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歯切れのいい軽快なスィングに合わせて、豊満な女性大使をリードしながらフロアを移動すると、横ではジェラールが空軍大佐の令嬢を相手にサイドステップとターンを決めていた。翼の純白がまばゆい天使が、聖なる処女に受胎告知を告げに天上から舞い降りてきたかのように、彼のステップは軽やかだった。ダンスに関してはモダン、ラテンとジャンルを問わず自分を恃むところの多い私でさえ、ジェラールのステップの自然な律動には、目を見張らざるを得なかった。そういえば、彼のスタインウェイの逸話をマリーから聞いていた。グランドピアノで、それも有数の名器で「月の光」を弾きこなす技術は一朝夜に習得できるものではないから、幼い頃に培われた下地があったはずだ。私は、この不思議な青年にますます興味が湧いてきた。もちろん 生れつきの音感のよさは明らかであり、少女を優しくリードしながら、自らも気持ちのいいジャズの音符を体の芯で捉えているのが解った。 次の曲目はスローワルツだったので大使のリードも楽になったが、彼女はすっかり喉が渇いたらしく、私に飲み物を所望したので、一旦ダンスフロアから降りて夫君のいる貴賓席まで送ることにした。軽めのシャンパンをサロンの片隅にしつらえたバーへ取りに行きながら、さてハリールはと見ると、別 の席で先の伯爵やその友人たちと歓談していた。周囲を取り巻く紳士たちの間で、貴婦人然と振舞いながら得意げな笑顔を見せるハリールはすこぶるご機嫌のようだった。あの手の女がもっとも好むシュチエーションなのだから当然なのだが、その単細胞ぶりには失笑がこみ上げる。しかし、それは彼女のプライドを適当にいたわってやりさえすれば、私に反逆の刃を向けることのないことを意味している。彼女は有閑な連中から一人を選んでダンスフロアに上がると、まだ美少女と何事かを話しながら踊るジェラールの近くに行き、あてつけるように相手の男に密着して踊りだした。この気質の女性にとっては会心の復讐であろうが、やはり彼女の進歩ははかばかしいものではないな・・・と嘆息せざるを得なかった。 私はシャンパンを恭しく大使の席に届けると、今度は横にいた外務省高官のモリエール夫人を、腰をかがめる作法でダンスに誘った。スローなテンポでムード色の濃いブルースやワルツは、相対する男女の間に大人の恋の夢を結ぶ。斯く言う私もパリの社交界やドゥーヴィルやモンテカルロなどの避暑地で、ワルツの甘美な調べが演出したアバンチュールの数々を体験した。しかし今日のパーティでは、ロシュフコー氏の未着とハリールやバンサンの醜態、そして奇矯なジェラールのおかげで、いつもとはいささか趣きを違えていた。 有名な「スターダスト」のイントロが始まりと共に私の耳に「ちょっと代わって下さい」というジェラールの声が聞こえた。 振り返ると、ジェラールがハリールと踊る青年にパートナーの交代を願い出ていた。 ソシアルダンスでは、同じ相手と何曲も続けて踊ることは重大なマナー違反に該当するので、腕の中の女性に思し召しがあったとしても、パートナーを次々と交代してゆくのが礼儀とされている。であるので、目的の女性を一曲以内に陥落させるのは、Mr.ダンディと謳われた私の得意とするところでもある。当然、ジェラールの申し出に不自然な点はなく、美少女は梨の花のつぼみのような清々しい魅力に溢れていたので、ハリールのパートナーは快諾した。ジェラールは美少女を青年に譲ってハリールと踊るつもりなのだ。さて、嫉妬の炎に炒られていたハリールがどんな態度に出るかと私は息を呑んだ。挑戦的な色を瞳に宿したハリールは、自分の手を取ろうとジェラールを仁王立ちになって仰ぎ見た。 「何よ、あんた、私をからかう気?」 明らかにやせ我慢していたのが透けて見える反応に、ジェラールがいつもの嘲りを含んだ小憎らしい微笑を見せるかと思えば、彼は生真面 目な表情で、中世のナイトが貴婦人に対して礼を尽くすごとく恭しく床に片方のひざをついて彼女への敬意を表現した。そして湖の騎士のような典雅な所作で、左手を背に、右手をハリールに差し出した。私が考えるのと同じような反応を予想してたらしいハリールも少し面 食らったようだったが、ためらいながら、しかし強いて昂然と顔をあげて右手を差し出した。ジェラールは彼女の白い手を取ると、花びらのような唇でそっと手の甲に口付けした。そして終始後ろへ回していた左手が流麗な弧 を描いて前に顕れたとき、その中には一本の濃いピンクのチューリップがあり、彼に手を預けたまま立っているハリールに捧げられた。意地を張っていたハリールも今度は言葉を発することなく黙って花を受け取り、唇の振るえだけが彼女の感動を表していた。そして一連の動作の間に毛筋ほどの気障さもにおわずやってのけたジェラールには、この私も見惚れたのだった。
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「スターダスト」は、都会の夜を彩 る大人のダンスミュージックで、月並みな表現だが、トランペットの音色が情感を盛り上げる。ジェラールの振る舞いで茫然となったハリールは、珍しいしおらしさでジェラールに自分の右手を預けた。ジェラールは彼女の背を抱え、ステップを刻み始めた。ジェラールの巧みなリードのせいもあり、ドレスの長い裳裾が優雅に空間を翻り、由緒あるサロンに垂れる19世紀のクリスタルのシャンデリアに、赤いチュールレースが繊細な煌きを帯び、見事な彫刻をほどこしたダガーは鈍い輝きを放つ。スポットライを浴びたかのように暗いフロアに浮かび上がる二人は、まるで、星の降る夜、頭を垂れた睡蓮が浮かぶ泉水が美しい中庭で忍び逢う金髪のイニチェリと後宮のハセキの一対に見えた。 むろんトルコ後宮は男子禁制であるので、この逢引が成立するのは不可能だが、私の連想は「ローランの詩」に出てくるような中世的なロマネスクへと飛躍していた。それほどに、エメラルドの瞳は真摯なまなざしで、すみれ色の瞳は優しい光を称えて、上下から見詰め合っていたのだ。
外務省高官を夫君に持つモリエール夫人は、柳眉を逆立て唖然としている私の手を振り切ってフロアから去った。彼女は私の態度を誤解したのだ。私は夜会がはねた後のアバンチュールの相手に擬していたモリエール夫人を怒らしてしまったわけだ。これもジェラールから起こった騒動の一つか・・・私の野望の一つが潰えた。 私は席へ戻るとボーイに飲みなれたボルドーを所望し、ハンカチはスー夫人に渡してしまったので、ナプキンで額の汗をぬ ぐった。二人の様子を観察するのに夢中になりすぎ、目当ての女性に振られたのは、プレイボーイを自負する私にとって遺憾以外何者でもない。しかし、まだフロアで踊っているジェラールとハリールを見ると、自分が映画の狂言回しになったかのように感じられ、愉快になってきた。 「まあ、いいだろう。しかしジェラールくん、君は・・・」 注文していた赤ワインが来たので、かつて神や使途たちの喉も潤した赤い液体を飲み干した。するとサロンの支配人が来て私の耳元で囁いた。
支配人の指図で、今までサロンに流れていたダンス音楽が中断され、落としていた照明が戻った。「スターダスト」の調べに酔いしれていた人々は、突如として甘い夢の世界から現実に引き戻されたように驚いた。
「ハリールくん、ようやくロシュフコーご夫妻がご到着になるよ」 金線に縁取られた華麗な緑色の大理石の壷が左右を守るサロンの入り口に、待望のロシュフコー氏とその夫人の姿が見えた。
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ロシュフコー夫妻という新たな貴賓を迎えたパーティはさらに盛り上がり、私も氏との交流を深めることに成功し安堵した。戻ってきたスー夫人はジェラールの不在を知るとひと悶着おこしかけたが、貴顕たちに彼女を紹介すると、ロシュフコー夫人に接近しようと夢中になったので、事なきを得た。スー夫人はさぞ迷惑な客だったろうが、ロシュフコー夫人が淑女らしく鷹揚な笑顔で応対していたのには、さすがである。そういえばロシュフコー夫人は南部の名家の生まれであると聞いた記憶もあった。 トルコの風俗に関するクイズや豪華な賞品が用意されたビンゴゲームなど、様々なアトラクションも次々と進み、親善パーティは無事に終了した。荘厳な大理石の柱が両側を守る出口にはトルコ大使や外務省関係者が立ち並び、会に参加した賓客たちの退出を見送ることで感謝の念を示していた。 大方の婦人客たちはチューリップを戦利品のように握っていた。司会者がパーティの閉会を告げる前に、テーブルを飾っていた色とりどりのチューリップを持ち帰るように薦めた演出は、花に彩 れられた生活を送った国の心遣いが溢れており、好評を博した。花びらのとがった可憐な原産種は、マリーやスー夫人の手にも、もちろんロシュフコー夫人の手の中にもあった。ハリールは、ダンスの際、ジェラールに花を貰っていたので、この状況はいささか気に入らなかったようだが、私と共に本来の目的を達せた満足感も大きいらしく、クロークで先に預けた黒いミンクのストールを愛想よく受け取っていた。 クリヨンの回転ドアを出ると、右手にはコリント様式のマドレーヌ寺院、左手のコンコルド広場にはエジプトのオベリスクが見える。ライトアップされ光輪を帯びたそれぞれのモニュメントは、パルテノンとルクソールの神秘を以って夜のパリに君臨していた。到着時は見えなかった星たちが、宝石を散りばめた首飾りのように、澄んだ夜空に煌いている。ロワイヤル通
りに面した舗道には、マロニエの街路樹から木枯らしが吹きすさぶごとに枯葉をさらって行き、夜はすでに更け切っていた。冬の女神の息吹のような冷気が押し寄せ、婦人達は豪奢な毛皮やシルクの外套の襟を掻き合わせた。
私は、ハリールやマリー、バンサンと共に、ロシュフコー夫妻を彼らの専用車まで見送った。つややかなロシアンセーブルのマントを羽織った夫人を先に車に乗せたロシュフコー氏が言った。
貴人を乗せた黒塗りのリムジンは、リボリ通 りへ走り去った。 パーティ客たちもほとんどが自家用車またはハイヤーで帰途に着き、私たちも解散する時が来た。帰路の車はあらかじめ二台手配していた。セダン型のハイヤーからそれぞれ制服を着た運転手が降り立ち、我々を待っている。するとハリールとバンサンは私の顔を探るように同時に見た。私が帰り道に現在の恋人マリーを送るのは当然なのだが、ジェラールを挟んで仲の悪くなったバンサンとハリールが同じ車で帰すのもどうだろうか。今日のいきさつで私を恨んでいるであろうバンサンをメトロで帰すのも不公平だし、二人とも大人なのだから私への配慮もなすべきだし、しばしの同乗は我慢して当然だ考えていると、ホテルショップのショーウィンドウの脇から躍り出た影があった。 「やあ、お疲れ」 「んなことどうでもいいよ。俺はそこのナルシなオバサンに用事があるんだから」 「俺、おまえと一緒に帰りたい」 |
2003.12.2■■