時代考証とか細かい事言うな
「その後はどうだい」
「はあ、何事もなく」
売れない作家であるところの私は京極堂という名の本屋の主に、
その主の家の座敷で奥様が入れてくださった美味なお茶をいただきつつ、そんな胡乱な返事をする。
「君はますます関口君に似てきたな…」
いいえ、関口先生のほうがいくつもランクが上ですよ、と言おうとして、虚しくなってやめる。
歳若き女性作家という肩書きで華々しくデビューしたはいいが話題になったのはデビュー作だけで、
その後はまったくダメだった。とにかくダメだった。
そんなわけで他の雑誌に名前を変えて若妻桃枝の密やかな楽しみだとか尚代三十二歳熟れた肌の肉欲だとかそういうモノを書いて、
なんとかかんとか口に糊をするというか、そんな感じであった。
そんなものだからうだつの上がらない感じだとか人に話を振られても胡乱な返事しか出来ないところとか、
関口君に似ているなと古書肆は哂うのであるが、関口先生は単行本だって出ているのであり私なんかよりずっと位が高い作家先生だ。
「で、君は一体何の用事があって僕のところに来たんだい」
「ああ…そうでした。鳥口さん」
「え、僕ですか?」
私の横に腰掛けてへらへら笑っていたカストリ雑誌の編集者の顔を私が見ると、鳥口守彦さんはへ?という表情になる。
「赤井書房に行ったら鳥口さんは中野にお出かけだって聞いたので」
「それでここしかないと踏んだわけだな」
「うへえ」
私はこくんと頷く。
「何ですかね、仕事のお話なら場所を変えても」
「いや…仕事じゃなくてですね。いや、仕事もしたいのですけれど」
「どっちだい」
中禅寺さんの冷静な突っ込みを受けて、私は視線を自分の膝に落とす。
「いやあの、私ですね、えっと」
今更ながらに恥ずかしくなりつつ、けれどもここでやあめた、としたとしても、
どうせ目の前の意地悪な古書肆に全て暴かれてしまうのだろう、と思うと止める気にもならない。
「私、どうやら恋をしてしまったようで」
ブッ、と、中禅寺さんが遠慮なく噴き出した。
「うへえ…誰にですか」
「いや、あの、ま、益田さんなのですが」
「……え?」
鳥口さんが、きょとんという顔になる。
「誰って?」
「だ、だから益田龍一さんです。鳥口さん親しいのでしょ」
「し、親しいというか。あの、何で」
中禅寺さんは遠慮することなく、ニヤニヤとこちらを見ている。
私は数ヶ月前から、妙な悪戯というか、嫌がらせというか、いまいちよくわからないものに悩まされていた。
住んでいるアパートのポストに、三日にいっぺんくらいの頻度で
「へへへさん相変わらずイヤラシイ小説を書いてるねさんが助平な文章を書くときはさんの女陰もぐしょぐしょなのかなヘヘヘ」
みたいな葉書が入れられているのである。
気味悪かったが行動するのも億劫で、ほっときゃそのうち治まるだろうと思っていたら、
ある日ポストの中に葉書ではなく明らかに使用済みの鼻紙がしかも鼻をかんだのではなく股間のアレを拭ったとわかる臭いを立ちこめさせて突っ込んであった。
さすがにうわあとなって誰かに相談しようと思ったのだが、
私にこんなことをする人で思いあたるのが、
私に仕事を明らかな下心を持ってして(それでも非常にあり難いのだが)よこして下さっていた編集者くらいしかおらず、
しかしもし冤罪であったならばただでさえ少ない仕事がさらに減ってしまう危機であり、
まあ今思えば彼が犯人でも仕事はなくなっていただろうから無駄な悩みだったのだけれど、無駄なことなど人生にはなにもないと私はその後に知った。
私は関口先生を通して鳥口さん、鳥口さんを通して薔薇十字探偵社を紹介された。
そこで話を受けてくれたのが、けけけ、なんて笑う益田龍一青年だったのだ。
まずは犯人がその編集者か、そうでないかがわかればいいと言う私に、
わかりましたお任せ下さい僕がキッチリ張り込んでその辺調べ上げますから、と、
真摯すぎてふざけているようにもとれる様子で益田さんは、私のアパート周辺への張り込みを約束してくれた。
がしかし、である。
その翌日に私はアパートの前に立っていた、まぎれもなく疑惑の編集者であるその人に抱きつかれ、
悲鳴を上げる間もなく首を思い切り絞められた。
ああしぬこれはしぬだめだしぬ死ぬということすら脳みそが窒息して考えられなくなるあああお終いだ、
となったとき、私を助けてくれたのは益田さん。
ではなく、ただ偶然その辺を巡回していた警官だった。
混乱して疲弊して力なく倒れこみ意識を失った私が、次に目を醒ました場所は薔薇十字探偵社の応接ソファであった。
そして私の手を握りながら真っ青になった益田さんが、
「大丈夫ですよ、もう平気ですさん、僕がついてますから」
と、いや私よりあなた平気?というくらい冷や汗を垂らしまくった顔で言ってくれた。
「その…手が」
「手が?」
私の話を至極つまらなさそうに聞いていた中禅寺さんが、早く終えてくれよというふうな相槌を打つ。
鳥口さんに至ってはもう心此処にあらずというか、なぜかぽかんと口を開けて私の話をただ聞いていた。
「益田さんの手は…すごく冷たくて、震えていました」
「格好つかないな。それで?」
「そこで私、ああこの人臆病なんだ、って思いました。
怖がりで、暴力とか大嫌いな小心者で、きっと現場にいて、私が首締められてるところも見てて。
でもそこでは足がすくんで出てこられなかった、だけど、そんな臆病でも臆病なりに格好つけたくて、見栄張りたくて…。
それで私の手を握っててくれていたんだな、って。
でもその手すら震えてて…震えてるって自分でもわかってても、手を握っていてくれたんだなって」
気付くと、意識はしていなかったのに熱の篭もった語りになっていた私が一息つくと、
中禅寺さんもハァとため息をついて、「やれやれ痘痕も笑窪だな」とつぶやいた。
「僕ァ…やめたほうがいいと思いますけどね」
やめときたまえよ鳥口君、と、中禅寺さんが身を乗り出しかけた鳥口さんを止める。
「何を言っても無駄だろうよ」
「はあ、でも…うへえ」
鳥口さんはとても複雑そうな顔になった。
「でもってどうして僕に?」
「あ、ああ、そのですね」
私はこそこそと自分のカバンの中から白い封筒を取り出した。
「その、恋文をしたためたのですが」
また、中禅寺さんが小さく噴き出した。
鳥口さんはもう本当に目を丸くして、その封筒と私を交互に見た。
「でも…あの、益田君でしょ。なんていうか。その」
古書肆は堪えることなく笑っている。
「どこが…あ、いや、うん、手ですか」
「えっと…あとは…あの加虐的な笑い方とか」
「うへえ。本当にアバタもエルボーっすね」
「エクボです」
鳥口さんは頭を掻いた。
「…で、え、ええと、書いたはいいんですが、渡すべきでしょうか。
それとももっと直接、口で言ったほうがいいんでしょうか。益田さんはどっちのほうがより、いい印象を持つでしょうか…と、聞きたかった、の、です」
私がそう言うと、二人ともなんとも言えない表情で黙り込んでしまった。
「…ええと…」
「失礼します。あなた、お客様ですよ」
すっと障子が開いて、麗しき奥様、千鶴子さんが中禅寺さんにそう伝える。
中禅寺さんは面倒くさそうに顔をしかめて、そして千鶴子さんの案内で入ってきた人影を廊下に顔を出して見るなり、
まるですぐそばで猟奇殺人でも起こったかのような凶悪な面相になった。
「ああ、すみませんどうもぉ」
…そして、千鶴子さんと入れ替わりで入ってきたその人、益田龍一さんを見て、私と鳥口さんも思いっきり凍りついた。
「あっ、あれっ、さんじゃないですか」
そして私の姿を見ると、益田さんまでもがカチッと固まってしまった。
「益田君」
そしてその石化の呪いから私達を解放するように、中禅寺さんが身体に響く声で言った。
「丁度よかった。煙草が切れてしまってね。ちょっと買ってきてくれないか、坂下の煙草屋まで」
「えっ、ええっ?僕、来たばっかりですよ」
「来たばかりだから言っている。座敷に腰を落とす前にさあ」
さあさあ行けと険しい顔で追い立てる中禅寺さんに、益田さんは呆気なく折れた。
そして益田さんの姿が見えなくなると同時に、古書肆は私のほうをふと向いて。
「行ってきたまえ」
「え、え?え、あの、もしかして」
「早く」
「わ、わかりましたっ」
ありがとうございます、と言えなかったのは、私を急かす中禅寺さんの顔が朗らかとは言い難かったからだ。
…いや、いつもあの人の顔は険しいけれど、さっきはより凶悪だったような。
そんな思いを抱きつつ、靴を履いて坂を下る。
とっ、とっ、とっ、と急ぎ足になりながら、私はようやく目当ての人の背中を視界に捉えた。
「ま―益田さんっ」
坂道のせいでもなく暖かい日差しのせいでもなく、私は呼吸が整わないし汗をだくっとかく。
「え?あわ?さん?」
益田さんがこちらを見て、それからなんとも言えない顔になる。
「あっ、あのあの、この間は本当に」
「え、いやいや別にいいんですよ、僕なんて全然…」
足を止めた益田さんに追いつく。
私は坂上で私を肴にして盛り上がっているだろう二人のことを思いながら、
ばしっと白い封筒―恋文を益田さんに差し出した。
「こ、これは私の気持ちです」
「気持ち?いや、ダメですよ、探偵料はちゃんと頂いたじゃあないですか」
…思ったことであるが。
益田さんは臆病なだけでなく、こと自分のことに関しては関口先生と同じくらいにネガティブで卑小なのではないだろうか。
「え、いや、違います、その、う、受け取ってください」
「だ、ダメですってば。そういうお心づけは…」
「だから違いますっ」
「へ?」
「こ、これはですね、そういう気持ちじゃなくて、私の気持ちを籠めたものなんです」
「だから受け取れませんよ、いくら貧乏でも…」
「ち、が…違いますってば!」
急にとてつもなく恥ずかしくなった。
私はこんな歳にもなって何を女学生みたいなことをやっているのか。
羞恥心と自棄がごっちゃになる。
そして惚れていながら、そこがイイと思いながらも、私は益田さんの鈍さを恨めしく思った。勝手に。
で―手紙を取り下げて、自分の手許でその封を荒く切った。
「わわ、さん?!」
「……」
すぅと息を吸いながら中の便箋二枚を取り出して、私は非常に余所余所しく自分の手紙を音読した。
「拝啓、益田龍一さま」
「えっ?は、はい?」
「先日は面倒ごとに巻き込んでしまい大変申し訳ありませんでした」
「い、いや」
「ですが、大変自分勝手なものと理解しつつも、私はこたびの事件に嬉しさを感じているのです」
「え?」
「ああいったことがなければ益田さまと知り合うこともなく、ましてや手を握っていただけることなど、なかったでしょうから」
「え、あ、いや、あれは」
「益田さまに手を握っていただいたとき、私は数時間前の怖ろしい出来事も忘れ、
自分の心がどこか別の次元で逸り喜びに打ち震えるのを感じておりました」
「あ、あの…さん?」
「そしてその高鳴りが日常生活をも支配し、眠るときでさえ益田さまの細い指の感触が忘れられぬとなったとき、私は確信したのです」
「あの…」
「私は、益田さまに恋をしてしまったのです」
…そこまで読んで止める。
後の文章が、自分が売れない作家であることを思い出させてくれるようなあまりに陳腐でお粗末なものだったからだ。
だらだらと長くそれでいて言いたいことがちっとも伝わってこない。
書いている私にもきっとわかっていなかったのだ。
ああ、渡さなくてよかった。
なんていう安堵と同時に現実感が戻ってくると、私は益田さんの視線を感じて突然恥ずかしくなる。
このまま死ねると思うほどにばくんばくんと心臓が高鳴り、
私の益田さんへの恋心を話したときの鳥口さんと同じように、ぽかんと口を半開きにして黙ってこちらをじっと見ている益田さんを、しっかり意識できない。
「…あ」
「僕」
なんでもいいからとにかく喋ろうと間抜けな声を出した私であったが、益田さんと声がかぶさってしまう。
それでさらに赤くなりながら、益田さんの言葉を待つ。
「僕、恋文なんてもらったの初めてですよ」
「え、も、もらったっていうか。読んだっていうか」
「僕、受け取れません受け取れませんて、とんでもなく失礼なことしてたんですね」
「い、や、それは、気にしなくて、いいのでは」
益田さんは淡々と喋るが、顔はぽかあんとしたままだ。
そして私はどんどん赤く暗くどもっていく。
「こ、これ、押し付けですよね。む、無理矢理読ませたのと同じことですもんね」
「え、ちょ、ちょっと待ってくださいよさん」
「ご、ごめんなさい、あの、あのあのあの、私本当にあの、あのああ」
「さん!」
羞恥心で視界がぐるぐるし始めた私を、また、あのときのように細くて冷たい手が掴んだ。
腕を掴んだ指がするする移動して、私の汗ばんだ手を握る。
「あ、ああ」
「…こ、これが、いい、んでしょ?」
「え、ええと、その」
「僕の手でよければ、いつだって、その」
「あ、あわああ、あの、あのですね、私、私」
もう脳みそがちゃんと作動していない。冷たく臆病なその手指を感じながら、私は混乱する。
「わ、私官能小説とか書いていながら、あ、あの、恋とか、したことなくて」
「え」
「ああ、あの、乙女であるかって言われたら、ち、違うんですけど。じゃなくて。どうでもよくてそんなの。あれ、よくないのか?あれ?」
「ちょ、ちょっと」
「いや、でもこんな、こんなの初めてで」
「ま、待ってくださいよなんの話をしてるんですかさん。恋文でしょ。手でしょ。いややっぱり貞操観念というのもまあ、どうかとか色々思いますけども」
「あ、そ、そうなんでした。手でした。あの、ありがとうございます、この手で」
そこで緊張が絶頂に達した私は、死にかけた鯉のごとく口をぱくぱくっと空振りさせる。
「こ、この手でなんですかっ。なんなんですかもう!ぼ、僕はそりゃあ妄想は好きですけどそんなずっと考えてるわけじゃあ」
そしてその間をとてつもなく危ういものと感じ取ったのか、益田さんが慌てふためく。
私は本能のままに、その愛しい手に。
つっと唇を寄せて、ささやかに舌を出してまだ冷たい皮膚を味わった。
「っあ」
益田さんが真っ赤になる。私は照れ隠しと自棄と真昼間から燃え盛る情欲で、益田さんの中指の爪を唇で挟んだ。
「…あ、ああ、あの、ちょ、さん!」
「この手が、すごく好きです」
「えわっ」
「益田さんは、もっと」
もっと演出に凝れないのかとか考えてしまう辺りが私の売れない作家たる所以なのだろうけれど、
益田さんはそんな私をどう感じたのか、挟まれた中指をくっと曲げて私の唇をめくる。
が、すぐにその手をパッと離してしまった。
「だ、ダメです。いくらなんでもこんなところですることじゃあないです、道を誤ります」
「どこならいいんでしょう」
「え?」
「どこなら、この指をくわえさせてくれるのですか?」
説明しよう。もはや緊張が臨界点に達し思考が停止してしまった私を動かすのはただひとつ歳相応の湿った色気を帯びた恋心であり、
そしてそんな私に発言や行動をさせるために模擬人格として「昨日夜まで書いてた不倫ものの人妻」が現れたのである。
そんな私をどこか遠くから眺めている自分もおり、その自分はかああっと赤くなる益田さんまできちんと見えている。
というか、そうでない実体の私が益田さんしか見えていないだけである。
「私は欲しいのです、益田さんが、この指が」
「あ、あわああ」
「いけませんか」
「い、いけなくないですが」
「こんな年増は嫌?」
「と、年増だなんて!とんでもないですよ!」
そこで益田さんはようやく自分のペースを取り戻したようにけけけっと笑った。
「僕の指なんていくらでも咥えさせてあげますから、ですからもっと違う場所で」
「たいしたものだなあ」
「「…え?」」
眩暈坂中程に突如出現した淫猥な雰囲気を吹っ飛ばすかのように、からんからんと明るい声が響く。
坂の下から。栗色でさらさらの髪の毛をたたえたその美青年?はずんずんと歩いてきて私の顔を見るなり眼を細めた。
「カマばっか」
「え、な?」
「カマはカマでこの女の人の唇と瞳しか見てないじゃないか」
「え…榎木津さん!」
「えのきづ?…こ、この方が」
薔薇十字探偵社の本来の探偵。
「まあ人の恋路を邪魔するやつはなんとやらと言うからなあ。下僕がどうなろうとどうでもいいしなあ。でもなあ」
そこで、その榎木津さんは私の顔を思いっきり覗き込んだ。
「このカマみたいな男とこんな衝立も何ンにもない所で戯れているのはなあ」
「え、あ、あのああ」
模擬人格消失。私は本来の私に戻る。
水をぶっかけられたように思考が冷えていく。
「おいカマオロカ。知らないからな」
「…え?」
この人はなんとなく言っていることがいまいちわからない。
私の理解力がないだけなのかと思ったが、益田さんもはてという顔をしている。
そしてそんな私達を置いて、背の高い美丈夫はさっさと坂上を目指して去っていってしまった。
「…とりあえず、移動しましょうか…」
ぽつりとつぶやいた私に、益田さんが頷いて歩き出す。
私の手を、その愛しい手で握ったまま。