いながら込み入った海岸線を走りつづけた。
「ねえ、すごい、ほんとに遠くに来ちゃったよ!」
彼女はご機嫌でアクセルを踏み続ける。
「どこまで行くつもり?帰るの朝になっちゃうよ」
「いいじゃない。こういうの久しぶり。知らないところ走るの、大好き」

ひなびた漁村や民宿の並ぶ道を走り込むと、ようやく彼女も疲れてきたのか、野島岬の灯台の駐車場に入った。昼間ならさぞかし賑わっているであろうこの小さな観光地も、いまは人っ子ひとりおらず、車を降りて細い坂道をあがり門の閉まった灯台へ出ると、彼女は気味が悪そうに俺の腕をつかんできた。
「誰もいないね」
「あたりまえじゃん、もう夜中の2時だよ」
「ね、ね、ウシミツドキって何時だっけ?オバケが出るんだよね?」
「ウシミツドキっていまくらいじゃね?あ、灯台の隣は神社だね。真っ暗だよ。行ってみる?」
「いやだ。ねえ、ここから海岸に出れるよ。海のほうに行かない?」

細い草の道を少し下ると、すぐに広い海岸に出た。漁港を囲む、半分岩場の対岸に、東京湾の灯と、アクアラインのまっすぐな照明がかすかに見えた。
「うわー、あんな遠くに見える。さっきはあそこを走ってきたんだよ」
寡黙になった彼女は、返事もせずに俺の腕をしっかりつかんで、パームツリーの並ぶ遊歩道をたよりない華奢な靴で歩いている。
「どうしたの?本気で怖いの?」
「なんだか心細いわ」
「よく言うよ、さっきまではあんなにはしゃいでたくせに。本当は・・・」
彼女の肩を抱き寄せて、髪に頬をあてて、俺は小声でつづけた。
「ダッコしてほしいんじゃない?」
すると彼女は俺の背中に腕をまわして遠慮がちに胸に顔をうめて言った。
「本当は・・・海ほたるでキスしてほしかったのに」
「あはは、ごめんね、気がきかなくて」
「じゃあ、いまして」

トレンディドラマなんて見てその気になってる連中をバカにしてたが、このときは俺も優しく彼女を抱き直して、唇にやわらかくキスをした。それから少し見つめあって、今度は深く唇を合わせた。舌をからませているうちに吐息が漏れてしまったのが照れ臭くて、俺はそれをごまかすようにクスクス笑って、ふざけてわざといやらしく彼女のパンツの股間にふれた。そこは、生地のうえからでも湿っているのがわかった。
「あっ」
彼女が反応して腰を動かしたので、俺は遠慮なくファスナーを開けてショーツの中に手を入れて直接触ってみると、彼女の隠微な秘密の唇は、しとどに濡れていた。ショーツには冷たくなった体液もグッショリ滲みていたので、彼女はだいぶまえから濡れていたのだとわかった。たぶん、海ほたるでベンチに座ったときから、それから、ドライブ中に、たまに押し黙っていたときも・・・。

海風で冷えた指を挿入すると、彼女の中は暖かかった。俺はニューヨークでの一夜を思い出すように何度も胎内の形状をたどり、そのたびに彼女は素直に身悶えして吐息と愛液を漏らし、会えて嬉しかったよと言葉でなく身体で伝えてくれた。静かに押し寄せる波の音に、彼女からしたたるねっとりとした水音がまじった。

「会えて、嬉しかったよ」
俺が言葉にして彼女にささやいた。
「まさか、こんなとこでするとは思わなかったけど。ベッドはおあずけになっちゃったね」
「また、会えるわよ」
余裕がないけれど、トーンをおさえた優しい彼女の声に俺は安心した。
「いつ、会えるかな」
「そうね、クリスマス。クリスマスにまた会いましょう・・・」

灯台の光がときどき頭上をかすめていった。俺たちは明け方まで海岸にいた。

 

 



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