自虐の詩(前)
恋人であるところのが風邪を引いたというのでチョロ松は慌てて見舞いに行った。
その日は一緒に映画を観に行こうと約束していたのだが、待ち合わせの時刻になってもが映画館隣の喫茶店に現れる気配は一向になく、いつもチョロ松がどれだけ早く行っても先に待っているような子だったにしてはイレギュラーな事態だった。
どうしたのかなと携帯電話を弄って連絡が来ていないかやたらチェックし、次に電車の遅延情報なんかも検索し、頼んだブレンドコーヒーがぬるくなる頃にはチョロ松の心配や不安は焦りと怒りに変化しつつあった。
もうすぐ映画の始まる時間だ。すっかり待ちぼうけを食らわされたこの事態は一体なんなんだ。
いつもさんが僕より早く着いているから、たまにはどうしても僕が先にと思って早く家を出たのに。いやそれはそれとして、遅れるなら遅れるで、一報くれればこんなに焦ったり怒ったりしないのに。
意図を理解できない行動を突きつけられて狼狽する。
相手が女の子だとそんな場面がたびたびあった。モデルケースが少ないからすぐに混乱してしまうのだ。
今もチョロ松は狼狽し続け、やがては不安に煽られるのに疲れて八つ当たりじみた怒りに変化することで己の心を落ち付けようとしていた。
>さんが来たらあからさまに不機嫌に振る舞ってやろう。中身が少ないコップとか超乱暴にテーブルに叩きつけてやる。僕だって怒るんだということを思い知らせてやらなくちゃ……。
がしかし、チョロ松が脳内でこねくり回していたデートDV計画は直後のからの電話で跡形なく消え去った。いやチョロ松が消した。が熱を出して苦しんでいる中、一人で怒ったりしていたかと思うとなんだか恥ずかしかったのだ。
僕はクズだ……と何回も自己嫌悪しながら、が一人暮らしをするアパートの一室に向かったのだった。
「ごめんね……映画…」
「いやいやいいから寝てなって、フラフラしてるじゃんさん…」
玄関で自分を迎え入れたを見たときのチョロ松の感想は「思ったより全然元気そう」だったが、それはが気を遣って意識を張っていただけのことらしく、少しもしないうちには自分の頭を重たそうに抱えて千鳥足でベッドに戻るのだった。
「薬は飲んだ?食欲ある?あるんだったら…いろいろ買ってきたけど」
そう言ってチョロ松は、中にお菓子だのプリンだの、紙パックのジュースだのが入った買い物袋を差し出した。
「……」
「食欲なくてもジュースくらい飲めるでしょ?好き嫌いわからなかったから、一通り……」
「…あっは」
が、チョロ松がアップルジュース、オレンジジュース、グレープジュース…と取り出して並べ始めると、は鼻声ではあるが、笑った。
「そんな、一通り買ってこなくても」
「いや…だってこれでオレンジだけ買ってきて、さんがオレンジジュース飲めない人だったりしたら…」
無駄になっちゃうでしょ、と続けそうになってやめる。無駄という言葉の響きがなんだか卑俗らしい気がしたのだ。
今は恋人のことを想う優しい彼氏なのだ。ちょっとのお金や食べ物が無駄になったからといって頓着している場合か。もっと大らかに構えるんだ。やるんだチョロ松。僕ならやれる!優しい彼氏になれる!
「じゃあ…りんごがいい」
アップルジュースを指差したに頷いて、紙パックにストローを刺す。
「薬、まだで…あるんだけど、食べるものがなくて……」
「温かいもの、食べられそう?レトルトだけどお粥もあるよ」
待ってましたと言わんばかりにビニールからレトルトパウチの袋を取り出したチョロ松に、はもう一度笑った。
「じゃあ…食べたい、かな…」
の口から自分の思惑通りの言葉が出て、よっしゃ、などという気持ちを抱いたのを悟られまいとするように、チョロ松は立ち上がる。
「台所借りていい?小さい鍋もあるといいんだけど」
「うん…ありがとう、お鍋は流しの下で、お椀…あ、水切りにかけっぱなしかも…やだ……」
恥ずかしい、とまた起き上がろうとするを制して、チョロ松はせせこましい台所に移動して、言われた通りに流し台の下から小鍋を取り出す。
風邪の彼女を看病する、というシチュエーションに、なんというか他に適当な表現が思い当たらないのでチョロ松は仕方なく、仕方なくこう表すが「萌え」ていた。
病気で弱ったに、ではない。病気で弱ったの傍にいられて、頼られているという現状にだ。
「あっ……」
そしてそれだけ浮かれ模様だった中でチョロ松の機嫌をさらに良くしたのは、が口にする「自炊している」という発言が嘘でないと思われることがキッチンに立つことでわかってくるからだ。
ゴミ箱にカップラーメンとかコンビニ弁当とかの空き容器は見当たらない。小鍋にレトルト粥を入れて煮立てる最中、が寝ついていると確認してから流しの排水口を見てみたが綺麗に掃除されていた。こまめに流しを使う子の証拠である、とチョロ松は見ていた。
冷蔵庫の中にだって卵のパックや賞味期限の短い加工肉といったそのままでは食べにくいものが入っていた。つまりさんはその腕前はさておいても料理をする、できる、かつそれを僕に嘘偽りなく教えてくれる女性なのだ。
それまでの家を何度か訪れたことはあったが、ここまで細かくチェックする機会はなかなかない。幸運を噛みしめつつチョロ松は、機嫌よく彼女の言う通り水切りバットに掛けたままだった茶碗に粥をよそった。
「さん、ほら、口開けて」
「えっ?」
チョロ松が茶碗とレンゲをに手渡すのではなく、自分で持ったまま食べさせようとしてくるのには狼狽した。
「い、いくらなんでも自分で食べられるよ…」
「いやいや、僕にさせてよ。したいんだ」
「そ…そ、そう……?」
が、これもチョロ松の予想通り、僕がしたい、と主張すればは受け入れる体勢になる。
はそういう遠慮深い子で、気ぃ遣いで、そこに病気で弱っているという要素が加わればこれくらいはさせてくれるだろうという計算があったのだ。
「んっ…」
……が、チョロ松にとって計算外なことがすぐに勃発した。勃起が勃発した。発狂したのではない。自分が運んだ白い粥を舌を出して受け止めるを見た瞬間にチョロ松の勃起が勃発した。
「うぐっ…」
「わああっ……?!」
慌てて前屈みになったチョロ松の手元が狂って、の唇の端から粥がこぼれる。
の手のひらで受け止められて、服やベッドシーツは無事なようだったがチョロ松の股間はさらに重体に陥った。というのもがその粥を手のひらに乗せたまま口を開けてペロリとしたあとに「ちゃんと口に入れてよ」と恥ずかしそうに言ったからだ。
「あ…あの、ごめ…なんか、ちょっと…ゴメン!やっぱり自分で食べられる…?!」
「えっ?食べられるけど…ど、どうしたの?」
ジーンズの前を隠すように蹲り、咄嗟の判断でトイレに向かうチョロ松を見てが不安げな声を出す。
「ちょっと、いきなりお腹痛くなっちゃって…」
「だ、大丈夫?!私よりチョロ松くんが大丈夫…?!お腹の薬、風邪薬と同じところに入ってるから…」
「う、う、ウン、ちょっと、あとで、使わせて、もらうから…」
そう言ってチョロ松は便所の扉を閉めながら一息ついた。
股間はいきり立っていたが気持ち的には泣きそうというか、気付けば既に泣いていた。
「なんで……」
そうやってめそめそしているのにジーパンを下から突き上げてくるものは治まらない。むしろすぐさま欲求の解消に移らないことを恨めしく訴えるかのように、主張を増す。
今ならさんがいるんだぞ。さんなら絶対断らない。そりゃちょっとは嫌な顔をするだろう。だけど、チョロ松が恥を忍んで事の顛末(勃起の勃発)を話せば、困った顔をしながらも受け入れてくれるはずだ。
手でしこしこするよりずっと気持ちがよくて嬉しい方法を、チョロ松の前に見せてくれるはずだ。
……そしてそこまで考えてしまっては、チョロ松の涙はいよいよ止まらなくなる。
なぜ僕は意志が強くて、優しくて、常識を弁えた気遣いのできる男でないのか。それらの真逆をいく人間性を持った者なのか。
そもそも病気の恋人が薬を飲む前の腹ごしらえをしているというのに、それをなんかエロいビデオの口内射精シーンと見紛うって何事だよ。クズじゃん!それ、ただのクズじゃん!ちんこに魂を支配された妖怪だろ!!
「…っ、うっ……」
喫茶店でを待っているときもそうだった。僕は自分勝手で、短気で、神経質すぎて、いざとなるとすぐ他人を尊重できなくなる。
チョロ松は痛いほどわかっていた。兄弟や家族に口にする常識人という言葉は、おそらく自分にとって最も相応しくない形容なのだ。
「さん…」
という恋人を得てから、そんな風に自分を襲うみじめさが日々強くなる。もっと優しくしたい。もっと頼られたい。そんな気持ちを持っているくせに、いつもいつもうまくいかない。
「うっ…ぐ、うぅっ……!」
大袈裟にジュースだのお菓子だのを買ってきたのもどうせ見返りを期待してのこと。そこまで考えてくれるなんてチョロ松くんは気の利く人。神経質な性格を、そう褒められることで肯定したかった。
「うっ、うっ…ううっ……!」
僕がしたいんだから。そう言ってわざわざレンジじゃなくてガスコンロで鍋を使ってレトルトを温めて、自分の手でもってして彼女に食べさせようとしたのは、生殺与奪を握る感覚を味わいたかったからでないか?この子僕がいないとなんにもできないんだな。そう思ってみたかっただけのことじゃないか?
「くっ…う、うぅ、う、ぁ……」
脳天から溢れ出しそうな自虐をこねくり回しながら、チョロ松は重ねたトイレットペーパーを自分の欲求の先端に押し当てた。
立ってするの久しぶりだなぁ。座ってするときより精子がピューッて飛ぶんだよなー。などというババロアブレーンかこいつ?的などうでもいいことを考えているうちに本当に精子はよく飛んだ。そこでまた予想外のことが起きてしまった。
ティッシュペーパーと違ってトイレットペーパーは水に溶けるのだ。チョロ松の勢いが良すぎる射精は貫通弾となってトイレマットに着弾した。
「…死にてぇ……」
ともあれずっとそうしているわけにもいかない。ヤケクソな気分でマットを擦り、何事もなく用を足したように見せてチョロ松はトイレのドアを開けた。
空になった茶碗と、半分くらいなくなったアップルジュースと、封を切った風邪薬がベッド脇にまとめてあった。肝心のは眠りについている。
「さん…」
再び溢れそうになった涙を、チェックシャツの袖で慌てて拭った。