逃げ腰になって厨房で煙草を吸っていたユキがむせて咳き込んだ。潤はめんくらってどう答えてよいかわからずとっさに席を立つと、カウンターに皿を戻しながら、まだむせているユキに言った。
「じゃ、じゃあユキさん、俺帰るわ、ごちそうさまでした。お姉さん、そんなの冗談に決まってるじゃん。本気にしちゃダメだよ。それに俺はフェラチオなんかしないよ。クンニならしてもいいけど。あれ?何言ってんだ。とにかく帰ります。なんだか知らないけど、すみませんでした」
「待ちなさい。逃げる気?」
「いや、そうじゃなくて、ほら、制服だから遅くなるとまずいんです」
「くやしい、今日こそ別れてやる」

あわててリュックを棚から取り出して店を出ようとドアを開けると、数メートル離れた線路沿いの電柱の陰にシゲオが立っていた。シゲオは潤の姿を認めると、人さし指を唇にあてて手招きし、後ろを気にしながらそっとドアを閉めて近寄った潤に小声で言った。
「朝美、来てる?」
「うん、来てる」
「どんなかんじだった?」
「激ヤバ。殺されるかもよ」
「やっぱり…。どうしよう、なあオイ、ゆうべだって…見てよこれ」
Tシャツをめくりあげたシゲオの胸元に、数本の引っ掻き傷がみみず腫れになって残っていた。

「シゲオ!」
突然の金切り声に驚いた二人が同時に店の方を見ると、朝美が店のドアを閉めかけ走り出そうと構えたところだった。
「やべえ!逃げるぞ!」
潤の腕をわしづかみにしたシゲオは全速力で走り出し、潤もわけのわからないまま必死で走った。路地を曲がりながら振り向くと、細いハイヒールをはいた朝美はだいぶ遅れをとっていたが、それでも追い掛けるのをあきらめる様子はなかった。行き当たりばったりに角を曲がりながら、ようやくビルとビルの間の狭い隙間に身を隠すと、二人はしばらく体をかがめて息を整えなければならなかった。

「…ダメだ、…俺、死にそう…」
「若いのに、……何を……、俺も、…死にそう」
自分たちのマヌケぶりに、まだ息苦しいのに笑いがこみあげてきて、ふたたび落ち着くのにもう一苦労すると、潤はカビ臭く湿ったビルの壁によりかかって言った。
「なんで俺までこんな目に合わなきゃいけないんだよ」
「ゴメン、ごめんなさい、こないだのガンジャのツケは帳消しにしますから」
「そんなんじゃ足りねえよ。見ず知らずのお姉さんにあんなに嫌われてさ。どうして俺にフェラチオさせたいなんて言ったんだよ」
「あ、あいつ、そんなこと暴露したのか」
「だいたい、シゲオさんが悪いんじゃないか。浮気したり、生活費を使い込んだり、お姉さんをぶったり」
「まじかよ。ああー、全部バレてる…」

シゲオは両手で頭を抱えると、地面に崩れ落ちるように座り込んだ。潤はシゲオを見下ろしながら、弱味を握った余裕の冷たい口調で言った。
「シゲオさん、ヒモなの?」
シゲオは頭を抱えたまま、情けなくかすれた声でつぶやいた。
「…ああ、そのとおり、俺はヒモだよ。笑ってくれよ」
「なんでヒモのくせにお姉さんをぶったりしたんだよ」
「ぶってねえよ、頭を軽くはたいただけだ」
「でもショック受けてたよ」
「大袈裟なんだよ、あいつはお嬢様で箱入り娘だから」
「へえー、そんな人、どうやってつかまえたの?」

シゲオは潤を見上げると、制服のすそをひいて、自分の横に座るようにうながした。そして、並んで座った潤を見て意味深に微笑むと、親指を立てて自分の股間を示した。
「これだよ」
「…すごいの?」
「ああ、はっきりいってスゴイ。見るか?」
「うん」
好奇心をむき出しにして素直に答える潤に、シゲオは一瞬笑ってしまいそうになったが、真面 目な顔をつくってズボンのチャックを空け、問題のブツを引き出した。
「…すげえ……」
「な?デカくなると、もっとすげえんだ。でかくしてみようか?」
「うん、してみて」
「してみてもいいけど、その後の処理はどうする?フェラチオしてくれるの?」
「やっぱ見るのやめる」

ようやく自分がおかしな返答をしていたことに気がついた潤が赤面 して立ち上がると、シゲオも笑いながら立ち上がり、露出したままのそれを握って潤のほうに向け、腹話術のマネ事のような声を出して言った。
「ナンデヨー、リッパニナッタボクチャンヲミテヨー、ジュンチャンテバー」
「やめろよ、キモイよ」
半分笑いながら逃げ腰になる潤に、シゲオはにじり寄って悪ふざけを続けた。
「ボクチャンニチューシテー、ハヤクオトナニシテー」
「あははは」
奥まったビルの隙間の行き止まりまで潤を追い詰めると、シゲオは両手で自分のものを握ったまま体重をかけてのしかかってきた。
「やーべー、ふざけてたら起ってきちゃったよ。でもしょんべんもしたい。どっちにしよ」
「さっさとしょんべんしてもう引き上げようよ、俺、まじで帰らないと補導されちゃうよ」
「おっと、それもそうだ。悪い」

シゲオは潤から離れると、背を向けて用を足しはじめた。潤が通 りに顔を出してしばらく様子を伺っていると、スッキリして戻ってきたシゲオが潤の陰に隠れて聞いた。
「もう大丈夫そうか?」
「わかんないけど、朝美さんは見えない。たぶん大丈夫じゃない?じゃあ」
帰りかけた潤の制服の詰め襟をシゲオがつかんだ。
「もう少し協力たのむ。俺、今晩は帰れないからヤプウで飲むことにするわ。場所わかる?」

 

 

「ヤプウ」とは「ブラディシープ」の常連達がハシゴする時に使う、同じ下北沢のクラブだった。「ブラディシープ」から500m程離れたその店は、どちらかというと音楽関係者より映画製作会社の関係者や脚本家、舞台俳優、舞踏家などが集まり、潤も何度か行ったことがあるが、白と黒のチェッカーフラッグのような市松模様で統一した店内にわざとらしくサイケデリックアートを並べた気取った内装や、議論好きですぐに客の話に割り込んでくるオーナーにシラケて、さそわれても断ることが多かった。しかし、「ブラディシープ」とは共通 の客が多いので、夜通し飲み歩く大人たちにとっては都合のいい条件のクラブだった。

「場所はわかるけど、ヤプウはまずいんじゃない?朝美さん探しにきちゃうよ」
「大丈夫、あいつはまだ連れてったことないんだ。でさ、俺、ここにいるから、ちょっと実況中継してくれない?」
シゲオが年季の入った米軍放出品のショルダーバッグに入れていた自分の携帯電話を取り出し潤の番号を呼び出すと、すぐにズボンの後ろポケットでバイブが振動しはじめた。潤はそろそろ面 倒くさくなってきたが、仕方なく着信ボタンを押した。
「はい」
「あー、シゲオです。面倒かけてすみませんが、おうちに帰るついでにちょこっとヤプウの前を通 ってみてほしいんですね。それで、道中、怖いお姉さんがいないかどうか報告してほしいんです」
「報酬はおいくらでしょうか」
「報酬は、体で払います」
「体はいりません、じゃあ、さようなら」
「待って下さい。アシッド1枚で手を打ちませんか?」
「了解しました」

さげすみを含んだ表情でシゲオに一瞥すると、電話をつなげたまま潤は歩き始めた。
「えー、いま、10mくらい歩きました。異常なしです」
「こちらからも見えます。後ろ姿も可愛いですね。今度掘らせてください」
「別件は却下です」
「ずいぶん冷たいですね。残念です」
「角曲がります。異常ありません。いまのうちにシゲオさんも移動しておいたほうがいいと思います」
「ラジャー」

商店街の角を曲がりかけたところで待つと、急いでビルの隙間から駆け出してきたシゲオが見えた。電話口からハアハアと荒い息が聞こえるのが、まぬ けでおかしかった。シゲオが追い付き、近くの雑居ビルの入り口に隠れると、潤はふたたび歩き出して仕事を続けた。
「焼き鳥の匂いがしてきました。居酒屋さんでお父さんたちが飲んでます。毎日お仕事お疲れさまです。あ、古着屋のお兄さんがまたお客さんをナンパしてるみたい。こっちに気づきました。あいさつしてます。シゲオさんは見られないように気をつけてください」
「ラジャー」
「右折します。もうすぐヤプウです。店の少し先に行って様子見てから報告します」

明るい商店街の路地を入ると、小さなバーが2、3軒並ぶ薄暗い道になった。銀の看板に「矢風」と仰々しい筆文字で書かれた店の、アルミのドアに空いた小さな覗き窓から店内を見渡すと、潤はその先の店の前に出された大きなトーテムポールと観葉植物の陰に隠れてシゲオに指令を送った。
「異常なしです。突入してください」
少し待つと、何度も後ろを振り返りながらシゲオがコソコソ路地に入ってきた。そのオロオロぶりがおかしくなり、潤は深呼吸すると、切迫した口調で叫んだ。
「あっ!朝美さんだ!!」
直後に電話を切ると、携帯電話を落とさんばかりにあわてふためいたシゲオが「ヤプウ」のドアに飛びつき、勢いあまってコメカミをドアの端にぶつけながら店に飛び込んだ。潤はしばらく笑いが止まらずにその場で身悶えていたが、そのまま歩いて駒場のマンションに帰った。

 



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