第2章 聖天使の翼

 

最近、ジェラールが僕に冷たい。
何故だ・・・?僕は何度も自問した。否、考え過ぎだ・・・!そして繰り返し否定した。 しかしあの無感動な瞳は・・・?そうだ、僕はやはり彼の仕打ちを反芻して苦悶している。
初めは単に可憐で初々しい青年なので親切にしてやりたいだけだった。年より若く見える彼の無邪気な笑顔が田舎の弟にも似ているように思えて懐かしかった。それが今では憎悪を以ってしか「ジェラール」という名前を思い起こせない。彼は人の心を弄ぶ為に生まれた聖天使の翼を持った恐るべきルシフェルだったのだ・・・

会社に着いて自分のタイムカードを押す前に、こっそりと彼のそれを探り出して出欠を確めるのが、僕の習慣になってしまっている。そして彼が出勤しているとなると、周囲には気取られぬ ように目配りして、あの柔かなストロベリーブロンドの髪を探す。平凡な褐色の頭や、間抜けな栗色、無情そうな色の薄いプラチナ、厭味ったらしい蜂蜜色、陰鬱で重苦しい黒髪ばかりが目に付いて、僕は忌々しくなり舌打ちする。
軽やかな足取りで歩く青い制服に包まれた彼は、無機質なOA機器や書類の間を舞い降りた小鳥だ。その華奢であるが均整のとれた姿をようやく認めると、もう僕は耐えきれぬ ほど猛ってくる。僕の脳裏には、薄っすらとした筋肉が細い骨を覆っている彼の白い体が、歯ぎしりと共に蘇る。子ウサギのようにしなやかな肉体は激しい愛撫に耐え、湿り気を帯びた滑らかな練り絹の肌が火照って桃色を呈して貪欲に僕の肌に吸い付いてくる様子を知っているのだから、我慢にも限界がある。

衣を剥がれ裸になった彼の懸命な拒否を無視して、赤み掛ったブロンドを掴んで僕の褐色の草むらから屹立したものへ押し当て、口腔と舌での愛撫を強制する。喉の奥まで到達した僕自身に気道を塞がれた息苦しさで青くなる彼を見ると欲望が更に増し、その怒張はより著しくなる。そして充分に張りを持たせた後、おもむろに後ろから彼の内部へ侵入すると、女性とは比べ物にならぬ ほどの狭窄感と強度の刺激が僕を襲う。この時はジェラールも隠微に腰をくねらせて僕を受け入れ、快感を一部たりとも逃さず貪る姿勢を見せる。彼の両足の指先が内側へ曲がり、体内の音感に快楽の円舞曲が反響している。僕は彼の襞により絶頂の瞬間へと欲望を運動させていく。そして一線を越えると彼の内部で爆発した。精を浴びたジェラールのヴィーナスの部分は、感覚をあらわにして淫猥な痙攣を示しているのが常だった・・・・

僕は勤務中に射精していた・・・
幸い終業時間間近だったので、同僚に気付かれないように濡れたものを処理しようとトイレへ行くと、なんとそこにはジェラールがいたのだ。
「ジェラール・・・」
「やあ、バンサン、こんにちわ」
ジェラールは蒼い瞳に何の感情も交えずサラリと挨拶した。ブルーのタイルの壁に貼られた鏡に彼の繊細な横顔が映っている。
「待ってくれ、ジェラール!」
僕は、トイレに僕たち以外に人がいないことをすばやく確認してから、 戸を押して出て行こうとする彼を慌てて引き止めた。
「何?俺、もう帰るんだけど」
「話があるんだ。今晩食事でもどう?」
本当は話が特にある訳ではないが、取りあえず彼を誘う口実にと考えたのだ。
「今晩?駄目だよ。俺、用事あるから」
口調にぞっとするほどの無関心さが露骨に表れている。僕は内心身震いした。しかし若者特有の甘さをもつ彼の声が、どんな愛撫に反応して感極まった時にどれほどの叫びを発するか僕は知っている。僕は彼の用事が何であるか知りたかったので、恥を忍んで聞いてみた。
「用事って何だよ?」
「そんなこと聞くの?ま、いいや。ある人を見舞いに行くの」
「じゃ、車で送ってあげるから、その後メシ食おうよ」
僕は彼の透けるような薄い瞼がうごめくのを見詰めている内に、再びそこを僕自身でなぞりたくなり、何とか理由を付けて食い下がってしまった。
「いいよ。別に。俺、自分のペースで行きたいし」
僕の欲望が、今もうすでに体積を増しつつあるのに、彼は冷水を浴びせるように無慈悲に断った。僕はその見舞いの相手が誰か妙に気になり、恥じる感情を押さえて聞いてみた。するとジェラールの瞳は、蒼く光り、嘲りとさえ言える笑みが宿った。
「ハリール。風邪っぽくて頭痛いとかで、さっき帰ってたの見ただろ?」
ハリール!僕は、同期で友人でもあるこの名前を聞いて、いきなり胸に剣を突き立てられたように感じた。いや、予想できたと言うべきか・・・この悪魔の御使いとのこれまでの会話を思い出せば。 動揺している僕を一瞥した彼は、放った矢の効果を楽しみながら追い討ちを掛けるかのように付け加えた。
「そう言えば、おまえがあいつのフロッピーを隠したんだったよね」

僕の心臓はこの言葉により、強烈な鼓動を打ち始めた。 頭にも血が逆流し、周囲の光景が回り出すひどい目眩を感じ始め、気分が悪くなり吐き気すら覚える。
(見られたか?こいつはどんな証拠を握っているというのだ?)
しかしここで馬脚を現すと会社での立場が悪くなるかも知れない。なんとか誤魔化さなくては・・・ 僕は、さも呆れたような顔をしてシラを切り始めることにした。上着のポケットに入れた自分の手を、指の骨が折れるほど堅く握り締めながら。
「な、何を言うんだ?俺はフロッピーなんて知らない・・・」
「ふふん、まあ黙っててやるから安心しなよ」
彼は今度はあからさまに嘲笑った。
「だ、だからそれは誤解で・・・」
しかしジェラールはもう聞く必要がないとばかりに身を翻してドアを開けて外に出た。僕は茫然と立ち尽くしていたが、他の社員が用を足しに入ってきたので、慌てて僕の社内での評判「素朴でいい人」に相応しい態度で会釈した

 

 

赤いフロッピー・・・僕はあの時の状況をもう一度思い出した。

「バンサン、私の赤いフロッピー見なかった?ル・ノーブル社の来期輸入計画が入ってたから無くなったら困るので必死で探しているのよ」
ハリールはかなり焦った様子で僕の部屋へ飛び込んで来るなりこう言った。いつも格好付けた自信家の彼女が取り乱すのを見るのは、何度目かだが、いつもながらなかなか愉快で溜飲の下がる光景だ。僕はさも心配そうに否定しながら(自分がその辺に放置しておくから悪いんだよ)と内心ほくそえんだものだった。

実はこのシーンの前に、今晩、ハリールや数人の仲間と一緒に飲みに行く手はずになっていたから、僕は場所の相談をしに彼女の個室を訪れていた。その時秘書のジャンヌはおらず、直接オフィスへ入ってみると、そこももぬ けのカラだった。 彼女がマネージャーに昇進してから初めてこの部屋に入ったのだが、たちまちどす黒い嫉妬が暗雲のように沸き上がち僕を捉えた。
彼女は大部屋からここへ引っ越してきてさほど日にちは経っていないので、まだ什器などは完備していないが、日当たりのいい快適な部屋で、僕のオフィスよりも広く調度も上等だった。窓から見える新凱旋門が太陽の光を誇らしげに反射しているのは象徴的な事象だった。この待遇の格差が、ゲインズブル氏の僕とハリールへの評価を如実に示しているように感じた。
僕の心に、学生時代から絶え間なく感じていた湿った劣等感が徐々に湧き出て染みていくのを感じる。この陰鬱な感情を押し隠し、素朴と良識を前面 に掲げて善人の評判を得て、世間の同情を喚起し、自分よりも能力のある人間を追い落とす手法を僕は幸いにも会得したが、やはり心の粘度は下がらないことは事実だった。
僕のような凡庸な人間から見たら、やはり彼女もゲインズブル氏同様、不思議なほど神に愛されたとしか思えない人間の一人なのだ。しかし本人がそれを意識しているのか否かは判然としないが、謙譲の精神を全く理解せず、時折平然と厭臭を振りまくのには閉口すると共に憎悪してもいる。

「留守か・・・じゃあメモでも残しておくかな」
僕は重厚なオーク材の机の上に置き散らかされた資料や書類の間にあるメモに連絡を書いて残そうと考えた。紙類を掻き分けてメモパッドを取りあげると、何かが床に滑り落ちた。それはフロッピーディスクだった。なにげなく拾い上げると「01年ボーキサイト・ル・ノーブル社」と銘打ってあるのが見えた。 ル・ノーブル社!僕はいきなり頭を鈍器で殴られたように感じた。これはおそらく来期の輸入計画の企画書で、彼女は今までこれを作成していたのだろう。ゲインズブル氏は、花形部門の仕事を僕ではなくハリールに振り当てたのだ・・・!
社の帰趨すら決め兼ねない重要な計画の入ったフロッピーをこんなところに放り出して 部屋を留守にする彼女の迂闊さは、僕がこの女の自信過剰から来る不愉快さに目をつぶり友達付合いを継続させうる要素ではあるのだが・・・
もう一度、そのラベルの文字を凝視しながら、心が凍り付いて行くのを感じる。やるせない怒りと嫉妬と悲哀と・・・憎悪の中で僕は思考を巡らせた。
(ハリールにだけいい思いをさせてはならない)
僕はすばやくフロッピーを懐へ隠した。そして部屋をそっと後にし、誰もいないのを確認すると何食わぬ 顔で廊下を歩いた。心臓は激しく波打っているが、そのまま自分の部屋へ戻り、自分のスチール製の机の一番下の 引き出しを開き、詰め込まれた書類の間に押し込んだ。ここで捨てては足が付く恐れがあるので、後日、パリの町中の公衆便所にでも密かに捨ててやろう・・・

しかし当のハリールはその晩、意気揚々といつもの派手な服装でやってきて、かなりのご機嫌で仲間と共に杯を開けていた。 僕は、しょげて悩んでいる彼女を期待していたので意外だった。次の日会社で例のフロッピーを処分するため持ち出そうと自分の机を開けると、今度は僕の元からそれは消えていた。僕の顔からは血の気が引いたが、きっとハリールはバックアップを取っていたのだ、そして僕の盗んだフロッピーはどこかに紛れ込んでいるのだろうと考えることにした。
とにかくハリール自身は全然気付いていない。もし発覚していたら、彼女の性格では、楽しく酒を酌み交わすような腹芸は不可能だろうから、と僕は自分を強いて安心させようと努めていた。

「あいつのフロッピー隠したのはあんただったよね」
今、ジェラールの残した言葉が僕の頭の中を狂奔した馬のように駆け巡っている。
(何でジェラールが知っているんだ・・・?)
この時、僕が引き込んだのは、天使の翼を持つ悪魔だったと気付いたのだった。

僕が初めてジェラールを見たのは彼がアルバイトとしてやって来た当日だった。巨大なビルの中で行き場を失いさまよっているらしい一人の痩せた青年を僕は見た。事務的な表情で行き交う人々を無機質な青白い蛍光燈が照らす通 路の隅で、ストーンウォッシュのブルージーンズとセックスピストルズのロゴがプリントしてあるTシャツを身に付けた青年は、このビルには不似合いな存在だった。
「あ、あの・・・」
困惑しているらしい青年は意を決して向こうから来た一人の男に声を掛けたが、見事に無視されて しょんぼりしていたので、僕は側に寄ってみた。
「君、どうしたの?」
青年がこちらを振り向いた時、僕はある種の衝撃を感じたのを覚えている。濃い蒼の瞳が彼の心細さを表して潤んでいる。捨てられた憐れな仔猫のようだ・・・ 聞いてみると、彼の行き先は僕らの上司ゲインズブル氏のところだった。

それは僕の苦悩の日々の始まりだった。僕は華奢な彼が重い荷物を持っているのを見ると、すぐに席を立って手伝ってやり、休憩しているのを見つけると自動販売機で買ったカフェを薦めてみる。すると彼は、密度が濃くて長い睫 を上げ蒼い瞳を輝かせ、無邪気に礼を言い、労働には向かない両手で湯気の立つ紙コップを持って、僕の隣にちょこんと腰を下ろす。
ジェラールは動物的な本能で誰が自分を可愛がってくれるかを察知しているらしい。彼の様子は、猫が飼い主に喉を鳴らして擦り寄る様を連想させ、猫の好きな僕としては、一層彼へのいたわりと憐憫の情に駆られてしまった。それでも田舎でリセへ通 っている年の離れた弟を労るのと変わりない気持ちだと思っていたのだが・・・



 

 

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