「ストッキング、脱いじゃえば?」
膝をさすりながら静かに泣いている朝美に声をかけると、朝美は拗ねた子供のように答えた。
「嫌よ、ゆうべお手入れしなかったから」
「だいじょうぶだよ、夜だから。どっか途中で買って、パセオではけばいいじゃん」
「嫌、あんたのまえで脱ぐなんて」
「平気だろ。俺子供だし」
「都合がいいのね、男なんじゃないの?」
「どのみち、人の彼女になんか興味ねえよ」

ムキになっていきなりストッキングを脱ぎはじめた朝美を見て、潤は「この人の操縦法がわかった」とばかりにニヤついて、寝そべったまま短くなったジョイントをもう一服してコンクリートの床で火を消し、ふたたび胸ポケットにしまい込んだ。朝美は脱いだストッキングを丸めてバッグに入れると、足をのばして言った。
「ああ、気持ちいい」
「でしょ?ね、こうしてみな。もっと気持ちいいよ」
両腕をあげて潤が伸びをして見せると、それまでスカートのすそが地面につかないように気にしていた朝美も開き直ったのか素直に仰向けに寝そべり、伸びをした。

「ここ、いい場所ね。よく来るの?」
「うん」
「私もたまに来ようかしら。いい?」
「いいよ」
「急におとなしくなったわね。そのヘンなタバコのせい?」
「んー」
「あきれた」
「手、つなごう」
「何よ、人の彼女には興味ないんじゃないの?」
「さっきみたいなつなぎ方でいいよ」

夜空を眺めながら朝美のほうに手をのばし、細い指先をさぐりあてると、そのまま握って潤は目を閉じた。ノブや松崎の手と違う華奢なやさしい感触が、蒸し暑くけだるい空気を払い、潤は黙ったまましばらく朝美の体温にひたっていた。朝美はまだときどき小さく泣いているような息づかいをして、空いているほうの手を何度かまぶたに運んでいたが、そのうち落ち着いたらしく、穏やかな声でつぶやいた。

「…ほんとね、お星様に抱かれてたら、ひとりぼっちでもさみしくないかもね」
「でも、遠すぎるよね。機嫌直った?」
「あら、いちおう気を使ってくれてたみたいね」
「あたりまえじゃん。ねえ、怒ったり泣いたりするのに、どうしてシゲオさんが好きなの?デカチンだから?」
「バカ!」

朝美はつないでいた手をふりほどくと、潤のひたいを軽く叩いた。それから少し考えてつぶやいた。
「…でも、そうよね。どうしてかしら。ぜんぜんタイプじゃなかったのに」
「シゲオさんと、どこで会ったの?」
「仕事。私、輸入会社の社長秘書やってるの。シゲオのCDジャケットの撮影で、うちの商品貸したんだけど、それ壊されちゃったのよ。それでマネージャーとコーディネーターと一緒に、シゲオが律儀にあやまりに来たの」
「へえ」
「その商品、なんだと思う?アンティークのセルロイドの人形よ。戦後にアメリカが日本の女の子にってたくさんプレゼントしたやつ。プレミア品なんだけど、照明でほっぺのところがちょっと溶けちゃったの」
「ああ、そのCD持ってる。シゲオさんのおばあちゃんの歌が入ってるんだ」
「さみしい歌ね。進駐軍相手に体を売る女の子の歌」
「そういうのにほだされたの?」
「ちがうわよ。シゲオは殊勝にあやまったあと、社長室出たとたんに私にしつこく携帯番号聞いてきたの」
「あはは、シゲオさんらしいね。で、けっきょく教えたんでしょ?やっぱり気があったんじゃん」
「ふだんなら絶対そんなことしないのに。シゲオのペースに乗せられちゃったんだわ」

潤は、いつも怪しげな手伝いをさせられるハメになっている自分の状況を思い出して、朝美の言葉に納得して言った。
「シゲオさんって不思議な人だよね」
「そうね。ほっておけないのよね、なんだか正直すぎて。人形だって、シゲオまであやまりに来ることないのに、自分からソンするタチなのよね」
「でも、トクもしてんじゃん。正直に下心丸出しで番号聞いたおかげで、朝美さんを彼女にできたんだから」
話には同感だったが、シゲオに軽い嫉妬を覚えた潤は続けた。

「ちぇ、デカチンはトクだよな。つまんねえの。そろそろ行こうか」
「ふん、だいたいシゲオに言われた筋書き通りの時間になったってとこかしら?」
潤は答えずに苦笑いをしながら先に石畳に飛び下りると、ハイヒールとハンドバッグを受け取り、柱の角に腰掛けた形でモジモジしている朝美に両腕をさしだした。細身だが女性にしては長身の朝美を抱きとめると、2、3歩よろめいたが、何とか無事に下へ降ろし、潤は言った。
「胸、あんまりないね」
朝美は受け取ったハンドバッグで潤の背中を思いきり叩いたが、そのままふたりで笑いながら、国立競技場の石畳を原宿へ向かって歩きはじめた。

 

 

「パセオ」は、表参道と明治通りの交差点を越えた路地を少し入ったところにある、小洒落たバーだった。もともとは原宿の竹下通 りでパンクショップを営んでいたオーナーが、スペイン人の妻とともに手作りした、ところどころにタイルを埋め込んだ白い壁に木のカウンターの素朴な内装の女性向きの店だ。潤は、オーナーの矢野とは何度かスタジオにも入ったことがあるが、彼のベースはお世辞にもうまいとは言えなかった。しかし、仕入れなどのためにたびたび海外に出向いていた矢野の話は面 白く、音楽の知識も人一倍あったので、潤にとってはいい知り合いのひとりだった。

店に入ったとたんに入り口の小さな棚に積んである自主製作のカセットテープが目に入り、潤は苦笑いした。このテープには潤も参加しているが、矢野がはりきってレコーディングスタジオを借り、録音の当日には年に合わないパンクファッションに身を固めて現れたものの、そもそも持ち曲など1曲もなく、けっきょく拙いセッションを延々と半日続けて切り貼りしたという代物だった。しかし矢野に言わせるとそれがリアリズムというものらしく、彼自身は出来映えをいたく気に入って、唯一の自己主張としてこのテープを店内に置いているのだった。

矢野は妻のマリアとはおたがいの旅先のブラジルで知り合い、意気投合してそのまま一緒に南米を放浪して帰国し、露店のバッヂ売りからパンクショップを立ち上げた。だが、マリアに子供ができて足を洗い、いまではおとなしくバーを経営する生活に落ち着いていた。潤は、朝美を意識して、ふだん以上に親しげに矢野に声をかけた。
「おっす。ひさしぶり」
「おう、最近ぜんぜん来ないから、死んだと思ってたよ。あいかわらずなの?」
「うん、あいかわらず。矢野さんはちょっと太ったね」
「しあわせ太りだよ。おい、これ見て」
カウンターに座ると、矢野は写真立てに入ったようやく1才になる娘の写真を示した。
「へえー、かわいいね。やっぱハーフだから」
「だろ?でも、俺に似てると思わない?」
「そうかな。マリアさんそっくりだよ。それにしても、矢野さんはずいぶんマトモになっちゃったね」
「なんだよ、マトモになるのが悪いみたい言い方。そちらのお姉さんは?」
「俺の彼女」

「ごめんなさい、ウォッシュルームはどこかしら」
朝美は潤を相手にもせず、気取った笑顔で矢野に会釈すると、示されたトイレへ向かった。
「…ウォッシュルームだって。キザ女」
「誰?あの人」
「シゲオさんの彼女だよ。案内押しつけられたの」
「そういえば、みんなそろそろ到着するころじゃないか?」

 

 

ほどなく、金の一団がガヤガヤと店に入ってきた。金は潤を見ると愛想笑いを浮かべて言った。
「おお、潤ちゃん、あっちで見かけてたんだけどさ」
「みんなは?」
先日のことにはふれずに潤が尋ねると、金は座るでも座らないでもなくカウンターの横によりかかり、カバンをさぐりながら答えた。
「もうじき着くよ。タクシー分乗してきたから。これ」
差し出されたのは、よれた茶色い封筒だった。黙って中を見ると、数枚の一万円札が入っていた。
「バイト代、顔見たら渡そうと思ってたんだけど、なかなか会わなかったからさ」
「ちょっと多いんじゃない?」
「いいよ、潤ちゃんよく働いてくれたから」
「…銃刀法違反に傷害の口止め料だもんな」
「いやあ、あのあとこっちも大変だったんだよ。放火されかかっちゃってさ」
金は、ニヤニヤしながらつけ加えた。
「ねずみ花火投げ込んだやつがいてさ」
「ふん」
「じゃ、俺はあっちで飲んでるから」

広いテーブル席に陣取った連中のなかにヤマトの姿もあったが、ヤマトは意識して潤を無視しているようだった。こういう場面 ではいつもいっしょの松崎が見えなかったので意外なかんじがしたが、シゲオや屋上のメンバーたちが店になだれ込んで来たので、そんなことはすぐに忘れてしまった。みんなはあいさつがわりに矢野に軽口を叩くと、飲み物を注文し、洒落たパセオの店内はあっという間にいつものだらしなくむさくるしい空気に包まれた。シゲオはいちおう格好をつけて普段通 りにふるまっていたが、やはり気になって仕方がないのか、ジンのグラスを片手に潤の横に来て小声で聞いた。
「朝美は?」
「ごめん、ぜんぶバレて怒って帰っちゃったよ」
「えええええッ!!!!!」

シゲオが頓狂な叫び声をあげたので、一同は静まり返ってこちらを見た。そこへ、ちょうど朝美が戻ってきた。朝美はストッキングを履きかえ、妙に時間がかかったのは、泣いて崩れた化粧を完璧に直していたからだとわかった。
「人が悪いよ潤ちゃん…」
シゲオはボソッとささやくと、気を取り直して両手を広げて朝美を迎えた。
「おおっ朝美!会いたかったよ、待たせてごめんな。みんな、知らない人が多いと思うから紹介するよ、俺の彼女の朝美さん」

シゲオのやましさをフォローするように、男達は大袈裟にはやしたて拍手をした。取り巻きの女達は品定めをするように朝美を観察したが、朝美は、ここにいるどの女も持っていない雰囲気を漂わせていた。彼女の表情にはいつも気の強さが現れていたが、それは余裕の上にある品格をそなえていた。男の気を引くためにやみくもに自分を飾り立てるあざとさがなかった。ちょうど化粧も直してきたばかりなので、くたびれた女たちのなかで、朝美は誰よりも高潔に見えた。

誰もが暗黙の納得をして朝美に羨望のまなざしを向けていることはあきらかで、シゲオは得意げな顔で朝美の肩を抱いて飲み物を決めさせた。メニューを見ながら迷っている朝美に、潤が声をかけた。
「サングリア、ここのは手作りでおいしいよ」
それは、シゲオへの背伸びと反発心からくる口出しでもあった。
「サングリア?いいわね。ワインにフルーツを漬け込んであるのよね。スペインに旅行したときに飲んだことがあるわ」
「ここのは、スペイン人の奥さんが作ってるから本物だよ。ちょっとスパイス入ってるの。よくあるジュースみたいのじゃないよ。俺もそれにしよう」
矢野は冷蔵庫からプラスチックの容器を取り出すと、深いガーネット色の中身をグラスに注いだ。ワイン色に染まったリンゴやオレンジの皮の角切りも一緒に注ぎこまれ、グラスの底に沈んだ。ふたりのまえにサングリアが置かれると、シゲオが仕切り直してカンパイし、またいつもの慣れた雰囲気が戻ってきた。

けっきょくシゲオのガードが固いので、これ以上横にいるのもヤボな気がしてきて、潤はカウンターを離れ、屋上のメンバーたちのいるテーブル席に移った。2、3人の、ときどき顔を見かける女たちもまざり会話は盛り上がっていたが、かん高い笑い声が頭に響いて、潤は疲れてノブによりかかっていた。
「帰ろうかな」
「なんだよ、子供はもうオネムの時間か?」
「潤、たまには家に泊まってけよ」
ノブのわきから、ナベが声をかけた。
「ナベさんち?いいよ、彼女に悪いから」
「彼女が言ってんだよ、たまには潤ちゃんに会いたいワってさ」
「…なんでミドリさんが?」
「いいから、来なよ。おまえんちに帰るより近いしさ」

いつになくナベが強引なので、潤もあっさり承諾して、代々木にあるナベのマンションへ同行することにした。ナベが腰をあげるまで、それから1時間もバカ騒ぎにつきあい、帰り際にシゲオにあいさつすると、さりげなく何かを渡された。シゲオのズボンの前ポケットにずっと入っていたそれは、安っぽい銀メッキのロケットペンダントだった。たぶん約束のブツが入っているのだろうと思ったが、ペンダントがめずらしくてよく見ようとすると、不機嫌になった朝美の視線を感じたので急いで自分のポケットにしまい、朝美にもあいさつをしてパセオを出た。

 



 

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