カルマの入れ子
※十四松夢の延長線上にある話です
家の前に見慣れない女の人が佇んでいたから驚いた。
駅からの帰りで、いつも通りの道を通っていつも通り家の敷居をまたぐつもりでいた僕の足はイレギュラーにギクシャクした。自分の家だというのに表札の前で変なステップを踏む。
こぎれいな人だった。綺麗にセットされた髪と装飾が控えめの服と、何よりも色艶のよい肌と顔色がこの人を見る目から「怪しい奴」という選択肢を消す。
年はおそらく僕と同じくらい。ますます怪しい人という認識は薄くなる。考えてみれば松野家に用のある女性なんていうのはそれだけで怪しさの塊なのに。
だけど僕がどうするか答えを出すより先に、彼女は呼び鈴も押さずに踵を返してこちらに踏み出してきた。結局僕は目の前の女性に対して何の判断もつかないまま、しどろもどろの姿で鉢合わせすることとなってしまった。
「あ、あの」
とりあえず声をかけておこう。何かご用ですかとでも言えば気まずさもすぐに解決だ。
「……」
そう思っていたのに、目の前の女性は僕の掛け声など耳に入っていないとでも言いたげに突然目を瞑った。
「あの…」
「……」
もう一度呼びかけたが女性は目を瞑ったままで、今度は急に両手をパーにして、自分の胸元でお皿のように構えた。
「……?」
その仕草のあまりのすっとぼけ具合に、雨でも降ってきたのかな…と僕は空を見上げてしまった。もちろん降っていなかった。空は夕闇のグラデーションを描いて暮れてゆく。
「……気持ちの重さを測っていたの」
「えっ……は、いや、あの、はッ?」
夕焼け空から目の前の女性に視線を戻すと、彼女は変にかざした手はそのままにまぶたを開けていた。ついでに口まで開いてわけのわからないことをのたまった。
「私のこと変な女って思ってるでしょ…うん…ごめんなさい…わかってるの、でも私どうしてもあの場であなたに今の気持ちを、いや、あなたというか、誰かに、言いたくてしょうがなくて……自分の気持ちをうまく説明できないから、口にすると変な奴にしかならないってわかってるのに…でも、ごめんなさい……」
ごめんなさいと繰り返すわりに女の顔は嬉しそうだった。楽しそうだった。物凄くニンマリしていた。
こんな変な人にかかずらってはいけない。そうわかっていたのに、「気持ちの重さ」とやらを測り終えた女が僕の脇をサッと通り過ぎて何事もなかった様子で消えていこうとするのがどうにも我慢できなかった。
この怪しい人が一体我が家の前で何をしようとしていたのか、いやもう終えた後なのか、知らなければわだかまりが後々に残るに違いない。そんな思いで袖を引いてしまった。待って、と。
家からさほど離れていない公園のベンチに座ると、僕が何か尋ねるより先に女が自供を始めた。ついワクワクしちゃって…とやっぱり嬉しそうに言う。頭の中で固まりかけていた「不思議ちゃんぶった仕草が痛い子」という推理が無情にも流れていく。本気で頭がアレな子。
でもアレなわりには結構、見た目が可愛らしいんだよな。清潔だし。本当にアレとなると大体周りが見放すし、本人も頓着しなくなって服装が汚らしかったり肌が荒れてたりする。なんだかちぐはぐだ。そう思いながら彼女のパンプスに目を走らせる。靴も綺麗だった。
一番わかりやすいのが靴なんだよね、と一端の通を気取ってみたりする。関わったらまずい変な子は大体靴のかかとを潰している。
……でもそんな僕の審美眼は何の役にも立たない。言動がアレ、身なりはきれい。なんなんだろうこの人、という疑問は解決しないままだ。
「あの…ごめんなさい、本当に…変だよね。自分でも変なこと言ってるなってよく思うの。いろいろ思ってるのに口にするとなんだか変で…おかしいよね、気持ちの重さを測るなんて言われても困るでしょう?」
「あ、えっと、いや、まあ、その…いや、うーん、その、それよりも、あの」
「でもそれ本当のことだし…どうやって説明しようか…あの、こうして私が両手を秤の代わりにして気持ちの重さを測っていたのは、変なことをしてみせようとしたんじゃなくて、本当にこうすると気持ちの重さが両手の先に集まってきて測ることができるから…」
「そ、そっか、うん…そういうこともあるかな…うん、そうじゃなくて」
「いやだどうしよう…なんか、今も話せば話すほど胡散臭くなってるのを感じる…どうしたらいんだろう?でも、本当で…こうして手を掲げてるからなんか変な感じに見えるんですよね。でも、これが一番なんですよ。私が手を、こうして空にかざすのは、あの、両天秤みたいなのに格好が似てますけど、別に天秤じゃないんですよ。手をかかげるのは、目に見えないものを両手に乗せてるからじゃないんです。そこだけでもわかってもらえますか……」
泣きたくなってきた。
女は実にはきはきと、聞き取りやすい呂律と、僕と共通の言語で長々と喋った。だというのに一ミクロンも理解が進まない上に僕が尋ねたいことからはどんどん話題が離れていく。
「手をこうして上に持っていくと、あ、ちょうど心臓の上あたり。血の流れをちょっと遅くする感じで…ああまた私変なこと言ってるって思われてるよ…違う、違くて、あの、なんて言ったらいいのかなぁ」
「……思ってないですよ」
目の前の女を訳のわからないものだと思うのに、嫌悪を抱くまでに至らない理由がふとわかった。
僕は彼女の瞳の奇妙な色めきに見覚えがある。馴染みがある。毎日味わっている。
「僕の知り合いにも結構急に変なことを始める人いますけど、でもその人の中にはもう、独自のルールがあるってだけですもんね」
……いつも一つ上の兄の突拍子もない行動を見て思うことを口にすると、女はほっと胸をなでおろした様子で、ありがとう、と言った。
……今まで困り笑いにニヤニヤを混ぜたみたいな顔をしていた彼女が、ふと素朴な表情になった。やっぱり結構、可愛いんだよね。
さっきまでブキミの塊だった女が垣間見せた人間らしさで、なんだか僕も一気に安心した。
同時にブキミというベールを取り払ってしまえば、目の前の存在はなんてことない、ただの女の子に成り下がる。恐れる必要はない。
理解されないという悩みを持っている人ほど、うんうんわかるよ、という表層だけの言葉にころりとやられてしまうのはなんでなんだろう。
いろんな理由があってクビになった数々のバイト先でも、ボードゲームのクラブでも、どこに行っても一人は必ずいる。孤立というか、淋しそうな表情を作っている人。
そんな人の評判を周りに聞いてみると「なんか付き合いが悪いし、変わり者って感じ」なんて、これまた判で押したような同じ答えが返ってくる。
僕はそんな人に声をかけるのが得意だ。好きと言ったら性格が悪いから言わないけど。
「なんて言うか、なじめなくて」と、こっそり大きなグループを指しながら呟くと、淋しがり屋は急に目をキラキラさせて僕を見つめる。
気をつけるのは相手が本当に声をかけていい存在か見定めること。依存先を探している人には絶対近寄っちゃいけない。あくまでなんとなく馴染めない、不器用なんだよね、という言い訳をしたがっている人がいい。
そんな処世術はさておいて、目の前の女の子はそういう意味では危険に思えないのだ。だからとりあえず理解のある顔をして会話をこちらのペースに持っていけば、いいところで切れる。さようならができる。ちょっとアレくさいから連絡先は別に知りたくないな……。
「それで、お姉さんはウチの前で、気持ちを測ってどうしたかったの」
でももったいない。シンプルな服装の下に隠れた身体のラインをぼうっと見ながらついつい思ってしまう。こんなにこぎれいな見た目をしてて、自頭も悪くなさそう。だっていうのにどこからあんなにたちの悪い電波を拾うのだろうか。そこをつつくと結構面倒くさそうだ。絶対、過去に、なんかあったタイプ。
あ、家族。もしかしたら家族と同居してる系かもしれない。それはそれで面倒だ。
うん、でも実家同居の線が濃厚かも。ライフラインが確保されてるから肌荒れしてないのかもな。
毎日清潔な布団で寝てお母さんが作ったご飯食べて、お母さんが洗濯してアイロンかけた服着て、お母さんが沸かしたお風呂に入ってる。あ、いやそれは僕も同じだけどさあ……。
そういう子って、結構お姫様なんだよなぁ。もう少し自己肯定感が低くて、意思が弱そうな方が楽っていうか……。
一度は自意識の低い子と付き合っておきたい。思うんだけど、男女の交際をするなら互いを尊重するのが何より大事だ。だからとりあえず一度はあんまり我の強くない子と付き合ってみて、女性というものを知っておきたい。経験があれば次には余裕の姿勢が持てる。そうして備えておけば、本当に、対等にお付き合いしたいと思える女の子が目の前に現れた時に焦ることはないはず。相手にだって不快な思いをさせずに済むのだ。……まあどちらにせよ今、目の前にいる子がその条件を満たさなそうなのが残念ってハナシだ。ごめんね。
僕は目の前のこの、見た目だけで言うなら優れた存在をソデにする。できる。その思いから膨らんだ優越感が、ある程度の地点から彼女への憐れみに変化する。
幸せになってね。その気持ちは本物。でも無理だろうなとも思う。いや、無理であってくれた方がいいなって。ううん違う。どこか、僕の日常からは切り離された地点で幸せになってほしい……これが一番正しいか。
真っ当に頑張ってる人間を差し置いて、頭のネジ外れた人がラクをするのがちょっと妬ましい。これは僕のみにくい部分。でもだからって、目の前の女の子が苦しむ姿を見たいのかというと違うし。
彼女が問いに答えるまでの短い間にそれだけのことを考えながら、僕は表面上はにこにこして返事を待つ。
「は、恥ずかしいんですけど、近くを通りかかって…いるかなって覗いてみたの。でもお家の近くに立ってみたらいない気もして、それで測ってたの重さを……チャイムを鳴らしてみたい気持ちか、身体の中の声に従って十四松くんのいそうなところに走っていった方が合理的だという理屈か、どちらが私の中で重」
「待っていまお姉さんなんて」
「私の中で重た」
「違う、違う違う誰を訪ねてウチに来てたの?!」
「十四松くん」
「えっちょっ…なんで?!なんで十四松兄さん?!」
積み上がっていた思惑が急に折り返し地点を迎えて、僕はいきなり打ちのめされた。優越感と、憐れみ。その二つが崩されただけじゃない。僕の生活基盤や常識や汚い感情やコンプレックスやなんやかや、とにかくたくさんのものが突然形を失った。僕は奈落に突き落とされた。
「胸の上あたりに手を出してみると十四松くんが内側から、なんか…またうまく言えないけど…ふふっ、私の指先に、砂鉄が埋まってて…あ、違う、また変なこと言ってると思うかもしれないんだけど、これは例えで、あのね、砂鉄に磁石近付けるとビビビッて吸い寄せられるよね?それと同じことが起こるの、私の中の、特に指先みたいな身体の先っぽが十四松くんの方にくっ付いて行こうとするのね…フフフッ…!それで、指先に感じる十四松くんが近いか、遠いかをまず測って、そこで割り出された大体の距離と自分が今十四松くんちのチャイム押してみたいなあって思ってる気持ちのどっちが重たいかを測ろうとしてたの…」
「にいさんは…にいさんはそれを……」
「十四松くんは私がこうやって吸い寄せられる理屈を考えるより先にわかってくれる人なんだよ…うふ…あなたが十四松くんの兄弟だって、もう見ただけですぐ分かったけど、でも挨拶するより先にこんな変なこと言っちゃってごめんなさい…でもね、私、あのとき本当に、チャイム押して十四松くんの家がどんな感じか少しは知りたいなぁっていう気持ちと、今すぐ走って会いに行きたい気持ちが僅差で釣り合ってて、その嬉しさって、まあ、惚気なんだけど…好きな人のことで悩んでて、どちらを選んでも好きな人のことっていうのは、すごく嬉しいなあって思っちゃって、誰かに言いたいなってときにあなたが来たものだから、ごめんなさいね」
「あ、あの、あの」
「ああまたわかってもらえない…いいの…でもやっぱり嫌だな…私こうして今すごく、幸せなんだけど、でもこの幸せを周りにどう説明していいかわかんないんだよね。身体の中に砂鉄が混ざってるって説明したあたりでみんな大体白けた顔して迷惑な人を見る目つきになるんだよね…いいけど…でもなんか違うんだよね…別に自分の中に砂鉄があるとか天秤みたいな機能がついてるとかそういうことを主張するつもりは全然ないの、あくまでものの例えだしいや私の例えがよくないのかもしれないけど、でもそんなことは全然瑣末なことじゃん、本筋はそれくらい幸せでいつでも十四松くんを身近に感じるっていうそれだけなのになんでこんなにサイコパスが騒いでるみたいな扱いされるのかわかんない。歯がゆいのそれが…脳みそかゆいってわかる?こういう物言いもサイコパス扱いされる要因なのかなと思っちゃうんだけど、でも事実だから言うしかないんだけど、脳みそかゆいのね。これは掻けないところが痒くてジレンマっていう比喩ではなくて、本当にかゆいの、今すぐ取り出して洗いたいくらいで…これは、低血糖の人とかお腹が空くと急にイライラしてくるじゃない、あれと一緒で十四松くんが足りなくなってくるとだんだんかゆくなってくるの。脳が困ってる。身体の中から十四松くんに向けて吸い寄せられるなにかをどう処理していいか悩んでるのね…つまり十四松くんが私と会ってくれて、まあ、あの…フフフッ!その、あれを、とにかく、十四松くんが満たされれば脳みそがかゆいなんていう狂った感覚からは解放されるんだけど、私こんなに理性的に考えられてるし、脳みそかゆいっていうのがちょっと狂ってるって自覚もあって、つまりは正常だから、周りから狂人扱いされるとどうにも腑に落ちないし、そうなるとやっぱり悲しくなっちゃって余計なことばかり考えて、身体の中の十四松くんが減っていくペースが上がってくのね…でもそれも十四松くんが…あの、あれをしてくれればすぐ解決するし。それってお腹が空いたらイライラする低血糖の人とどう違うのかな…みんな低血糖だからってその人を狂ってると思わないよね…どうして私が低十四松くんに陥ると嫌な顔されるんだろう…いや、症例が少ないものほど理解が少ないのはわかるの、でも、だから私は脳みそがかゆくなったらちゃんとその理由からここ今日に至るまでを説明しようとしてるのにうまくいかなくって、やっぱり狂人なんだよ…つまり何かって言うと」
ベンチに座ったまま呆然としている僕をよそに前触れもなく女が立ち上がって公園の中央に走り出したので、驚きで危うく下半身のパイプが緩くなるところだった。なんなの?!この女はこれ以上僕をビビらせて何をしたいの?!
「来た……」
女が虚空に手をかざす。今度は右手だけを、演劇みたいな動きで。
「来てるよ!ねえ、十四松くんが来てる!」
女は叫んで、それから火がついたように笑い出す。歓喜の笑みと言うよりは、身体をくすぐられているような声だった。
「アハハハハハ!あっ、アハッ、アハハハッ!来てる!あっ、いやっ、嫌っ、肌の下がくすぐっ、たっ、あっ、ふ、あはっ、ふ、あははははははっっ!!」
透明な羽根に身体をくすぐられて悶絶する女の言葉は真実だった。公園の入り口から、黄色いものが走ってくるのが見えた。それが十四松兄さんだというのは僕から見ても現実だったのだ。
「だ…だった……ら」
恐怖で麻痺していた頭が急に色々なことを考え出す。この女は十四松くんが来てる、と言い当てた。どこまでが真実なんだ。
十四松兄さんが笑う女の身体を高い高いするみたいに抱き上げた。
……狂っていてもそうでなくても、あのふたりが恋仲だというのは事実なようだった。
十四松兄さんの目に留まるより先に、なんて気持ちがあったかどうか、わからないしあまり考えたくなかったが、とにかく僕は駆け出した。ふたりの隣を横切って、夜の闇が深くなり始めた空の下をただただ走った。悔しかったし悲しかったし淋しかった。
独り立ちしたいという気持ちが兄さんたちを置いて行きたいという形にねじくれてしまったのはどうしてだろう。僕はどうして今、一番近い兄に裏切られたなんて思ってるんだろう。同じことしようとしてたくせに。うまく距離を縮めていたはずの女の子たちが急に僕を遠ざけるのはどうしてなんだろう。器用に立ち回っているはずのバイト先で、時たま耐えられないくらい居心地の悪さを覚えるのはなんでなんだろう。なんで、なんで、よりによって十四松兄さんなんだろう。一番信じてたのに。一番僕を裏切らないって思ってた。だから信じた。勝手に。僕は勝手だ。あの女を相手に一体なにを考えてたんだろう。ある意味で、陵辱するよりずっと酷い目に遭わせてた。十四松兄さんの恋人なのに。あの人にも人格とか心とかがあって、あ、そうじゃん。あの女、僕を見ながら何度も言ったじゃん。「また変なこと言ってるって思われてる」って。バレてたんだ。僕がどんな目で見てたか。全然隠せてない。うそだ。兄さんたちが僕をドライモンスターだかなんだかって揶揄したことを思い出す。心がないだのと。うそだ。ある。僕には、常に……他者より上だという心がある。兄さんたちより上。あの女の子より上。手際の悪い同僚より上。上上上!!僕はこんなところでくすぶってる場合じゃない。上に行かなきゃ。行って当然。上に行ってなにをするかって、当然下を……見て、やりたかった。上った先じゃなくて下を見たかった。みんなが指を咥えて僕を見上げるのが見たかった。ばればれだったんだ。そんな卑しい気持ちが顔に出てた。僻みっぽい精神が、卑屈な性根が隠せてなかった。女の子たちはそれを嗅ぎつける。男だってそう。兄さんたちにしたって結局僕は、あの家に、五人の兄と親が待つ空間が心地よくって浸りきっている。たまに「一抜け」したくなる。でも結局なしきれなくて戻ってくる。はあぬるま湯気持ちいい。……考えてみればぬるま湯に飽きてきたら冷水シャワーを浴びるような感覚じゃん。つまり僕の独り立ちしたい欲求はあのぬるま湯家庭ありきなわけじゃん!!
僕はなんなんだ。あの女に向けた眼差しを、僕は他者として眺めたときに耐えられるのか。ああいう顔で自尊心が低い女を踏み台に、実験台に、捨て石にして、男としてのステータスを上げたいなんて考えてた。そんな考えが隠せもせずにばればれの人間なんか、たとえどんなブスにだって、人格破綻者にだって、相手にされるもんか。いつか本気で尊重しあえる女性が現れたら。現れるわけない。僕にはもう他人を見下す汚い精神が染み付いてる。それに比べて、あの女の十四松兄さんに対しての情熱は凄まじかった。たとえそれが常識を逸脱して狂気に踏み出していたとしても、十四松兄さんもそれに応えたのだ。ふたりは対等だった。僕が卑しい屁理屈をこねくり回している間にも、十四松兄さんは心から尊ぶ女性を見つけたんだ。純粋でバカで、……そうだ僕は十四松兄さんを馬鹿にしていた。他の兄さんと違って口先で攻撃してこないから。なんなんだ。僕っていったい、なんなんだよ。
走っても走っても、頭の中でたくさんの自虐が湧き上がるだけだった。頭を空っぽにしたい。助けて、助けて、助けて、助けて、助けて、助けて。家に帰れば、温かいご飯と布団がある。でも帰れない。今はあのぬるま湯が嫌だった。自分を痛めつける何かが欲しかった。この自己嫌悪を断ち切るだけの新たな衝撃が欲しかった。
なにより恋がしたいと思った。遠い昔に経験した、胸の疼きで眠ることさえ出来なくなるあのひたむきな恋慕にもう一度、支配されてみたかった。