どんなパーティでも、政治や思想の主義主張などはタブーである。だから僕たちは、いつも楽しい仲間内の語らいに相応しい話題を注意深く選んで会話を楽しむ。この夜は、バカンスでの想い出話、競馬やロトの配当自慢などで盛り上がっていたが、やがて話はフォンテンブローでの狩猟と移っていった。
クレマンは狩猟愛好家で、動物愛護精神の豊かな妻のロマーヌとはこの点だけは意見が食い違っているのが彼の悩みの種だ。心優しいロマーヌは、生き物を娯楽で殺傷することの罪深さを信仰を絡めて彼に毎々に説き続けているので、彼も閉口して妻の前では極力この話題を避けている。しかし狩猟解禁シーズンも間近な上、ここには同好の士が多いので、ハンター達はロマーヌがデザートを作りに立った隙を伺って相談を始めた。来月、ゲインズブル氏の好意で、彼の別 荘に仲間が集まり、釣りや乗馬、ハイキングなどの野遊びをすることになっているのだが、そこには狩猟が許可された森林もある。

「クレマン、あなたのウィンチェスターの具合は、その後どうなの?」
女だてらに、と言うとハリールは顔を真っ赤にして怒るだろうが、彼女もこの趣味の持ち主なのだ。
「そうだな、あれから使ってないんだが、修理に出した方がいいかも知れんな」
クレマンは台所の妻が戻ってこないか、気にしながら答えた。
「ちゃんと整備してないと暴発するから危ないぞ」
「やっぱり新しいのを買うべきかな?」
「ゲインズブルさんは銃にも詳しいから聞いてみたら?」

僕には狩猟の趣味はないが、彼らが仕留めた獲物をいつもご馳走になっているので、この話題に異存がある訳がなく、素朴に見える笑顔を意識して作り、ブランデーを舐めながら聞いていた。
「今度も大物を狙いたいから、弾を散弾に変えてみるよ」
クレマンは宣言したが、彼は下手な鉄砲撃ちとして有名なので、みんなはどっと笑った。
「大物狙いもいいけど、今までの実績が野うさぎを何匹かじゃなあ・・・」
「うさぎを散弾で撃ったら木っ端粉みじんになって、食べるところなくなちゃうぜ」
僕らはこの軽口をそれ以上に軽薄な哄笑で報いた。
「うさぎを殺すの?」
突然引き裂くような声がした。それはジェラールだった。今まで彼は、膝を抱えてうつむいていたはずなのだが、何時の間にか立ち上がっている。

「うさぎを殺すの?」
ジェラールは同じ言葉を繰り返した。
「ジェラール・・・」
彼の蒼い瞳は潤んでいて、長い睫がかろうじて涙が落ちるのを防いでいるのが、誰の目にも明らかだった。殺戮の話題に夢中になっていた動物殺害者たちは気まずそうに謝った。
「ごめんよ。気分が悪くなった?」
「あたりまえでしょう!彼は正しいわ。そんな話止めてちょうだい」
何時の間にか、キッチンから戻ったロマーヌが非難を込めた口調で言う。
「ロマーヌ、悪かった。手伝おう」
クレマンはホストの本分を思い出して、この場の気分を変えようと勤め、すぐに立ち上がって妻からデザートの乗った盆を受け取り、甘いフルーツのシャーベットを皆に配り始めた。

「すまなかったね。君もこれ食べるね?」
クレマンはジェラールにいちごのトッピングをかけたシャーベットを手渡した。
「僕こそみんなの気分壊しちゃってごめんなさいって言わなければいけないの」
彼は努めて笑顔を作ってはいたが、潤んだ瞳には涙が溢れ出している。それは真珠のような輝きを放ちながら白い頬を転がって滴り落ちた。涙とても彼の分泌物で体液の一種なので床にこぼすのは忍びなく、僕はすぐに駆け寄ってそれを吸い取りたかったが、この場ではかなうはずもなく、仕方なく側に寄って薄い肩を抱いてやるに留めた。
ジェラールは僕に肩を抱かれると、すすり泣きを始めた。僕は彼が快感に打ち震えてむせび泣く様を想起してしまい、ある部分が顕著になるのを怖れて、彼を立ち上がらせ、長椅子に座っていたマリーに引き渡して難を逃れた。本当はそのまま欲望を存分に膨張させ、その原因であるジェラールに口で処理させたかったのだが。

ジェラールがマリーの横に来るや否や、ハリールは不愉快そうに席を移動した。彼女はよほどこのうさぎ好きな青年を忌み嫌っていると見える。
「可哀想に。でももう泣かないで・・・」
長椅子ではマリーが白いハンカチを出してジェラールに手渡し、優しく話し掛けていた。
「はい。泣いたりしてごめんなさい」
涙を拭って健気に笑ってみる彼のいじらしさに、みんなは思わずホロリとしたが、ハリールだけは違った。彼女は、眼を鷹のように鋭くして、一見優しいが実は針を含んだ言葉を吹きかけた。
「あなたは本当にうさぎが好きなのね。ご立派だわ」
するとジェラールは、はっきりと顔を上げて、彼女を真っ直ぐに見返した。
「僕にとってうさぎは特別なんです」
「特別?」
それからジェラールは誰に告げるともなく、自分とうさぎとの因縁を語り始めた。

「特別っていうのは、ジュニアスクールの時、僕がやった事件があるからなんです。
学校の飼育小屋でピーターラビットが赤ちゃん産んだんです。うさぎというのは子どもを産んだばかりの時は神経質になってて、そっとしといてやらないと子うさぎを放棄するんです。だから先生が注意したのに、飼育当番のやつがみんなを小屋に入れて、箱の中にいた子うさぎをひっぱり出していじくりまわしたおかげで、次の朝学校に行ったら母親が自分の赤ちゃんをぜんぶ押しつぶして殺してたんです」
「僕は頭に血がのぼって、帰り道で待ち伏せして飼育当番を石で殴って頭を2針縫うケガをさせた。もう、その後は大騒ぎ・・・子うさぎをおもちゃにしたとこまでは、飼育当番と、そいつと一緒にいたやつらが悪いってことは誰もが一致した意見だった。でも、その後俺がやったことは犯罪だと言われました。反省会で何度も吊るし上げられて、親はあやまりに走り回って、親父にむちゃくちゃひっぱたかれて、もうさんざんだった・・・・・」

この話を聞いて、この場に会した一堂の誰もが、もちろん僕も含めてだが、社会の規範が時には矛盾した壁となって、大人の良識という大仰な錦の御旗で、幼い自分を阻んだ経験を思い出したのだった。真実から目をそむけ、建前を優先させる大人達へのやり場のない怒りと悲しみ。しかし僕は大人の理論に従う方が得をする早道だいう事実とすぐ馴染んで、その方法で今まで都合よくやってきてから、ジェラールの青臭さを、心のある部分では軽蔑していたのだが。
しかしこの場にいる大人の男達は沈黙して頭を垂れており、女達は、ただ一人を除いて、ことごとく泣いていた。そのただ一人とは、もちろんハリールだった。

彼女は僕に目配せして席を立った。僕はこのままみんなと共に、ジェラールが撒いた感傷に浸っていたかったのだが、気性の勝った彼女にいつものごとく押し切られて仕方なかった。それに幼いジェラールが折檻を受けている様子が妄想として去来してきたのだ。そこは暗く湿気の多い納屋で、まっ裸にされた彼は白い肌を惜しげもなく晒し上げられ、鞭何度も打たれて引き裂かれ、新たに出来た生々しい傷からは赤い血が吹き出ている。そして息も絶え絶えになって、死体のように動かず床に横たわっていてるが、しかし小さくまだ包皮に覆われた彼自身は勃起している様が浮かんできた・・・その土筆に吸い付いた時の味を想像してしまい、息遣いが普通 でなくなって来たので、これ幸いと彼女に従った。

「ちょっと、あの子、どういうつもりなの?あれじゃお通 夜じゃない!」
部屋を出るなり、ハリールは、ドレスと同じ色の眼を見張り、如何にも呆れた風に言った。
「うん、でも狩猟の話題は時と場所を選ぶべきでもあるな」
僕は、彼女を怒らせて何らかの過激な言質を取り、後日利用しようと思ったが、彼女を敵に回す事態も避けたかったので、僕に憎悪が向かないような大人で中庸な意見に聞こえるように、言葉を選びつつ言った。
しかしハリールは一瞬烈しい眼をしたが、挑発には乗らず、 「私、先に帰るわ。クレマンとロマーヌにはあなたからよろしく言っておいてね」 と昂然と顔を上げて、白い光沢のあるストールを掴むと、身を翻してヒールの靴音高く玄関の方へ歩いて行った。

 

 

「バンサン!」
腹立たしげに帰宅したハリールを見送っていると、背後から僕の名を呼ぶジェラールの声が聞こえた。振り返ると、白と黒の大理石を交互に張った廊下に、いつのまにか部屋から出て来た彼が立っている。
「ジェラール、もう大丈夫なのか?」
「もう大丈夫だよ。心配掛けてわりィな」
乾いた声で彼はあっさり答えた。僕は彼を部屋へ残して来たことを気に掛けていたのだが、ついさっきまで捨てられた仔猫のように心細げに涙を流していた人間とは思えぬ ほど、彼の様子は晴れ晴れとしているので、少々白けた気分になってしまった。そして彼は僕を通 り越して、ハリールがたった今出ていった玄関の扉に視線をやった。
「あいつ帰っちゃったの?何でだよ・・・」

僕は一瞬戸惑ったが、彼の意味するあいつとは、彼に同情をよせぬ 高慢ちきなハリールを指しているのだと悟った。 先ほどのうさぎの件でジェラールが彼女を快く思わないのは当然であるのだが、彼の憤懣に安易に同調することにより降りかかるかもしれない後難を恐れて、僕の身上である処世術を使い、どちらともつかぬ 言い方をした。つまりお茶を濁すということだ。
「彼女はわがままで気まぐれなところあるからな。俺には何が気に入らないのか見当も付かないよ」
しかし彼の思惑は違っていることを僕は次の一言で思い知った。
「俺、気分壊しちゃったお詫びにピアノを弾こうと思って呼びに来たのに、なんであいつ帰るんだよ。ちくしょう」

僕らが部屋へ戻ると、クレマンが御自慢のスタインウェイのグランドピアノの蓋を開けて、ジェラールの為に席を用意していた。 そのピアノは一般に見られる普及品とは違うらしく、ピアノ通には垂涎の逸品で、完全な新品で700万フラン以上すると、確かゲインズブル氏だったか誰かから聞いた覚えがある。しかし僕が見たところは、漆塗りなのだろうか、つややかな茶色の光沢を放つマホガニー材の醸し出す高級感や、『STEINWAY&SONS』の流麗な金文字の刻印以外は、僕の田舎であるストラスブールの公会堂にあって市民が誇っていたグランドピアノと、さほど違うようには思えなかった。どうやら他の人間の中にも同じように感じた者がいたようで、口にさえ出して言った。
「スタインウェイって、やっぱり普通 のピアノとは違うのかねえ?」
「そりゃ、違うよ。とにかく音質がすばらしくいいんだ」
ヴァイオリンならばストラスヴァリウスに相当する鍵楽器屈指の名器を所有してはいるが、クレマンとロマーヌはさほどピアノに造詣が深い訳ではなく、このスタインウェイも伯父から形見として譲り受け、応接間に贅沢なオブジェとして鎮座させているのだから、素人を納得させられる説明者ではない。

「ロジェ、何とか言ってくれよ」
クレマンは、オペラが好きな理論家のロジェに援軍を要請する。しかしロジェが何か言う前に、ピアノの前に座ったばかりのジェラールが、観客の方へ顔を向けて言わずにはおられないという様子で口を開いた。
「全然違うよ」
彼が何らかの情熱に囚われているのは、大きな瞳が蒼い光を放っているので明らかだった。
「音は、もう官能的なんです。音のまわりをキラキラした色っぽいゼリーが 覆ってるみたい。楽器全体で音を鳴らして、それがまわりの空気にいつまでも広がっていくかんじ。ピアノにかぎらず、ギターにしても、いい楽器はみんなそうですよ」
そして彼はいとおしそうに白と黒の鍵盤を撫でてから、しなやかな人差し指でその一つをポンと叩くと、音が部屋全体に反響しながら広がっていく。次に彼は右手だけで音階をなぞった。厚手の絹布を撫でた感触を蘇らせる音が、一つずつ確かに煌きながら連続する旋律となって空間を透通 したのを、誰しもが感じ取ることの出来る音質の素晴らしさだった。
「ね、違うでしょ?」
ジェラールは小首をかしげて微笑んだ。そこで僕らが見たのは翼をつけた聖なる天使の無垢と自由だった。

「何を弾きますか?」
飴色の光沢を放つスタインウェイの前に座ったジェラールは、きちんと手を膝においてこちらへリクエストの有無を問うた。
「な、何でも君の好きなものを弾いてくれたら・・・」
彼の視線の先にいたピアノの所有者クレマンは、少々どきまぎして答える。どうやらこの男もジェラールに魅せられたのか・・・?僕は疑り深くなっていた。重厚なグランドピアノと若々しいジェラールの取り合わせは官能的過ぎる。ピアノの上に座り込み、白と黒の鍵盤に指を滑らす彼の口に僕の太い指揮棒を押し入れたら、彼はどんな曲を弾くだろうか?喘ぎながらも指は鍵盤を愛撫するのを止めることはないが、そのうち僕とへ這って来る…と考えて僕は、彼の表情を盗み見た・・・・
しかし、僕の邪念を知らないジェラールは、無邪気にピアノ曲を提案していた。
「『バッハのプレリュード』はどう? もうちょっと大人っぽいのがよければ、ドビュッシーの『月の光』や『亜麻色の髪の乙女』なんか、 ロマンチックでいいですよ」

彼の選曲は、最終的にドビュッシーの「亜麻色の髪の乙女」になった。 僕が後日知ったことによると、音楽の分野に印象派の新風を吹き込んだフランスの作曲家ドビュッシーの2つの前奏曲集は、特に注目されるものであり、その第1集の8曲目が「亜麻色髪の乙女」であった。
この時は、そののびやかな曲線を持つ旋律が美しいピアノ曲に、聴衆も空間と一体になって無心で聞き入っていた。 ジェラールの白魚のような繊細な指に絶え間なく押される鍵盤は、まるでそれ自体が生命を持つかのようになめらかに運動を続けている。そこから生まれ出づる複雑な音の美は、彼の一部のように絡み合って僕の感覚に飛び込んで来た。
肉感さえ惹起する流麗なタッチを生み出す彼の両手は、僕自身を摩擦している時よりも、蒼白さを増して、鍵をなぞりつつ躍動してているのには、思わず嫉妬を覚える。彼の精密な愛撫に禁欲していた名器がエクスタシーの歌を高らかに歌っているのだ。正面 に刻印されたSTEINWAY&SONSの文字と重なった彼の顔が、マホガニーのツヤに映し出され、翼をつけた音楽の天使は、自身の真摯と陶酔の中にいた・・・

「夢の中をさまよっているみたいな気分だわ」
ロマーヌがふと漏らした言葉だ。
「グランドピアノ特有の重いキーを、演奏者の手は充分に生かしきっていたね。 繊細な中にも豪奢さのあるタッチだったよ。素晴らしい」
理屈屋のロジェが素直な賞賛を述べことは珍しいことだ。
「ベンゼンドルファーなら女性的な音で、スタインウェイは男の人に向いているんですってね。それを弾きこなすなんて偉いわ。ジェラール」
マリーがそよ風のような声で囁くと、彼は「僕は男ですから・・・」と頬をかすかに紅潮させて頷いた。
「これでこのピアノを僕に遺した伯父の供養になったよ」
クレマンがジェラールの肩を叩きながら満足気に言うと、彼はにっこり笑った。
「じゃあ次には『月の光』を弾きましょうか?」
そして再び愛撫を待つ名器と向かい合う。みんなは思いがけないピアニストの登場に喜んでいたようだが、僕は違った。 陰鬱な暗雲が僕の心を覆っていく。もうスタインウェイの力強い響きも僕の耳を素通 りしている。

その後、ピアノ演奏の合間にロジェらを相手に、ジェラールはオペラに関する高度な音楽理論を展開し始めた。時代の思想が音楽に何の関係があるのか僕には全く理解できない。ビロードの舌を持つ彼に知性などは不要だ、双眸が蒼ければそれでいいのだ・・・ 僕の中ではジェラールはあくまで愛玩物だった。ペットが己の域を出ることは許されない。であるのに、今、小僧は要らぬ 理屈をあの口から吐き出し続けている・・・ 猛って溢れ出しそうだった僕の突起物は次第に小さくなり、しまいには沈黙してしまった。

 

※一部、『フロリダの地図』から192氏の許可の元に引用させて頂きました。



 

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