私の愛車アルピーヌはパリへの帰路につくため高速道路に入った。暗い路面 に反射するハロゲンライトが空間に淡いオレンジ色の陰影を与え、深夜の寂寥感をいっそう強調しているようだった。 私の隣ではジェラールがあれこれとCDやミュージックテープを選択している。
「やっぱりあんた、センスなくてダサダサでミーハーだな。マドンナね。クレモンティーヌの方がマシ。ま、これで我慢するか」
彼が文句を言いながら選んだのは、「アンスラックス サウンドオブ・ホワイトノイズ」。スラッシュメタルのサウンドはスピードと相性がいいので、私も気に入っている。
「ダサくてミーハーで悪かったわね。本当に一言多い坊やだこと」
「BGMがイマイチだから折角の気分も台無しだよ」
しかし、彼の表情からはこのドライブを結構楽しんでいる様子が伺えた。

ギターの金属音がうなりをあげている中で、私達は会社の人間について話を始めた。
「バンサンはいつも親切。ちょっとウジウジしているけど、まあいい人だよ。あ、アランはふざけた野郎だよね。俺はあんなやり方は嫌いだ。そしてルイーズは・・・」
「あなたもそう思うの?よかった。私はアランには迷惑しているのよ。バンサンは誰にでもいい顔しているけど、彼はいい人の仮面 を被った」
ここまで言ってから私は過言を悔いた。車の中のように閉鎖された空間では警戒心が薄れて一体感が強まり、つい本音を漏らすこともある。殊にバンサンに対しては、同期ということもあり表面 上は親密そうにしているが、私の本音では、人が良いとの評判を取っているこの男が実は無神経かつ湿った心の持ち主であることに辟易しているのだ。
(迂闊に口を滑らさないように気を付けないと・・・この子に失言や過言を広められることもあるんだから)
私は自戒し、なるべく個人的な感情を入れないで無難な一般論に終止しようとしたが、彼のこの一言で感情が大きく揺らいでしまった。

「秘書課のマリーほど優しくて女らしい人、いないよね」
この名前は今の私にとって禁忌である。ここに来る前は、再び露出してた古傷を冷たい風に晒されて、胸に染み通 る痛みに耐えながらベッドに転がっていたほどであるのだから。ジェラールの不意の訪問と急にドライブに連れ出されたことは、認めるのは不本意だったが、対症療法としてはかなりの効果 を上げいてた。おかげで私はすっかり忘れていたのだが、彼の口からマリーの名前が出て、改めて傷を突つかれ、元の鬱屈した気分へ戻ってしまった。

私は彼の意見には答えず、唇を噛み締めアクセルを踏み込みタコメーターの回転数を上げた。それとは知らぬ 彼は重ねて言い募る。
「あの人、いつも気を使ってくれて、俺にも優しいんだよ。ハリールとは対照的だな」
私はこれでついに感情の関が切れてしまい、激情を押さえられくなって叫んだ。
「何よ!マリー、マリーって!私と対照的だって?そりゃそうでしょうよ。私の方が遥かに綺麗だし、頭だっていいんだから!会社の地位 だってこっちが上なのよ!あんななよなよした女のどこがいいのよ?にこにこしてみんなに媚びを売っているだけじゃない!」
ジェラールは、私の急変した態度に眼を丸くしている。
「ど、どうしたんだよ?急に何で怒り出したんだよ?」
「うるさいわね!」
私はハンドルを握り締めた。
「あんたもマリーが好きなの?それはそれは残念でした。彼女はゲインズブルさんの恋人なのよ!長年の秘められた恋を実らせおめでたくゴールインするの。わかった?だったら黙って音楽でも聴いていなさい!」

私は、自分の患部を掻き回して重篤さを確認し、その激痛にやり場のない怒りを感じて喚き散らす苛立った患者と同じ心理状態だった。神経に触れた痛みで飛び上がった勢いで、アクセルを床に付くまで踏んで全開した。スピードメーターの針はすぐに130マイルを超すほどに振れる。横を行く車が一瞬のうちに後方へ飛び去って行く。前方のドライバー達は、バックミラーの中に猛スピードで迫ってくる真っ赤なスポーツカーを発見し、慌てて進路を譲った。エンジンのピストン運動はMAX状態になり、凄まじい響きをはらんで爆発し、車を狂暴に推進している。

「駄目だって。ハリール、飛ばし過ぎだよ。ヤバいよ、サツに捕まるって」
「私がそんなヘマをする訳ないでしょう!黙ってなさい!サツなんて金を掴ませたらしまいよ!」
自分でも支離滅裂なことを口走っているのは解っていた。すると右前方の黄色いセダン車が急に私の前に入ったので、すかさずブレーキを掛けて衝突を回避し、クラクションを激しく鳴らしながら再び加速してそれを抜き去った。
「危ないだろ!事故を起こすから止めろ!」
「私は運転だってその辺の男よりもずっと上手いの!マリーなんてダサい車を転がす女とは違うの!」
そうだ、彼女はいつも白いワーゲン・ゴルフをおしとやかに運転していた。中には水玉 のカバーが掛っていて・・・涙が溢れてきて、眼が曇って運転がしづらくなった。
(これは高速から一旦降りた方がいい)
私の場合、激昂しているようでも理性は必ず残っているので、本物の危険を犯すことはない。前方に出口の表示が見えたので、ひとまず一般 道へ降りることにした

 

 

「どうしたんだよ・・・?」
私は、隣のシートでこちらを見ているジェラールを放り出して一人になり気持ちを整理したかったが、ここはまだパリ郊外なのでそんな真似は出来ない。人前で泣くのは私の自恃が許さない。昔から泣く時はいつも自宅の自室と決まっている。であるのに、こんな性根の歪曲した小僧と今の状態で鼻を突きあわせていなければならないなんて・・・ 私は車をゆっくり走らせながら、その間に涙を乾かそうとした。

「あんた、泣いてるの?」
「泣いてなんかいないわ。気分が悪くなっただけ。放っておいて」
しかし私の韜晦は逆効果だった。
「気持ち悪いの?じゃ、車を止めた方がいいよ」
私はできるだけ暗い場所を選び、歩道の脇に車を寄せて停めた。ジェラールはカーコンポディスクからCDを取り出してラジオを付けた。流れてきたのはスタンダードジャズのゆるやかで物悲しい音色。曲名は知らないが、現在の私の気分にはよく合っている。激情が去った後は悲愴に耽溺する時間がやってくる。哀愁を帯びたジャズのメロディは胸に深く染み入り、静かで透明な涙を誘う効果 は抜群だった。 私は彼に涙を見られぬように、ドアの方へ身体を向けていたが、彼は私に何が起こっているかを知っていた。

「ほら、泣くと化粧が取れちゃうよ」
私は(また憎まれ口を聞くんだから・・・)と思ったが、黙って顔を背けていた。
「泣き虫なんだな」
私の左肩に不意に彼の手が伸びて来た。そしてそのまま私の肩を掴み、自分の方へ向かせた。当然、私の涙を彼はまともに見ることになる。
「笑いたければ笑えばいいでしょう」
車内には薄闇が掛っているが、多分頬を伝う涙は、街灯に反射して隠しようのない一条の線を描いていることだろう。
「馬鹿だな」
彼の顔が私に近づいてきた。
(これはキスするつもりだわ)
車の中でよくあるシーンだ。今の私は、人恋しくて誰かに触れて欲しい気分でもあったので、そっと眼を閉じた。しかし愛撫を待つ私の唇は空虚なままで、濡れた頬に温かいものを感じたのである。

眼を開いてみると、彼の小さな唇から突き出された赤い舌が私の頬の涙を掬い取っているのが見える。私は思わず顔を後ろへ引いて、彼の顔を見た。長く反り返った睫 が日差しとなったすみれ色の瞳は静かな光を湛えて瞬いていた。ジェエラールは私の肩から手を放すと、繊細な作りの顔を大仰にしかめ、「わあ、お白粉の味がしたよ。まっずいな」と言って、ドアを開けて勢いよく唾を吐き出したのだった。私は肩透かしを食わされた訳になる。別 にこの皮肉屋の接吻などを期待していたのではないが、ムードとしては当然の成り行きだろう。
(また私をからかったということね)
人が落ち込んでいる時もすかさず利用して悪ふざけをするジェラールのやり方にはつくづく感心したが、私の感傷は消え去っていた。

「俺に運転させて。この車好き」
彼の行動で正気を取り戻した私が車を発進させようとすると、彼が言ったので座席を交替した。
「事故だけは気を付けてよ。保険は本人限定なんだから」
「大丈夫だよ」
私は彼が危険な運転をしまいかと監視していたが、滑らかに車を走らせていたので安心して助手席に身を沈めた。ミッシェル通 りの夜露に濡れた街路樹をフロントガラスから眺めながら、今まで感じていた疑問を質問してみる。あなたは何故私に構うの?

「何故、あんたをおちょくるかって?」
彼が前方を見ず、こちらへ顔を向けて鸚鵡返しに言うので、私は気が気ではなかった。
「それはさ、あんたのせいなんだ」
私のせい?
「あんた、俺を馬鹿にしていたろ?俺はバイトだからそんなに重要な人間でもないけど、失礼な態度にはカチンと来るんだよ。多いよね、そんな奴。でもその中でもあんたが一番酷かったの。だからこの女からかってやれと思ったんだ」
私は彼の意外な答えに驚いて運転台の彼を凝視した。少女にも見まがう可憐な横顔は醒めたまま前を見つめているが、その口調からはかなり烈しいものを内包しているのが感じ取れる。
「馬鹿になんてしてないわよ」
「そんなのは嘘だね。俺がメッセージを渡しても礼も言わず、その辺に置いて置けだの、邪魔するなって言ったじゃないか」
「それは完全に被害妄想だわ」
私は躍起になって否定したが、確かにいちごブロンドの若造などはその辺の備品と大差ない認識ではあった。

その次に彼がすみれ色の瞳をキラリと光らせて、絞り出すように語った内容は、いよいよ私を驚かした。
「その上、俺を軟弱だの、根暗そうだの、気持ち悪いだのと言ってただろ」
「・・・私、そんなこと言ってないわよ。あなた、それを誰から聞いたの?」
実はオフィスで数名の仲間と自動販売機のコーヒーを片手に雑談中に、話題が彼に及び、その時の私の論評と一致している。
「嘘だ」
彼は私の言い訳を一言で切り捨てた。
「だから誰が言ったのかを聞いているの」
誰が告げ口をしたのだろう?あの時いたメンバーは・・・
「そんなのは俺にとってどうでもいいの。あんたが高慢ちきでキツくて嫌味な女だってことに腹が立ってたんだから」
私は唇を噛み締めた。高慢できつい。私の自覚する欠点である。しかし何もここまで言わなくてもいいではないか。

「ピーターラビットの話だってアホくさいと思って厭味を言ったろ?」
「ピーターラビット・・・?」
そう言えば、前に誰かが催したパーティに彼も来ていて、ウサギに関する話をした。そうだ、あの時は彼の話で、雰囲気が暗く沈んだものになったことに憤慨したのを思い出したが、いきなり言われてもどんな内容だったか覚えていない。私は何か皮肉で彼に報いたような気がするのは確かだが・・・ 彼のウサギは死んだのだったかしら?

「おまえは腹を立てて先に帰ってしまった。あれから俺はピアノを弾いたんだぞ。おまえに聞かせたかったのに」
「ピアノ?」
ジェラールがピアノを弾くとは、全く知らなかった。
「あの時は、おまえって奴はとことん残虐で身勝手なヒステリー女だと思ったよ。だからからかってキリキリ舞いさせてへこませて暇潰ししようと思っていたんだけど、何か気が抜けちゃったんだよ」
私は彼にただちに下車を命じようかと思ったが、気の抜けた理由を知りたかったので、話を最後まで聞くことにした。平静さを保つ為、一からの数字を数えながら。
(そして叩き降ろしてやる。理由はどうあれ二度と相手にしないから)

しかしジェラールは、先ほどとは変わり、穏やかな微笑さえ浮かべながらハンドルを回した。
「気が抜けた。だって近寄ってみたら、おまえ、案外抜けてて人いいんだもんな。泣き虫だし悪い奴じゃないって解ったから許してやる」
「さっきから黙って聞いてたら、私のことをおまえですって?!許してやる?いくら何でも無礼だと思わない?」
彼は私の抗議を無視して車を止めた。
「じゃ、俺はここで降りる」
見るとそこはクリニャンクールの高架下だった。前方には白いアパート群が冷えた夜の空を背景にそびえ立っている。彼はドアを開けてサラリと降りた。そして車の前を横切り歩道の方へ上がったので、私は慌てて窓を開けた。
「ち、ちょっと・・・!」
「もうヒステリー起こさないね?おまえ一人で大丈夫だよな?泣き虫」
ジェラールはこれだけをすばやく言い切ると、例のラルフローレンのフライトジャケットを翻して羽織り、肩をそびやかしてポケットに両手を突っ込み、後ろを振り返ることなく「のみの市」の立つ方向へ歩いて行った。

 



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