夢喰い
ことあるごとに自宅近くにある墓地に赴いて、苔生した無縁墓たちと対話を試みるのは、幼い頃からのの習慣であった。
否、自宅近くというのは少々嘘を孕んだ言葉で、の家から墓地までは徒歩で40分ほど要する距離だった。
だというのには墓石と会話するためだけに、雨の日も風の日も暑くて倒れそうな日も寒さで凍えそうな日もそこへ通った。それだけが彼女の人生の楽しみであった。
「ねェ哲学さん、あなたはいつも死と生について長々語るけれど」
墓地の中でも奥にある、もはやただ岩のように形の崩れた墓石に声をかける。
「あなたどうしてもお墓から出てこられないのよね。そんなんじゃあ生きてるのか死んでるのかわからないじゃない」
……この墓石は実によく喋る。のお気に入りのひとつ、いやひとりだった。
「随分と驕った考えだ、小娘が。わたしが墓から出られないのではない。おまえが墓に入ってこられないのだ」
「だって生きてるんだもん」
「まだ死んだことがない癖に、なぜ自分が生きていると思い上がっているのか。未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らんと。死んでみなければ生きていることはわからん」
「死んだら生き返れないんでしょ?」
「だからおまえは子供なのだ。人の頭で理解可能なものはせいぜいこの世のすべてくらいで、あの世の理などはさっぱりだろうに。このように墓の中で生と死を同列に並べて扱うわたしの思想など心からわかりはしないのだ……」
ふうん、と返しては他の墓石の前に移る。
「あの世って本当にあるの?あの世に行けるのかな、死んだら」
この墓石はあまり言葉を発さないが、却ってそれがいい聞き手のような雰囲気だった。ひとりごとのような言葉については、はよくこの墓に語りかける。
「私もいつかあの世に行けるかな。地獄だよね。なんか、あの世って言い方をするならもっぱら地獄って感じだよね。天国はなんか違うよね」
墓石が喋ることをが発見したのは、両親が交通事故で死んだときである。
何が起きたのか、幼いは理解できなかった。通夜の後に叔母に手を引かれて墓参りをしても、なぜ親戚のみんなはこんなに泣きながらカクカクした石を眺めているのだろうと不思議に思ったし、やがて大人たちは退屈するをよそに深刻そうな話を始めてしまった。
することがないはトボトボと墓地を歩き、四角い石が並んでいる通りを抜けたところに、ゴツゴツした岩の並びを見つけた。
整えられた墓石よりは、朽ちかけた無縁仏の方がまだ興味を持てた。は中でも特にひとつ、なんだか「しっくりくる」石の前で座り込んで独り言をつぶやいた。
「死んだらお墓に入るって言われた。お墓って何?あんな石のどこに人が入ってるのかな…お母さんもお父さんもお墓にいるんだって。変じゃない?さっきはお花だらけのベッドで寝てたのに」
すると低いうなり声のようなものが、まさしく目の前にある墓石から発せられたのだ。
「お前の父と母は地獄への門を潜ったのだ。この世では二度と姿を現さない。お前もうっすらわかっているのだろう。わからないのはわかりたくないからなのだ」
「…石が喋ってる」
「言い得て妙だな、そうだ私は無知なるものからすればただの石なのであろう」
「石じゃないの?」
「墓石だ」
「……ねえ、墓石って何?この中には本当に死んだ人が入ってるの?」
そして墓石からの声によって、は死んだ者は焼かれて骨だけになり、その骨が壷に納められて墓の下に置かれていることを知った。
父と母にもう会えないことを実感して悲しかったから、余計に墓石との対話にのめりこんだのだ。墓石たちの声は適度に乾いており、を憐れんだりしない。それが心地よかった。
「昨日うちに変な人が来たの」
そして墓との対話は何年も続いての日課となっている。そのせいかは知らないが、昨日はを引き取った叔母の留守を狙いすましたかのようなタイミングで奇妙な来客があった。
なにやらそいつはゴツゴツとした芋みたいな顔に凄絶な歯並びで、が露骨に不審な目で眺めても平気でいる。
「あなたは幸福というものについてどうお考えですか」
が不信感を隠さないでいると男はそんなことを言った。
「あなたは随分と不幸な思いをしているのではないですか?ご両親を事故で亡くし、こうして親戚の家に引き取られて肩身の狭い生活、毎日墓石にあの世への憧憬を語りかけることだけが幸せ…」
なぜこの男はこんなことまで知っているのか。ストーカー。怪しい勧誘。早く追い返さなくては。はそう思って気のない返事を繰り返しながらドアを少しずつ狭めて行ったが、やはり男は気にした様子もなく、に一枚の紙切れを差し出した。
「招待状ですよ。あの世へ渡れば少なくとも今よりは幸せな毎日が送れるのではないかと」
その物言いにどうにも心惹かれて、紙切れだけは受け取った。
の話を聞くなり墓石が深刻そうに唸る。
「馬鹿者、それは死神だ」
「死神……あんな変なのが……」
「…それでその紙切れは?」
「食べろって書いてあったから…食べてみた……」
「なんと…その齢で死に急ぐとは…計り知れぬほどに愚かな小娘よ…」
「今なんともないんだけど、私死んじゃうの……?」
「死ぬであろうよ。死神はあの世へ人間を導く。彼らはそれが仕事……ノルマを達成するためにあくどい手段も取るのだ」
ふうん、死ぬんだ私。
そんな風に醒めた思考でいられたのは最初だけで、段々との身体は恐怖で震え始めた。
「どうしよう……ねぇどうしよう?!」
取り乱したに意地悪をするように、墓石たちは急に静まり返ってしまった。
「死んでもいいって思ってたけど…でもねぇ、ねぇいきなり死んじゃうってなったら怖いよ!助けて!助けて誰か!」
狼狽してうずくまったの耳に「哲学」の声が響いた。
「これもまた必然…小娘よ、あの世の条理はいかな賢き頭脳でも精密な機械でも識れないことになっている。この世は通り過ぎるだけのもの…だが、人とはあの世に行くまでのエア・ポケットのような時間でいかにくだらないことを考えたか、目に見えないものを信ずる心を鍛えたか、喇叭を吹かず陰徳を積んだかによって大抵の処遇が決まるのだ。おまえは墓石と対話を試みてあの世の存在を信じ、善行こそ目立たぬが静かに、ただ静かに時に身を任せた。そのような者があの世に行って虐げられる例をわたしは聞いたことがない。恐れることはない」
「でも……」
「わたしたち墓の中の者は機を逃してあの世に籍を置くことが叶わなかった存在なのだ…霊という形容をこれまでしてこなかったのは、超常的なものとしてのレッテルを貼られたくなかったが故だ。わたしたちはときにおまえの親であり、ときに友人であり、ときに教師であった。わたしたちの声はおまえにしか聴こえない。霊を霊としてではなくひとつの人格のあるものとして認めるおまえだからこうして対話が叶うのだ。それはおまえがあの世に行ったかて、変わらぬことだろうよ」
「もっと簡単に言ってよ……」
「盆暮れにはあの世とこの世が繋がる。遊びに来るといい。わたしたちは朽ちることなくここに在る」
それだけ言うのにどれだけ無駄な弁を弄したのよ!というの叫びは声にならなかった。
突然喉がギュッと絞まる感覚に襲われて、その苦しさに膝をつく。
胃の中が熱い。まるで昨晩飲み込んだ「招待状」が発熱しているようだった。
胃袋を内側から焼く熱気は、やがて喉元まで遡って苦しさに加担する。
「く…あ、死ぬ…って、こんな……!」
呆気ないものなのか、と思う暇もなく、は自分の身体がフッと軽くなり、意識が白く濁るのを感じていた。
次の瞬間、は空中を漂っていた。真下に自分の身体が見える。ああこれが死なんだ。魂が抜けたんだ。納得しそうになる。
「あ、い、いや、いや、まだ死にたくない……」
墓石の言葉を信じるなら魂だけとなったを死神が迎えに来るはずだが、その姿は一向に見えない。
「やだ、やだちょっと!そっちに行ったらだめ!」
そうこうしているうちに身体が……いや、魂が風にそよぐ。
墓地に横たわる肉体から離れて、どこかへ飛んで行きそうになる。
「いやー!いやだってば!死にたくない!」
もがこうにも手も足もないのだ。は綿飴か雲みたいな頼りない姿でフヨフヨと墓地の中を抜けて行ってしまう。
「おッ…こりゃなんだ……」
そんなの「尻尾」とでもいうべき場所を容易く掴み上げ、手許に手繰り寄せる者があった。
まさか死神かと身もないのに身構えたが、しげしげと…の魂を眺めるその顔は、昨日見た死神のものではなかった。
「魂だな……誰から抜けたんだ」
丸っこい顔の輪郭に縦長の目。瞳の片方は長い前髪に隠れている。鼻の下と口元がひょろっと伸びて、なんともすっとぼけた顔だった。
「死神がつかみ損ねたのとちがうか…」
ついでに踏切の遮断機みたいな柄の派手で珍妙なセーターを着ている彼は、を掴んだままスタスタと墓地を歩き、の…今や亡骸となっている肉体が倒れている無縁墓たちの群れまで歩いてゆく。
「あッ」
彼はの身体を見つけると、その隣に膝をついて、白くなった顔をまたもやしげしげと眺めるのだった。
「けっこう美人だなア…どうしてこんなとこで死んでいるのか」
「お兄さんや、あんたその手に掴んでいるのはその子の魂だ。戻してやってはくれないか」
「聞き上手」の声だった。墓石がの知る限り初めて、以外の者に口をきいている。
「かまわねえけど」
彼は実に軽い様子でそう言うと、掴んだままのの魂を顔に近づける。
「待て待て、魂を戻す前に」
「哲学」の声だ。
「その娘の胃袋に、あの世への招待状が詰まっているんだ。それを取り除いてやれ…さもなくば魂を呼び戻しても同じことだろうよ」
「あの世の…この子はどうしてそんなものを食ったんだろう」
「死神に騙されたのだ」
哲学さん優しいな、とはぼんやり思った。もしかすると単に説明が面倒だったのかもしれないが。
「ちょっと苦しいですよ…あ…今は感じないのか」
しかし彼が魂を小脇に抱え、肉体の方の口にいきなり手を突っ込んだのでは慌てた。確かに痛みも苦しみも感じないが、目の前で自分の身体がいじられているのはなんだか気味が悪かった。
「あっ、あっ、もっと優しくしてくれても…!」
が冷や汗を掻くのをよそに、彼の手はグイグイとの喉奥を突き進んでいく。
やがてスポン、と音を立てて彼の手が抜けた。唾液や胃液でぬるぬるの指が、ひしゃげた紙切れを掴んでいる。例の招待状だ。
「ホレ」
彼はハトに豆でも撒くかのような気軽さで、の魂を放った。
「ふぁ…あああ……!」
すると惹かれ合う磁石のように、魂はの身体に吸い込まれていく。
「わ…わっ、戻った……!」
やがては息を吹き返した。確かめるように手を握り、まばたきを繰り返す。
「生きてる…私生きてる!」
「おお。よかったですねえ」
黄色と黒のセーターの男は、大した感慨もなさそうな口調でそう言った。
「あの…魂掴んだり、身体の中に戻したり…あなた、何者なんです」
「あいや…田中ゲタ吉ともうします。しがない高校生です」
「タナカゲタキチ……」
「じゃ…これで……もうへんなもの食べたらダメですよ」
そしてやはり大したことなさそうにに背を向け、スタスタと去っていく。
「ま、待って!なんか、あの、なんかお礼がしたいです!」
「お礼?」
大したことなさそうだった割に、ゲタ吉は「お礼」の一言には素早く反応した。
「あ、あのっ…あっ!い、いったんうちに帰ってお財布取ってきますから!どうしよう…あの、よければ、に、二時間くらいここで待っててくれませんかっ」
「二時間?いいですよ」
その頃にはゲタ吉はすっかりくつろいでおり、墓石の側に腰掛けている。
は生き返ったばかりの身体に鞭を打って走った。さっきまでの自分が体験した怪奇現象など大したことはない。
出会ったばかりのあの少年に、すっかり心を奪われていた。