「ごめんなさい」
彼女から背を向け、枕に顔を押しつけながら潤が言った。体を起こし、しばらく咳き込んで呼吸が整うと、彼女は冷たく言い放った。
「警察を呼ぼうかしら」
「そうしてください。そのほうがラクだ」
「この状況じゃ、痴話喧嘩ですまされるのがオチね。なんでこんなことするの」
答えられずに嗚咽する潤をしばらく眺めてから、彼女はため息をついた。
「あれが自爆モードってやつね。巻き添えにされるとは思ってもみなかったわ。わかってて関わった私も悪いけど、こんなことしてたら、あなたほんとにダメになるわよ」
「もうしません」
「はあ…、いつも同じね。キレては暴れて、あやまって、落ち込んで、それを私がなぐさめて。現実だとこうなるわけだ。やっぱりバーチャルから出るべきじゃなかったわね」
バーチャルでも、彼女にはもう会えないだろう。潤は絶望して、言い訳することもできずに、ただ泣いていた。みっともないとは思ったが、どうすることもできなかった。しかし、彼女は潤の背中を叩くと言った。
「メソメソするんじゃないわよ。しょうがない、乗りかかった舟だわ。泣くならこっちに来なさい」
意外な言葉に驚いたが、泣き顔を見られたくない潤は、そのまま動かず片腕だけを彼女のほうにのばした。それはちょうど彼女の手にふれた。
「君、ちょっと痩せすぎだね。ちゃんとごはん食べてるの?」
彼女は潤の手をとり、何気なくもてあそびながら続けた。
「何が好きなの?朝からサバラン2コ食べて気持ち悪くなっちゃったってメールくれたことあったね。ケーキ好き?」
「…うん」
「じゃあ、帰ったら、ケーキ食べること。それから、音楽の話になると熱くなって、いつも長いメールよこしたね。日本にギター置いてきちゃったって?こっちで買うのに貯金してるって言ってたわね。安いのでいいから、さっさと買いなさい」
「わかりました」
「見てごらん」
うながされてようやく振り向くと、彼女は自分の手を示した。白く細い指先の、長く形を整えた爪に、赤いマニキュアがほどこされてあった。
「綺麗でしょ。すぐ剥げちゃうし、塗ると乾くまで指を使えないから、綺麗にしておくの、けっこう大変なのよ。でも、なんでマニキュアするかわかる?」
「ぜんぜん、わかんない」
「楽しいのよ、自分が綺麗になることが。マニキュアしたり、お化粧したり、ほら、こういうアクセサリーつけたり」
夕方窓辺で見たエメラルドの指輪が、彼女の指で輝いていた。
「エメラルド大好き。綺麗でしょ?この緑色見てると、心が落ち着くの。それを身につけてる自分が大好きなの」
「…俺も昔、小さいエメラルド、ピアスしてた」
「バンドやってたころ?じゃあ、おそろいね。ずいぶん悪さしたみたいだけど、そういうことだって、いつか笑って思い出せるようになるのよ。私だって、悩んだりつらかったこと、たくさんあるよ。でも、自分を嫌いになったことは一度もない。自分に負けるなんて、いちばんみじめで悔しいことよ。だからささいなことでも楽しみを見つけて、自分を好きになるの。これも生きるための努力なのよ」
「夜の、森の中みたいだ」
潤は彼女の指輪を見つめてつぶやいた。それは暗いオレンジ色の照明に反射して、深い夜の森のうっそうとした葉の間から星空を見上げているような風景を連想させた。彼女は潤の言葉を聞くと、微笑んで言った。
「ふうん、君のエメラルドは夜の森なんだ。見ててごらん、朝になったら私が魔法をかけてあげるから。それまでは…、そうね、夜が明けるまで、だっこしててあげようか」
すがりついた潤を、彼女は優しく抱きとめた。そして、夜が明けた。
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ホテルの玄関を出ると、降り続いていた雪はすっかり止んで、抜けるような空に冷たく清浄な大気が満ちていた。積もった雪は真っ白く輝き、時おり風にまじって、ビルの間をキラキラと舞った。黒いロングコートを着た彼女の顔は襟についたフォックスの銀色の毛皮にひきたてられて、強い意志とはっきりした主張、そして欠点でもあるが、ともすると気取って冷たくも見える顔だちを可愛らしく柔らげるエッセンスでもある、人の良すぎる明るさをそなえていた。この特徴は、彼女を男だと思い込んでいたころに潤が憧れた部分でもあった。自分と正反対だからこそ、彼女との対話でわかりあえない苛立ちはあっても、闇から目をそむけることができたのだ。
綺麗にメイクした彼女は、潤を見て笑った。
「あーあ、ひどい顔してるよ。ボクは泣きました、弱虫ですって、家に着くまでみんなに言って歩くのね。ま、日本に着いたらまたメールするし、掲示板にも顔出すから、その時までには何とかしておきなさいよ」
「うるせえ、化粧ババア」
「元気になるとこれだ。中間ってものがないのね、君には。でも、私は君の弱味をいっぱい握ったから、もうあんまり頭にも来ないわ。どうやって料理するかのほうが、今のところ楽しみね」
ゆうべのことを思い出し下を向いた潤に、彼女は言った。
「さて、そろそろ、へこんでる君に魔法をかけてあげようか。ほら、こうして見たら、森は朝になるのよ」
林立するビルの屋上から上がるセントラルヒーティングの蒸気の中をカモメが飛び交い、やわらかく白い光が氾濫する朝の空にかざしたエメラルドの指輪の中で、生命にあふれた春の森が息づいていた。幾重にもかさなる葉影から差し込む木漏れ日は、プリズムを通
過したような光彩をまき散らし、ささやかだが永遠の強さを持つ祝福の歌をうたっているようだった。
「ね?君が迷子になってる夜の森だって、こうすれば朝になるの。道はきっと見つかるわ」
到着したタクシーのトランクに、ベルボーイが彼女の荷物を積んでいる。身軽になった彼女はコートのポケットに両手を入れて、大人の口調で言った。
「毎年、この時期になると仕事でニューヨークに来るの。それに、面白いオモチャができたから、プライベートでもまた来るわ。私、ニューヨーク大好きなの。テロがあってもなくてもね。君も、男ならゆうべの名誉挽回しなきゃ。私、待ってるよ」
名残惜しさで潤がコートの腕を掴むと、彼女は明るく微笑んだ。
「もう行かなくちゃ。すぐにまた会えるし。私、後悔してないよ。君のことも好きだよ」
「俺だって大好きだよ。ゆうべはごめんなさい。またネットで会おう」
「現実でもね」
ベルボーイにチップを渡すと、彼女はあっさりとタクシーに乗り、窓を開けた。
「じゃあ、ぼうや、俺は行く。また会おうぜ」
去っていくタクシーを見送りながら、潤はつぶやいた。
「…俺って、ダサダサ」
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貿易センタービルの跡地には寄らずに帰った。家に着いた時にはもう正午をまわっていた。日本から来る友人に会いに行くとは言っておいたものの、一晩帰らなかったことを心配して、ドアを開けるなり母親が飛び出してきた。そして、リビングに行くと、当然仕事に出かけたと思っていた父親がソファに座ってCNNのニュース番組を見ていた。父親は、潤の姿を見ると、リモコンでテレビを消してから言った。
「泊まる時は連絡ぐらいしなさい。彼女でもできたのか?」
それから立ち上がりコートを羽織ると、そのまま出て行った。潤は、連絡をしなかったことは遅かれ早かれしかられると覚悟していたので、拍子抜けしたような気持ちで父親の後ろ姿を眺めていたが、父親がいなくなると母親のグチがはじまることがわかっていたので、早々に自室へ入り、彼女にメールを打った。
Subject:さんきゅー
いまごろおまえは飛行機の中だな。テロられて飛行機落ちちゃえばいいのに。
俺はいま家に戻ったとこ。超寒かった!ケーキなかったから、チョコレート食べる。
ゆうべはいろいろごめんね&ありがと。
帰り際にまた会おうって言ってくれた時、すごくホッとしてうれしかったよ。
ほんとにまた会えるといいな。バーチャルならすぐ会えるけどね。
バーチャルでも、会う時は春の朝の森で会えるように、がんばる。
俺にはおまえしかいないんだ。
粘着されてキモイかもしれないけど、これからも、仲良くしてください。
あと、名前、潤です。次に会う時は名前呼んでください。
PS.ゆうべのことを忘れないうちにこれから抜くぜ。マニキュアのお手てで応援よろしく!!
メールを送信したあといつもの掲示板を見に行ったが、いるはずのない彼女のハンドルネームを探している自分に苦笑して、すぐに回線を切った。そして、ベッドに寝そべると、今日からは顔も性別
も声もある、現実の彼女と一緒に眠るのだと、自分に言い聞かせた。
▼
親父へ
あんたが俺を憎むのは、自分が憎いからだ。あんたが俺を見放すのは、自分から目をそむけたいからだ。俺たちはそっくりだよ。因果
な自分をもてあましてるんだ。テロのことは、ほんとはいちばんの問題じゃなかったんだ。おまえを道連れにして、何もかもぶち壊したかっただけだったんだ。いまも、俺はチャンスをうかがってる。でも、おまえじゃなくたって俺をわかってくれる人ができたから、おまえのことなんて、もうどうでもよくなった。
なんだかんだ言いながら、あんたが俺を監視するのは、俺を愛してるからだ。俺は、お父さんみたいになりたくて勉強してたんだ。テロの妄想から抜け出すために勉強しまくったのは、ずっとお父さんに勉強しろって言われてたから、最後にお父さんのことを信じてみようと思って、そうしてたんだ。いま、やっと、世界からテロがなくなるためにはどうしたらいいかってところを勉強してるんだよ。テロリストになって、かっこよく消えちゃいたかったのに、いまはテロリズムに勝つための方法を考えてる。でも、むずかしくて大変だから、お父さんも一緒に考えてくれたらいいのに。
俺たちは、頭を冷やすべきだ。それから、おたがいに依存するのをやめよう。素直にお父さんって呼びたいから、こんなに苦しんでるんだよ。もう少しがんばってみるから、お父さんも俺を助けてください。テロに負けたくない。
潤
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