部屋に戻ったサイードはしばらくバンダナを見つめていたが、こみあげてくる不安と恐怖をどうしてもおさえることができなかった。「何も考えるな」と自分に言い聞かせたが冷や汗と震えが止まらずに、ベッドの上で丸くなりただ時間が過ぎることを祈った。アーメッドは今頃どうしているんだろう。あいつはこんな時でもいつものように平然としていられるのだろうか。
サイードがアルナミの部屋を訪ねようか迷っていると、ドアがノックされ、そこには当の本人が微笑んでいた。
「お見舞いに来てやったよ。どうせ怖じ気付いてると思って」

アルナミは部屋に入ると窓のそばに立ち、街の灯を眺めながらつぶやいた。
「きれいだな、この国は壊されたことがないんだ」
「アーメッド、いまどんな気分だ?」
「べつに。ふつうだよ」
「……俺はこわいよ。俺は立派にやりとげることができるだろうか」
「できるもなにも、やるしかないだろう」
「見てくれよこれ、止まらないんだ」
差し出された震える両手を見ると、アルナミは自分の手で包んだ。
「馬鹿だな、サイード、後悔してるんだろう。ひどいありさまだ」
「何とでも言ってくれ、ひとりでいるよりよっぽどマシだ」
アルナミはしばらく黙ってサイードの手をこすってやっていたが、ふと小さなため息をついて言った。
「…じゃあ最後に、おまえが聞きたがってた弱音を吐いてやろうか。じつを言うと俺の動機は不純なんだ、たぶん……天国へは行けない」
サイードにはもうわかっていた。こいつはただ、何もかもぶちこわして消えちまいたいだけなんだ。アルナミはサイードの瞳をじっと見つめながら次の言葉を続けた。

「……何千年も何万年も暗闇をさまよって、もしも許される時が来たら、サイード、おまえの言ってた理想郷で俺を迎えてくれるか?」

サイードはさっきまで震えていた手をふりほどくと、アルナミをかたく抱きしめて答えた。
「あたりまえだ。アーメッド、理想郷で、いっしょに生きよう」

 

 

彼らの飛行機は2001年9月11日の朝8時42分、ニューアーク空港を離陸した。シートベルトを締める時、アルナミはズボンのポケットに何か固いものが入っていることに気づいて取り出してみると、それは以前に老婦人がくれたオレンジ色のキャンディーだった。ずっとポケットに入れっぱなしで忘れていたために、キャンディーは溶けかけてセロファンに滲んでいた。アルナミはそれを床に落として捨てると、足下に置いた手荷物のデイパックから小さなカッターナイフを取り出してポケットに移し、額にバンダナを巻いた。

機体が安定しシートベルトのサインが消えると、客室にジャラヒの大声が響いた。
「アラーに栄光あれ!これはジハードだ!」
前方の席にちらばっていた彼らはいっせいに立ち上がり通路に躍り出ると、凍り付いた乗員乗客にナイフをふりかざして口々に叫んだ。
「全員後ろの席へ移れ!早くしろ!」

アルナミは手近にいた客をかたっぱしから後ろへ追いやると、最後にあわてふためいている中年の男性客のスーツをつかまえて引き寄せ、一瞬で喉を掻き切った。
「いいか!抵抗するとこうなる!おまえも死にたいか!?」
崩れ落ちた男性客をシートに突き飛ばすと、次に座ったまま恐怖で動けなくなっている老婦人を引きずり上げその首にナイフを押しあて、後方に追い立てられた乗客たちを見回してわめいた。
「座れ!座れ!シートベルトをしめて動くな!もたもたするな!こいつを見ろ!」
そして老婦人を背後から抱え見せしめのように高くもちあげると、ふたたびためらいもなく喉を切り裂き、死体を通 路に投げ出した。
「このババアより前に出たら同じ運命だ!ざまあみろ!悪魔ども!」
それから反対側の通路に立ちすくんでいるサイードに向かって叫んだ。
「サイード!早く!そっちもふさげ!サイード!」
動転して足が踏み出せないサイードに、アルナミの声が響いた。
「思い出せ、おまえは英雄だ!アラーに栄光あれ!アラーに栄光あれ!」

サイードは突き動かされたように手前にいた乗客をつかまえると、ほとんど悲鳴のようにアラーの名を叫びながらアルナミのやったようにナイフで切り付け、死体で通 路をふさいだ。
「いいぞ、サイード!天国への扉は開いた!」
恐怖に包まれた機内にアラビア語なまりの英語でアナウンスが流れた。
「こちらは機長。当機はハイジャックされました」
乗客をナイフで牽制しながらアルナミは叫んだ。
「やった!ジャラヒ機長だ!飛行機をうばったぞ!」

アルナミは悪魔の持ち物の真っ赤なバンダナを額に巻き、返り血を浴びて、笑っている。… こいつは、今までこんなに生き生きとしていたことがあったか?
「サイード、ラクショーだったな!いつかまた会おう!」
……アーメッドは、悪魔だ。サイードはナイフを握りしめ血に染まった自分の手を見、その先に並ぶ、おびえて泣き崩れる乗客たちの顔を見た。やがてそこに、故郷で餓え苦しみ戦火から逃げまどう人々の姿が重なり、いつのまにかアルナミが無心に祈りを捧げていることに気づいた。

…俺は…………。

突然、客室の後方で轟音が鳴り響き付近にいた乗客たちが吹き飛ばされた。機体は激しく揺れ、異常事態を知らせる無機質な警報と、悲鳴、アラーの名を呼び続けるアルナミの声。しかしそれもすぐに灼熱の霧に巻き込まれ、すべては無になった。

 

 

その日から、世界は変わった。ニューヨークの世界貿易センターの南北2つのタワー、ワシントンDCの国防総省に、ハイジャックされた3機の旅客機が次々と突入し、アメリカはその誇りである経済と力の象徴を失った。そして、最後の1機、ニューアーク空港から飛び立ったフロリダ行き93便は、ペンシルバニア州ピッツバーグの林野に墜落した。ハイジャックの通 報を受けた米軍のスクランブル機が追跡していたとの報道はあったが、墜落の原因が明らかにされることはなかった。

すべての犯行はアルカイダによるものとして、その首謀者であるウサマ・ビン・ラディンを匿うアフガニスタンのタリバンへの報復攻撃が開始された。長い戦乱で傷ついたサイードの故郷の大地はさらに傷口をえぐりとられ、タリバンは追い詰められたくさんの若い兵士が虐殺された。しかし彼らが衰退すれば別 の勢力が取ってかわるだけで、人々の祈りは爆音と銃 声にかきけされ、今だ神には届かないのだ。

ただひとつ、彼らの「殉教」によって、今までふさがれていた世界の目はイスラムと悪魔の戦いを直視することになった。彼らの「自殺」によって、世界は平和が病んでいたことを知った。そして彼らの「罪」によって、世界は悲しみ血を流した。

アフガニスタンのキャンプを訪ねて来たあの男の約束どおり、サイード・アルガムディは名を残した。

 



2001.11.27■■

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