第3章 Lapin−うさぎ

 

月曜日の昼。

この日は朝から冷たい秋雨が降っていた。私はゲインズブル氏に提出するル・ノーブル社の 内部調査報告書をまとめあげる為に、自分のオフィスに篭って苦手なパソコンに向かっている。当初の予定では午前中には完全に仕上がるはずだったのに、今後の動向を絡めた展望を書き上げるのに予想外に手間取った上、表計算に自分で違う数値を入れていたことに気付き、キーボードから手を離して唇を噛んだ。

この状況に陥るとこれ以上続けても効率が悪くなり苛立ちが募るだけであるから少し休憩すべきだろう。すでに昼食の時間であったが、外に出る気が起こらず、テイクアウトのクロワッサンサンドを秘書のジャンヌに頼んで買って来て貰う手はずになっている。そろそろ戻ってきてもよい頃合なので作業を一時中断して彼女を待つことにした。

パソコンを付けたままにしているので、モニタはウィリアムズ・ルノーの青いF1マシンのスクリーンセイバーに切り替わった。絶え間なく動くルノーのエンブレムをぼんやりと眺めていると、私の愛車アルピーヌが連想され、先週の金曜の夜、その車にジェラールを乗せシャルル・ド・ゴール空港までドライブをしたことに思いは至った。

彼の憎まれ口が真っ先に蘇り、やはりあんな憎たらしい子はいない、と再び憤激が湧き上がってくる。しかしよく考えてみると、彼は嘘を何一つ言ってはいなかった。どこから聞いたのかは引っ掛かるが、すべて私の口から出た言葉を忠実に再現していた。そして、ピーターラビットの逸話なるものも胸に手を当てて考えると、思い当たる節があったのだ。

クレマンの家で私が彼に対して取った態度は、あまりに残酷で、底意地が悪かったことを思い起こすと、心苦しさを覚えた。それにあの「うさぎ事件」は彼でない誰かが語れば、やはり私も似たような経験を持っているので、きっと心から同情しただろう。嫌みな小僧だからといって、水に落ちた犬を叩くような真似は淑女のすることではない。しかし彼自体、私を淑女と思っているかどうか怪しいものなので、この点は気にすることはないかも知れない・・・・。

ジャンヌはもう戻ってきてもいい頃なのに・・・と私は不満を感じた。手持ち無沙汰でもあり、また作業をはじめると、突然パソコンがフリーズしてしまった。 強制終了キイを何度も叩いたが、何の反応もない。
「またか!」
仕方なく私は電源をおとした。この白を基調としたセンスのいいパソコンは最近何故かフリーズが多い。であるからこの前詳しい者に、こんな場合はデスクトップを作り直せばいいと聞いておいたので何とかなるだろう。そこで、ウロ覚えのキイを押しながらパソコンを立ち上げてみると、予想通 りの作業がはじまった。「フン、私もかなり上達したもんだわね。やれば出来るってことね」と得意になって誰かに自慢したくなった。しかし、途中でパソコンが無気味な音をたてはじめたので、あわてて作業のキャンセルボタンを押すと、一瞬のうちにすべてのアイコンが見慣れないものに変わってしまっていた。全く予想外の事態である。「これだからパソコンは嫌いなのよ!」と私は舌打ちをして一人悪態をついた。

取り扱い説明書の存在を思い出し、スチール製の戸棚からそれを引っ張り出してトラブルケースを参照してみたが、どうも解らない。私は外に出てパソコンに詳しい社員を呼んで、この反抗的なアップル社の製品の機嫌を直してもらうことも考えたが、極秘書類を作成している途中なので、出来るだけその事態は避けたいのが本音だった。その後、iBookの解説本を見ながらあちこち弄り回したが、ビクとも動かない。

私は苛立ち、パソコンの電源を引き抜き、液晶モニタに器物を投げつけ、キーボードを握りこぶしで叩いて、服従しない機械をズタズタに破壊しててやりたい衝動に駆られてきた。それはさすがに不可能だから落ち着かなければならない。しかしどうにも腹が立つので、さも意味ありげなくせに分厚いだけで不親切極まりない「トリセツ」に八つ当たりすることに決め、壁に向かって投げつけた。 冊子は勢いよくクリーム色の壁に背表紙をぶつけて、ドアの方へと飛んだ。 その時である。ドアが開き、ジェラールが部屋に入ってきたのは・・・

 

 

「な、何するんだよ!?」
彼は大きな蒼い瞳を更に大きく見開いて驚いていた。それはそうだろう。部屋に入るなり、いきなり本が飛んで来て、ドアの横の壁に当ってページを広げて落ちたのだから。
「ちょっと、人の部屋に入る時はノックくらいしたらどうなの?」
「したよ。おまえ、ヒス起こして聞いてなかったんだろ?」
彼は足元に転がった白い冊子を拾い上げて、肩をすくめて皮肉っぽく笑う。
「怒ってもいいけど、会社の備品を破壊しちゃ駄目だよ。本破けちゃったよ」

確かにMacintoshという文字のある表紙が縦にひどく破れている。彼の白い指がその皺を伸ばしているのが見えた。
「どうしたの?今度のヒステリーの原因は何?」
私はこの質問で我に返った。
「パソコンが全然作動しなくなっちゃったのよ」
「おまえったらついにパソにまで腹立ててんの?どれ、俺が見てやるよ」

彼は左肩に引っ掛けていた黒いナイロンタフタのリュックと手さげの紙袋を床に降ろしてこちらへ来ると、私を押しのけてパソコンの前に座り、電源を切った。そして再度起動させて、モニタを見ながらいくつかのキーを音を立てて押している。
「ちょっと、よけいに変にしちゃ嫌よ。重要なデータも入っているんだから」
心配で横からつい口出ししてしまったが、彼は余裕を持ってウィンクする。
「まあ、トーシロはそこで大人しくしてるんだな」
私は半信半疑だったが、3分後には、神よ、パソコンは元の状態に戻ったのである。

「あ、ありがとう!」
内心、パニック寸前だったので、私は小僧に対して手を合わせたい心境だった。
「ね、だから言ったろ?もっと俺を信用しなさい」
ジェラールは自慢気に胸を張る真似をした。そうだった。この小僧の世代はコンピューターに抵抗というものが全くないのだ。

とりあえずトラブルが解決して私は胸をなでおろし、昼食のために新しく入れ直してあったコーヒーをつぐみとばらの絵のついたヘレンドのカップに注いでジェラールにすすめた。
「・・・でも、うわさには聞いていたけど、マックってほんとうによくフリーズするのね。仕事が進まなくて本当に嫌になるわ」
ジェラールは受け取ったコーヒーを一口飲むと、不審な顔をして私にたずねた。
「確かにマックはフリーズが多いけど、そんなに?」
「ええ、1日に2、3回は固まっちゃうのよ。急いでいる時はイライラするわね」
「いくらなんでも、それはひどすぎるな。どれ、もう一度見てやるよ。どいて」

彼は涼しい顔をして慣れた手つきでマウスを動かし、しばらくモニタを眺めていたが、「ああ、壊れたファイルがこんなにあるじゃん。これじゃあダメだ」とつぶやいた。
「壊れてる?だってこのマックは支給されたばかりなのに。とんでもない代物だったのね。じゃあ即刻取り替えさせるわ」
するとジェラールの顔に呆れたと言わんばかりの表情がありありと浮かんできた。
「せっかちだな、まあ、ちょっと待ってな」
彼は何度かマウスをクリックしただけで、ふたたび涼しい顔をして椅子によりかかっている。そして数分後、「直ったよ」と平然と言って私を見上げた。
「直ったって・・・これで?一体どうやったのよ?」
「あのさ、ノートン入ってるんだから、たまには使えよ。定期的にパソコンの状態を診断するのは常識だろ?」
悲しいかな、何のことか解らなかった・・・

仕方なく不本意ながら彼を誉めると、「こんなの特別 なことじゃないよ。まあオバサンだから仕方ないか」と返って来た。
「本当に助かったわ。ありがとう」
性懲りもなく私をオバサン扱いするジェラールのもの言いはカンに触ったが、窮地を救われたという弱みもあり、気づかぬ ふりをして「それで何か用なの?」と話題を変えてみた。すると彼は持ってきた紙袋を上げて見せた。そこには私がオーダーしたサンドウィッチのチェーン店の名前がその店の特徴でもある崩した飾り文字で印刷されていた。

「これをお届けに参りました。マダ〜ム」
マダムの語尾を嫌みに上げるところがまた憎たらしい。しかしジャンヌ本人でないのを不審がる私の様子をすばやく見てとったのか、彼は説明を始めた。
「ジャンヌは今日は恋人と昼デートなんだよ。おまえに用を言い付かって困っていたから、俺が気をきかせてお使いを変わってあげたんだ」
「まあ、それならそうと言えば自分で買いに行ったのに・・・」
「そんなこと言えないだろ?おまえ、焼いていじめちゃ駄目だよ」
私はこの皮肉と失礼で馴れ馴れしい二人称で呼ばれることに、毎度のことであるが腹を立てた。
「あんた、おまえだなんてオフィスで馴れ馴れしい口聞かないでよ」
ジェラールは紙袋を開けて、サンドウィッチを取り出しながら、「あ、怒ったの?でも勤務中はちゃんと、オッセンさんって呼ぶよ。今はオフタイムだろ? いいじゃん。実は泣き虫ってことも知ってるし」と切り返す。

「・・・!」
屁理屈合戦においては、私はこのいちご頭の小僧の敵ではないので、とにかく追っ払うに限る。「じゃ、お使いご苦労さん。いくら?」とサイフを取り出すと意外な答えが返って来た。
「俺のおごり」
彼のおごり?そんな訳にはいかないと私が断り掛けると、「いつも奢ってくれるから、今日は俺に出させてよ」と、白い額に降りかかるストロベリーブロンドの長めの前髪を、わずかに頭を動かして振り払いながら言う。小悪魔にしては、偉く殊勝だが、こんな後はきっと何か魂胆があるに違いない。
「俺の分も買って来たから、ここで食べてっていいでしょ?」
やはり、何かはあったのだ。私は苦笑した。



 

 

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