「ヤプウ」にはすでにだいぶ客が入っており、金は同じ舞踏劇団のヤマトと舞台女優の香夜、松崎らと同じテーブルについていた。有名な暗黒舞踏集団「山海塾」の流れをひく劇団を運営する金は、40代には見えない筋肉質の体にスキンヘッドで、濃い一直線の眉に眼光の鋭い風貌は客の中でも目をひいた。潤はヤマトと香夜とは初対面 だったが、ふたりとも20代後半で、ヤマトは金と同じくスキンヘッドにエスニック柄のシャツとインド綿のラフなパンツに雪駄 という「いかにも」ないでたち、香夜は少し太めのくずれた体型に黒ずくめのファッションで、女優と言われてもピンと来なかったが、まっすぐな背筋や洗練された物腰には素人離れした雰囲気があった。江上と潤を認めると、金は片手を上げて声をかけた。
「エガさん、嬉しいね、今日は子連れかい」
「ああ、紹介するよ。俺の息子の潤」

江上はヤマトと香夜に潤を紹介すると、松崎に軽く会釈し、黒とモスグリーンのツートンカラーのソファに座った。松崎は自分の横に来た潤に言った。
「バンビちゃん、めずらしいじゃない、こっちに来るなんて」
「うん、ちゃんときたのはじめて」
「いつもは、潤ちゃんはおつかいだもんな」
追加のグラスと氷を運んできたオーナーの伊丹が、意味深に笑いながら口をはさんだ。
「おつかいって何?」
ヤマトが聞くと、伊丹はあっさり答えた。
「運び屋だよ。な」

潤は時々、「ブラディシープ」から「ヤプウ」まで、ナベや江上にたのまれてドラッグの運び屋をやることがあった。たかだか500mの距離だし、未成年の潤なら捕まっても大した罪にはならない、いざとなったら「知らない人に頼まれた」で押し通 せばいいと言われ、1回につき500円程度のこずかいをもらっていた。オーナー自らが内情を暴露するような軽口を叩くのを聞いて、やはりこの店は自分の肌に合わないと感じたが、潤は話題を変えるそぶりで伊丹にたずねた。
「シゲオさんて最近来た?」
「ああ、2、3日前に来たよ。犬に追いかけられたとか言って、あわてて飛び込んできてドアに頭ぶつけてさ。しかしほんとかね、女にでも追いかけられたんじゃないか?」
ドッと笑ったテーブルの客と一緒に潤も笑ったが、周囲より笑い過ぎないように押さえるのに苦労した。

 

 

「まあ、シゲオちゃんのことは置いといて、とりあえずそろったところでカンパイしようや」
香夜の作った水割りを行き渡らせると、金がグラスを上げて乾杯し、雑談がはじまった。ヤマトと香夜の関心はもっぱら初対面 の潤にあるようで、潤への、松崎のあいさつがわりの口説き文句が一段落すると、さっそく話しかけてきた。
「ほんとに江上さんの子なの?ぜんぜん似てないね」
「だってうそだもん」
「金さんとはどういう知り合いなの?」
「なんかの打ち上げでちょっと話したことあるだけ」
「君はどこかの劇団に入ってるの?それとも誰かのファン?」
「…なんも、やってないです」

さぐりを入れられるのが嫌になったのと、アンフェタミンが効いているので興味のない話に答えるのが面 倒になり、潤は下を向いて黙り込んでしまった。エフェドリン同様、アンフェタミンも覚醒剤の原料で興奮作用があるが、最近の潤は、アッパー系の薬物を服用しても単に疲れがとれて軽い高揚感が得られるだけの状態になっていた。また、服用中はセックスでのエクスタシーに似た感覚が暖かく皮膚に広がったような陶酔感があるので、潤はその感覚にひたっているほうが好きだった。

うつろな表情で気のきいた返答もしない潤を見て、ヤマトと香夜は、とりあえず自分たちの敵ではないと安心した。上下関係が厳しく、才能や努力だけでなく人間関係のもつれでも人の出入りの激しい演劇界で、同業者は常に敵であり、とくに新顔は警戒されたのだ。しかし、金の冗談がまたふたりに緊張感を与えてしまった。
「俺、考えてたんだけどさ、潤ちゃんに学生服着せて日本刀持たせて舞台に乱入させるのってどう?」
「いいね、それ。山口二矢少年の再来っぽくね」
「なにそれ」
金に相槌を打った江上に潤がたずねると、江上は我が意を得たりといった顔で答えた。
「昔、潤ちゃんみたいに頭のおかしい右翼の少年がいてね、当時の社会党の委員長を刺し殺しちゃったんだよ。山口が使ったのは短刀だけど、演説してる壇上でね」
「なんだそれ」
説明を続けようとした江上より先に、今度は金が身を乗り出してきた。
「山口二矢は、まあ、ある種の象徴だよ。ああなると主義思想とは別に、美学というか、色気があるよね。前に潤ちゃんとちょっとしゃべった時にわいたインスピレーションなんだけどさ、そうだな、乱入しなくても、舞台のソデに立たせとくってのもいいな」
「馬鹿みたい。そんなことしてるヒマがあったら、バイト探す」
「バイト?探してるの?」
「うん」
「じゃあ、うちの美術のタタキやんない?ああ、でもダメだな、その体じゃ」
「なんで?」

タタキとは舞台装置や背景などを作る力仕事のことで、ギャラだけでは食べていけない役者たちは体力トレーニングを兼ねてイベント会場の設営などのタタキ仕事を副業にしていることが多く、自分たちの舞台作りはたいてい無償で内輪だけでまかなっていた。しかし、それだけでは間に合わない大がかりな企画には、外部から人手を雇うこともあった。金は、テーブル越しに腕を伸ばすと、腕相撲の体制をつくって潤に言った。
「テストだ。来い」
潤がその手をつかんだ時点で、あまりにも違う筋肉や腕の太さに失笑が起きたが、合図と共に、潤は全力で金の腕を倒そうとした。しばらくの間、金はニヤニヤしながら潤のするままにさせていたが、やがて大袈裟に負けそうなそぶりをしてみたり、もう少しで潤の手の甲がテーブルにつきそうになるくらいまで追い詰め、そうなっても本気で悪戦苦闘している潤が気の毒になって、ようやく決着をつけた。

「ああーん、もっかいやって!」
負けたとたんに甘えた声でせがんだ潤を金はマジマジと見つめたが、テーブルにまた肘をつくと、今度は子どもでもあやすようにやさしく言った。
「よし、じゃあ、ハンデあげよう。両手でやってごらん」
目を輝かせて素直に両手で再チャレンジする潤に、金は最初から本気でかかり、あっというまに勝敗が決まった。あきらめが悪く最後まで手を放さなかった潤は、勢い余って倒れ込みそうになり、グラス類を守ろうと急いで体を支えた江上に寄りかかったまま、天井を仰いで笑った。
「ああ、負けちゃった。あはは」
「なんか潤おかしくないか?」
「ラリってんだよ、いつもどおりでしょ」
心配した松崎に江上が言うと、松崎も納得して水割りをあおった。
「いつもどおり、ね。じゃあ俺らも負けないように飲まんと。香夜ちゃん、おかわり作って」
香夜は、松崎のグラスを受け取ると薄笑いを浮かべて言った。
「潤ちゃんて面白い子ね。いつもこうなの?さっきの山口二矢、使ってもらいなさいよ。舞台デビューにはインパクトのある役柄じゃない」
「いや、やる気ないんだろ。馬鹿みたいって言ってたじゃん。金さんのアイデア」
「カリカリするなって。本人聞いちゃいないよ」
香夜の嫌味に便乗したヤマトに返すと、金はタバコの箱をやぶいた裏に地図と連絡先を書いて、自分をはさんで会話する江上と松崎の間でボンヤリしている潤に差し出した。

「ホラ、潤ちゃん」
「なに?」
「バイト。秋に、深沢の取り壊し寸前の廃屋使ってイベントやるんだよ。力仕事は無理そうだから、雑用やってもらう。そのかわり時給400円だ」
「マジかよ。いくらなんでも安すぎない?」
「贅沢言うな。交通費と弁当は出すし、時間の融通はきくし、君にピッタリだろう。夏休み入ったら連絡して」
「あやしいな、金さんも潤のこと狙ってたりして」
「まさか」

松崎は金を挑発するように潤を抱き寄せると、これ見よがしに髪をなでながら言った。
「バンビちゃん、気をつけないと、あのおじさんにやられちゃうよ?パパとどっちがいい?」
「おいおい、潤のパパは俺だろうが」
江上がふざけて言うと、香夜がシラけた口調で水を差した。
「何人パパがいるんだか」
「潤ちゃんに決めさせよう」
香夜を無視して松崎は言うと、潤にいきなり覆いかぶさってキスをした。潤は何が起きたのかわからずにしばらくされるままでいると、酔った松崎は舌まで入れるディープキスをしてようやく唇を離し、ポカンとしている潤を江上にあずけた。江上は「まいったな」という表情をしたが、やはり潤を抱きしめると松崎に負けじと長いディープキスをして、ふざけ半分で途中から胸をまさぐってきた。

「おい、勃起しちゃってるよ」
ヤマトの声に皆が注目すると、潤の股間はズボンを持ち上げて半起ちになっていた。その様子に笑い声が上がると、潤はあわてて江上から離れ、何か言い訳をしようと周囲の連中を見回したが思いつかず、どうにもならなくなってテーブルに突っ伏して泣き出した。江上も松崎も、ふだんは平気で自分たちの冗談につきあっている潤が、この程度の悪ふざけで泣くとは思っていなかったので代わるがわるなだめたが、潤はますます激しくしゃくりあげる一方だった。

 



 

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