冬釜




まえに来たのは夏だった。抜けるような空は今日も青く目にしみるようだけど、海は冷たい風にあおられて、誰もいない砂浜を洗っている。自動販売機で買った缶 コーヒーで両手を温めながら、堤防に止めた車に戻ると、おっさんは窓から片腕を出して、運転席のシートにふんぞりかえってカーステを聴いていた。夏に来たときチューブなんかかけてたから、さんざんからかってやったら、今回はサザンオールスターズのベスト盤を仕入れてきたらしい。俺は、窓越しに缶 コーヒーを渡しながら言ってやった。

「あいかわらず、ダッセーのかけてんな」
「なんだよ、おまえもサザンはいいって言ってただろうが」
「いいってべつに、わざわざこんなところに来てまで聴きたいってことじゃないよ」
「小うるさいやつだな。せっかく買ったんだから、気持ちよく聴かせろよ」

まあ、それもそうだ。俺はおっさんを放って、立ったまま運転席側の屋根に肘をついて、缶 コーヒーを飲みながら冬の海を眺めていた。車内から流れてくるウーハーの効いた音楽は、みんなひと夏の色恋沙汰の歌ばかり。俺は、おっさんともそうなるつもりだった。おっさんはもともとノンケだったし、こんなこと、続ければ続けるほど、二人ともダメになっていくだけだ。でも、いつもおっさんのちょっとした仕種や言葉が懐かしくなって、さよならを言えなくなる。いまもそうだ。おっさんは窓の外に垂らしていた腕を何気なく俺の腰に回して、ふざけた笑顔で言う。
「何考えてたか、当ててやろうか」
「何?」
「夏のことだろう」
「…スケベ」
「あれ?なんで海で泳ぐのがスケベなのよ?」

わかってるくせに、わざと遠回しに言って、おっさんはおかしそうに笑った。夏に、この堤防に止めた車の中でふたりでしたことを、おっさんが忘れているはずはない。あの時おっさんは、俺に触れた過去の他人すべてに嫉妬して、そのいら立ちを俺の体で解消しようとした。そのためにおっさんから受けた痛みは、ひとつやふたつではなかった。でも、痛みが重なるにつれおっさんに支配されているという奇妙な親密感が生まれ、どんなかたちでもいいから他者の絶対的な存在になりたいという俺の病的な願望が刺激されて、恥ずかしいほどに自分をさらけだしてしまった。

「もしかしてあれか?ウサギのパンツのこと?」
「うわっやめろバカ!言っちゃダメ!」

ひどく興奮した射精のシーンを思い出しかけた時、おっさんが俺の失敗を持ち出して、含み笑いをしながら肩をゆらしているので、俺はちょっと本気でムカついた。あの日、出がけからセックスのことなんて考えてなかったから、何の気なしにタンスのいちばん上にあったピーターラビットの柄のパンツをはいてきてしまったんだ。いいかんじに盛り上がったところでそれを見たおっさんは気をそがれてしまったようで、なんだかボケッと長いこと俺のパンツを眺めていた。かわいいからって、あんなパンツ買うんじゃなかった。

「もしかして今日もあれはいてんの?」

拗ねて後ろを向いた俺の腰を、おっさんは今度は両手で自分のほうに引き寄せたので、俺は開け放した窓枠に軽く腰掛けるかたちになった。おっさんは後ろから回した手で、俺の股間をなでまわしはじめた。
「なあ、あんなのはいてても、体は大人だもんな。頭は子どもだけどな」
「頭も大人だよ。女ともやってるし」
「女と?やってんのか?」
「やってる。たぶんおっさんよりうまいよ。あっ」

いきなりおっさんに強く握られたので、思わず声を出してしまった。おっさんはジーンズの生地ごと俺のを握りながら続けた。
「おまえのナマイキも飽きたな。どうせ口だけだし」
「ほんとだよ。こないだもネットナンパした女とやった」
「へえ、どこで」
「赤坂で待ち合わせして、ホテル行った」
「どんな女?」
「年上だよ。どうせブスだと思ってたら、けっこう美人だった。あのね」
「なに?」
「その人のこと、ずっと好きなんだ」

おっさんの手から力が抜けた。
「またあ、ヤキモチやかせようとしちゃって」
おっさんは明るい声で言ったけど、たぶん動揺してるんだろうと思って顔を見るのが不安だったから、俺は後ろを向いたままボソボソ話し続けた。

「ほんとだよ。ネットで会って、しばらくメル友やってたの。いい人だよ」
「女、嫌いなんじゃなかったの?」
「嫌いじゃないよ。めんどくさいだけで」
「その女はめんどくさくないのかよ」
「…めんどくさいな。すぐにヒス起こすし、ナルシーだし高飛車だし」
「じゃあなんで会う気になったのよ」
「いちばんさみしい時に、一緒にいてくれたんだよ。バーチャルでだけど」
「バーチャルで?おままごとだな」
「そだな。でも、あの人がいなかったら」
「潤!」

ふたたび俺の股間を片手で締め上げながら、おっさんが言った。
「いいかげんにしろ。おまえ、俺にもそんなこと言ったよな。節操のないガキだ」
「いてえよ。ウソだよ、ごめんなさい」
「ウソだと?ふん、面白い。じゃあついでにもうちょっと作ってみな。その女とどうやったのよ」
「もう考えつかないよ」
「ホテルに行ったんだろ?部屋に入ってどうした?」
「部屋に入って…キスした」
「勃起したのか?」
「うん、した」
「女はどうなってた?」
「濡れてた」
「ありきたりでつまんねえな。こっち向けよ」

おっさんは自分のほうに俺を向き直させると、しばらく中指で俺のペニスの形をなぞりながら、ニヤニヤ笑った。
「さぞかしヒイヒイ言わせたんだろうな、これで」
「言わせてない。やってないもん。ウソついてごめんなさい」
「エサをもらえそうだと見ると、ロコツに素直になるんだな。こんなに膨らんでやがる」

ジーンズの固い生地ごしに爪を立てて行き来する指の感触は、くすぐったいけど鋭く下腹部に響いて、俺はすぐに反応してしまった。

女のことはほんとうだった。でも、やっぱりいつものように、俺はおっさんとの目先の時間を過ごすことが優先になって、言うべきことをウヤムヤにしてしまう。優柔不断な気持ちと裏腹に、くっきりと欲情したペニスは隠しようもなくおっさんの手中にあった。
「これじゃあ、窮屈だろう」
「あ、やめろ。外から見えちゃう」

ジッパーを開けて中身を取り出されそうになったので形だけの抗議をしたが、おっさんがやめないことはわかっていた。俺は車の屋根に肘をついて、スウェードのハーフコートの裾で覆うように局所への外界からの視線を断った。引き出されたペニスは一瞬冷たい外気にさらされたが、すぐにおっさんの温かい手に包まれて、こうしている時いつも漂う不思議に安らかな気持ちに浸ることができた。

「ねえ、大好き」
甘えて、わざとかすれた小さな声で言うと、おっさんは運転席から俺を見上げて笑った。
「いいよ、遠回りしなくても。どうして欲しいの?」
「俺のこと好きっていいながらシゴイて」
「好きだよ、潤ちゃん」
「いい子って言って」
「こんなにデカくして、いい子だな」
「舐めろ」

おっさんはシゴくのをやめて吹き出し、シートで腹を抱えて笑い出した。
「あはは、ちょっと甘やかすとこれだ。おい、調子のるんじゃねえぞ」
「調子のってねえよ。女にとられたくなかったら舐めろよ」
窓越しに突き出した俺のペニスを、おっさんはふざけて指で軽くはじいた。
「イテッ!」
「あははは」
痛みに萎えてしまった俺にウケてるおっさんは、やっぱりいつもの俺の好きなおっさんだ。なんだかんだ言いながら、さっきの女の話も他愛ない虚言癖だとオチをつけて、いままで敵しか作らなかった俺の生意気も、おっさんにとっては手の上で転がすのにちょうどいいオモチャにすぎない。だから俺は、予定調和のおふざけの中で、安心して甘えることができる。
「ね、舐めて」
手のひらに乗せたやわらかいペニスの先端を、おっさんはウィンドウ越しに一舐めするとそのまま口に含んだ。熱く濡れた口の中で動き回る舌に、俺はすぐに固さを取り戻し、ゆっくりと自分から腰を動かして、ペニスが出入りするおっさんの唇の端を眺めていた。

コートの中に隠れた腕で俺の腰や太ももをなでまわしながら、おっさんは内心ではさっきの女の話を気にしているのか、いつもより念入りに、やさしく舐めてくれた。やわらかくした唇を表面 にまるく密着させて、舌もそれに合わせてやわらかく波うたせ、時々尖らせて縫い目を刺激する。その舌が先端の、たぶんいまは体液がたえまなく滲み出しているであろう小さな穴をこじあけようとした時、俺は長いため息まじりの声をあげた。それを皮切りに、自分で動きを制御できなくなって、喉の奥へと夢中でペニスをねじこもうとする俺を見上げたおっさんの目は、女なんかより、こっちのほうがよっぽどいいだろうと言っているように見えた。

でも、それは逆効果だった。比較するうちに、彼女に思う存分侵入したあの夜を思い出し、俺は口の中で小さく彼女の名を呼んだ。快楽としては、おっさんの自在に愛撫してくれる口のほうが勝っているかもしれない。だけど彼女は俺に反応して素直に体をくねらせ、切ない声をあげ、ふたりのつながった部分を俺たちには不可能な量 の愛液で濡らして、ベッドで漕ぐボートを水草の花が咲き乱れる湖へと誘導してくれる。揺れるボートの中で、彼女は俺の孤独を共有して母親のように抱きしめてくれる。

女の頭に置くように、俺はおっさんの頭に片手を置いて親指で髪をこねまわしながら、車の屋根にかけた腕に顔をうずめて、これ以上彼女の名を呼んでしまわないように声を押し殺していた。

「おしまい」
とつぜん、おっさんが俺から口を離して言った。
「え、ひどい。なんで?」
「おまえ、どっか行っちゃってるんだもん。シラけた」
「どこも行ってないじゃん。なんだよ、ねえ、おねがい」
おっさんはシートに寄りかかって、トレイから取りあげたマルボロライトに火をつけ、カーステを消した。あたりは冬の早い日暮れの灰色に覆われ、堤防に打ち付ける波の音が重く響いた。

「俺たちも潮時かな」
「どうして?へんだよ、急に」
「女のこと考えてたんだろう。俺はおまえのなんなの?」
「おっさんはおっさんだよ。好きだよ」
「よく思うんだよ。おまえは俺といても、いつも他のこと考えてるよな」
「…そんなことないよ」
「はじめてやった時のこと、覚えてるか?」

おっさんのアパートの部屋で、俺たちははじめてイかせ合った。あれは夏のはじまる頃、クーラーのない蒸し暑い部屋で、男同士の気兼ねのなさで、ふたりともトランクス一枚になってLPレコードを聴いていた。クラシックギターとヴァイオリンだけの、古ぼけた軽快なジャズ。聴いてる間、おっさんが畳に投げ出した俺の足を盗み見しているのは気づいていた。ほんとうは、だいぶまえから俺はおっさんに欲情してたから、その視線は待ち受けていたものだったけど、反応するのは躊躇した。だっておっさんは普通 に女とつきあう、マトモな男だったから。

何か冗談でも言って落ち着かない空気を払おうとおっさんを見ると、同時におっさんもこちらを向いて、そのタイミングにタガがはずれたように、いきなり俺に覆いかぶさってきた。けっきょく、俺もそれで頭がのぼせてしまって、おっさんとのぎこちない初体験になったわけだ。

「覚えてるよ。手コキでいったね。おっさんはあの時ヘタクソだった」
「おまえは、はじめてとか言ってるわりには慣れたもんだったよな」
「でも、ほんとにはじめてだったよ」
「またウソだ。都合のいい野郎だな。こんな世界にひきずりこんどいてよ」
「なんでだよ、先にやってきたのはおっさんだろ」
「罠張ったのはおまえだろうが。いつも俺の前でだけわざとらしく可愛いコぶってたろ。気があるのはとっくにわかってたよ」
「わざとやってたわけじゃないよ」
そう、わざとやってたわけじゃない。俺は、おっさんと一緒にいると、つい甘えたくなってしまう。おっさんに何かしてもらうと、しばらく後まで思い出して一人でニヤけてしまうくらい嬉しかった。それが、缶 ジュースをおごってくれるとき、みんながコーヒーなのに俺だけ栄養とれって野菜ジュースにしてくれたとか、ガムを捨てるのに包み紙をなくしたら、ポケットティッシュをくれて、ちゃんとゴミ箱に捨ててえらいなってほめてくれたとか、そんな小さなことで満足だった。大勢でいるときも、いつもおっさんの横にいた。無意識におっさんの顔ばかり見てしまうので、まわりの連中に、おっさんが孵した卵のヒヨコだって笑われた。どうしてそうだったか、今はわかっている。おっさんは、親父に似てたんだ。

「ねえ、いじめないでよ。これどうしてくれんのさ」
おっさんの言うとおり、俺は、おっさんを媒体にして妄想を現実にしてるだけだ。この話がつづくのが恐ろしくなって、俺はまだ勃起したままのペニスを何度か自分でシゴきながら、ふたたびおっさんの顔の前に出した。でも、おっさんは、俺を見透かしたように言った。
「じゃあ、おまえの本音をテストしてやろうか。そのままセンズリこいてみな」
「えっ、やだよ、そんなの。恥ずかしいよ」
「シラジラしいな。もう手が動いてるだろうが。ホラ、潤ちゃん、おじさんにオナニー見せて」

俺は車窓越しに腰を突き出して、オナニーをはじめた。おっさんの位 置からは、そこだけが切り取られたキャンバスのように、魅惑的な光景に見えたことだろう。おっさんに見られながらこすりつづけると、さっきのフェラチオでじゅうぶん昂ぶっていたせいか、すぐに発射しそうになった。
「あっ、あっ、出る」
「ホラ、もうすこしガンバレ」
「だめ、でちゃう、あっ、汚しちゃう」
目の前で痙攣する尿道をみて、おっさんもさとってくれたらしい。もうすこしのところで俺の精液をうまく口で受け止めてくれた。俺は車の屋根につっぷしておっさんの咽の深くまでペニスを差し込んでこすりつけながら、彼女のことを思い出しながら、おっさんのことも愛しながら、長いエクスタシーを味わった。

周囲に人がいなかったかどうかたしかめながら車内に戻ると、おっさんは俺の精液の後味を缶 コーヒーでごまかしながら、自分はビンビンに勃起していた。次は俺が奉仕する番だ。 おっさんのスラックスのチャックを開け、勢い良く飛び出したペニスを口に含もうとすると、おっさんは勝ち誇ったように言った。
「おまえの本音は、俺が好きなんだよな」
「うん、好きだよ」
ウソだった。夏にチューブをかけたのをバカにしたのは、彼女のときも同じ。そして彼女にサザンオールスターズを買わせたのは、おっさんが買ったと聞いたあとだ。俺には二人の恋人がいる。俺は二人の恋人に愛されている。おっさんのペニスは彼女のクリトリス。俺は、大切に、優しく、それを口に含んだ。

 



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