エグリゴリの箱


ふと目が覚めるとまだ雨の中にいた。
ひとつ前の眠りの前に、いつまで経っても止まないにわか雨に憂鬱を募らせた記憶があったから、まだ、なんて思うけれど、思い返せばひとつ前の眠りの前の眠りの前も同じだった。
また雨か、という陰鬱だが少しは変化を待つ気持ちがある。それが諦めに負けそうになると、私の中の、言い表すことが難しい部分が酷い拒絶を起こす。
具体的には、身体が意識を巻き込んで眠りに落ちる。



そういうわけで大して間を空けないうちに再び眠った私は、真っ暗な夢の中に墜落する。

「……あ」

ただの闇。床も壁も天井もあるのかもしれないがすべて真っ黒に塗りつぶされているので把握できない。もう何度ここに落とし込まれたのか考えるのも面倒くさい。

……だというのに、今回はそんな暗闇に変化があった。

人がいた。遠目には白い肌と色素の薄い髪だけが生首のように浮いて見えたが、近付いていけばなんのことはない。彼は黒っぽい服を着ているのだ。
シャツの上にベストを纏い、上からジャケットを羽織って風変わりなタイまで締めた、威厳漂う制服のようなものの色は、一度認識してしまえば、周囲の暗闇とは全く異なるものとして存在を主張する。
黒い服に身を包んだ男が、厳めしい顔で虚空……というか、暗闇を睨んでいた。
フレームの太い眼鏡をかけた横顔に、ふと見覚えがあるような気がして記憶を辿ろうと思いつく。
……意識せずともできて当たり前のことを、ここのところ私の脳はさぼり尽くしていた。真面目にやっても意味がないからだ。そのせいもあってか、彼をどこで見かけたのか、そもそも記憶が事実であるのか、思い出せないままだった。
不思議なことに彼が当然のように革靴で足を着け仁王立ちしているのを見ると私を覆っていた「何もない闇」という認識が揺らぎ、少なくともそこは靴で歩くべき材質の床、あるいは地面だという意識が生まれる。
同じように、彼が睨んでいるからにはその視線の先には暗闇以外のなにか興味深い観測対象があるのではと思えてきて、私もそちらを向いたが……少なくとも私の目には暗闇が続くだけのように見えた。

「……シュレディンガーの猫、というものを知っているかね」
「えっ…?!」

私は不躾に彼を見ていたわけで、何か言われるのは考えるまでもないはずなのに、実際に声をかけられるとドキリとした。
その上声の内容が、なんだね、だとか、君は誰だ、とか言う威圧や不満ではないのに驚いてもいる。シュレディンガーの猫。

「……ああ、安心したまえ。これに対する返事そのもので君の有する知識量や知能指数を測ろうという意図じゃない……ただ、知っているか知らないか、それだけでいい」
「し、知ってます」
「そうか……」

そう言って彼はふと眼鏡を取り外した。そして黒いジャケットの懐から白いチーフを取り出し、レンズを丁寧に拭う。どうやらハンカチではなく眼鏡拭きだったらしい。

「『ああ、箱の中の猫がなんとかって』と答えたら、まあ確かに僕はその人物には量子力学や思想実験の知識はないと判断する。答えに詰まって『どこまで知っているかと言われれば』とおずおず返すようなら、実験概要を半端なところまで聞きかじった者だと思うだろう。『知っている、結局のところ観測のプロセスでしかない』などと背を反らせて答える者は、己の知識に自信を持っている。この質問への回答だけでその人物がある程度知れると言うものだろう……君はどうかね」

威圧は遅れてやってきた。この男はここまで思考を明かすことで、私の素性の開示を迫っている。

どうしよう。少しは気の利いた答えをしたい。
この男にやりこまれっぱなしだというのもなんだか嫌だ。
脳髄の迷路を歩く。シュレディンガーの猫。思考実験。箱とは宇宙。パースペクティブ。宇宙を上から観測したら……。過去に退屈に耐えかねて読んだ数式だらけの本。銀河系ネットワークからいつでもアクセスできる百科事典サイトに載っている情報。いろいろな記憶を手繰っていく。

「た、多世界解釈派、です」
「ほう……」

眼鏡の向こうの目が細められる。さらなる開示の要求だ。
緊張しながら、少しはかしこぶったことを言うために頭の中を掘り返す。

「じゃんけんを、しますよね。グーチョキパーで。たとえば私はグーを出すと決めていて、あなたが何を出すかわからない。わからないなら、あなたがグーを出してあいこになる、チョキを出し私が勝つ、パーを出し負ける、この三つの未来は、平等に、そこに存在しているって思っています」
「根拠は?」

含み笑いをしながらこちらを眺める彼に、ああ駄目だと降参する。

「いえ、ないです……感情論です。もともと、理論や力学は全然わからないんです」

私の開き直りを聞くと、男はわずかに口の端をつり上げた。

「では多世界解釈は、君の感情を守る理論武装であるということかね」
「……そうです」
「実に清々しいな」
「いろんな理屈や理学が、働いているとは思うんですけど……この世のすべてを理解して方程式におさめることなんて無理です。無理なの。私の中では」
「……君という箱の中では、猫の生死よりも、それを開いた観測者の感情がなにより優先事項なわけだ。その感情を理性的な観測者から保護するために、いわゆるパラレル・ワールド…平行世界とは異なる、量子論を根底にした多世界解釈の一席を、まずは打っておくわけだね」

頷くと、男は、そうか、と今度ははっきり、微笑んだ。

「実に単純明快だ…快活明朗だ……そうした考えをはっきりと持ち続ける者がいるからこそこんな事態も成り立つのだろうな。よいことだ」

そう言って眼鏡の男は視線を私から、また果てしなく広がる暗闇に戻した。

「何か見えますか」

ついこらえきれず尋ねた私に、男は笑みを打ち消して、ふっと意地悪な顔を作った。

「僕に見えたところで何の意味があるのかね」

本気じゃない。私をからかっている。

「君の持論を拡大解釈すれば、僕の視点で何が見えていたとしても、君の前に同じものが見えていなくてはどうにもならないだろう。観測対象が異なる時点で議論は無駄なのだ」
「ずっと暗闇しか見えないんです。もう退屈で……あなたに何かが見えているならば、見ようと努力します。見えると思えば見えます。見たいと思えば見えるんです」

彼は、ふと言葉に詰まったように見えた。
けれど次の瞬間にはまた、よく通る声で厳かに告げる。

「では端的に言おう。君の想い人の亡骸が見える」

そのときの気持ちの降下を、ただの暗闇が前触れもなく絶望の深淵となって私を、目の前が眩むほどの怒りに叩き落として平然としていることへの驚きを、絶句だとか唖然だとかそういった簡単な語句で締めくくってしまうのはあまりに悔しかった。

「あ…あ、あなたは…あなたは、何を……」

何を知っているのか。何を見ているのか。何を伝えようとしているのか。

「冗談だ。悪趣味が過ぎた。許してくれたまえよ」

「え」
「君に懸想している者がいるかどうかすら知らないよ、僕は。君の立ち位置も名前も、なぜここにいるかも。当てずっぽうと言う奴だ。重ねて言うが許してくれ」

……私の表情は、よほど分かりやすく変化して血の気を失ったのだと思う。
目の前の男は頭こそ下げず慇懃な態度だが、こちらに歩み寄る努力の見える声色で二度も謝った。

「い……いいえ……」

このまま黙ってしまえば、目の前の男と会話する機会を失う気がしてひとまず、かぶりを振りながら口にする。

「大丈夫です……あの…それで、冗談だって言うなら、何が……」
「僕の目にも深い闇が見える。ずっとこうだ。仕方なしに、君が言うように見たいものを見ようといろいろと考えているのだが……人が現れたのは初めてだ。いや、初めてだと形容するのも随分勇気のいることだ…なにせそうすると、今まで僕の辿ってきた人生と、この闇の中に包まれてからを隔絶されたものとして認識せざるを得ない。そもそも闇が闇だという確証もない。ひとまず闇だと仮説を立てているが、僕という人間ひとりの倫理、判断、常識、理屈が、これだけ濃い闇の中でどれだけ頼れると思うかね……観測対象も定義するものもないとなると想像が及ばないのだ……想像が途切れるとどうなるか。退屈が精神を蝕み出す。大きなストレスを与えて冷静さを奪おうとしてくる。この暗闇に墜落してからというもの、ずっと精神的な重圧に耐える気分でいた」
「……心細かったんですね」
「その一言でまとめられてしまうのは不本意だ」

男は眼鏡のフレームを指先で押さえると、口許を不満げに結ぶ。

「……あなたは、ずっとここにいるんですか?何かの拍子に別の世界にもど…移動することはありませんか」
「……寧ろ君がそういった前提で僕を眺めていることに驚いている」
「ないんですね」
「まあ、先立って述べた仮説を前提とした場合、そうだ」

だんだんこの男の性格が判ってきた。
が、それを顔に出せばこの男はもう一切の歩み寄りをやめてしまう予感も抱く。
なので顔に出さないように、この暗闇に怯えるもの同士として身を寄せあいたいという気持ちを最優先にする。
あなたがどんな人かはわかりませんけども……というところで、思考停止を心がける。

「……私は、そうなんです。えっと…仮定として、この暗闇は眠って落ちる夢なんです。現実というか、起きているときの世界があって、眠ってしまうとここに落ちてきます」
「……ほう」

男は目を細めて私を眺めた。視線で続きを促され、どうしたものかと悩みながらも言葉を紡ぐ。

「私の視覚情報に頼るなら、あなたは青年で、何かの制服を着ていて、眼鏡をかけてます」
「ひとまず観測対象を僕に絞るなら、君の視覚情報に誤りはないようだな。否……僕自身の記憶に基づいた僕の姿そのものを、正確に把握しているようだ」
「つまりあなたは、眼鏡をかけた制服姿の青年で間違いないと」
「そうなるね」

どうにも、今見ているもの、聞いているものが正確な真実だ、なんていう根本的なものを手探りするというのはひどく疲れる。

「……ひとつ訊いておきたい。ここへ落ちてくるのが眠りと同時ならば、逆に覚醒するとどうなる。君はこの空間でも眠りに落ちて、ここに身を横たえているのか。それとも……何らかの手段を持ってして……『消える』のか?」
「あっ……えっと……」

不意をつかれた気分になる。

「起きると、決まった景色の中で目が覚めるんです。それでまた眠くなって……ここに……」
「その景色の中とやらにいる間、こちらでどうなっているか……逆にこちらにいる間、景色の中でどうなっているかは判らない、ということでいいか」
「…………」
「……いや。ここでこそ君の言う多世界解釈を採用すべきか……」

黙ってうなずいたが叫び出したい気分だった。
自分の中で膨らみかけていた疑念と同じものを、青年も抱いているらしい。
それが言葉の端々、私に問いかけてくる声の色で段々と鮮明になってくるのだ。

「……君が訊ねる前に僕から言っておこう。ここをどう思う」

彼にとってその問いかけがどれだけ勇気を要したのかはわからない。

「……答えたら終わりだと思いませんか」
「…………」

けれど私は言えなかった。言ったら終わりだ。言葉にしたら何か大事なものがこの身の中から逃げていく。

「……そうだな。言わないでおこう」

彼の返事は、互いが抱く認識に相違のないことを示していた。

「しかし観測対象があるというのは大変よいことだ。孤独を苦とは思わないが、退屈はストレスとなる」

彼はそう言ってポケットからまた眼鏡拭きを取り出したが、今度はレンズを拭うことはせずにただその白い布を眺めている。

「これは僕の認識では眼鏡を拭くものだ。きめ細かく柔らかい布だから、正しく使えばレンズに傷を付けることがない。とても便利だね」
「正しく……」
「いくら眼鏡拭きでも、乾いた状態で息を吹きかけるなどして乱暴に拭えばレンズに傷が付く」
「あっ…よく、レンズにはぁーって息かけて服の袖で拭うの、見るんですけどいけないんですか」
「愚の骨頂だ。そんなことをする者は己の身だしなみにも興味が薄いのだ。眼鏡が必要になった原因も忘れているに違いない」
「そんな、手厳しい」
「目は一生ものだ。それを磨耗させたから眼鏡という外付けの装具で補っている。例えばそんな粗忽者が車の運転手だとするだろう。彼に恨みを持つ者が眼鏡を度数の異なるものにすり替えておく。手癖で眼鏡のありかを探って適当に掛ける。車を発進させる。どうなる」
「事故」
「それだけの想像が及ばない者に未来はない。当然のように身につけているものほど確認を怠ってはならない。隙を作れば突かれるように出来ている」

その物言いで、この男がどんな暮らしをしていたか想像できる気がした。
気がしただけで具体的な憶測は立てられないが、眼鏡をすり替えられて交通事故、なんてことが日常的に有り得るくらいには敵を作っていたのではないか。

「話を戻そう。僕からするとこれは眼鏡拭きだ。だが君からするとどうかね……」
「……ハンカチか、眼鏡拭きか。あなたが眼鏡を拭いたのを見て、眼鏡拭きだと…認識しました」
「そうだろうね。認識と観測を得て物体は初めて役割が成立する。眼鏡の存在を知らない者が見ればハンカチだと思うだろう。眼鏡という概念を持たない者からすれば触れてみて布が『ふつう』と違った手触りであっても、ハンカチのままだ。実際にハンカチとして使用しても何ら問題はない」

男は微笑して、その真っ白い布地を丁寧にポケットにしまう。

「だがそんな仮説を頭の中で立てたところであまり意味がない。僕にとってこれは眼鏡拭きなのだ。実際にこれで眼鏡を拭いてみたがやはり眼鏡拭きだった。レンズの曇りがよく取れた」
「……ふふっ」
「笑うところではないよ。見るに君は眼鏡を必要としない者だろうから僕とは認識が異なるだろうが、眼鏡拭きとしてあるものを他のもとのして使おうとするのはなかなかに難儀だ。例えたようにハンカチにするとして、理性と知識が歯止めをかける。勿体ない、と。そこが僕の限界なのだ。これをただの布として別の用途にもちいることを躊躇する」
「……でも、他に誰かが、例えば私が……ここにいれば、実際に眼鏡というものを知らない辺境の民族の話だとか、失明して視力をなくして、眼球がうろうろするのを人に見られないために色眼鏡を掛ける人の話だとかをし始めることができる、暇つぶしができる……ってことですね」
「随分と悪趣味な例えだが…そうだ。どうしても一人では限度がある。こんな暗闇なら尚更だ。しかし複数人ならば集団思考が可能だ」
「……なにを考えましょうか……」

私が後ろ向きなことを言うと、彼は言葉尻を引き取らないまま沈黙した。ついさっきこの空間が一体何なのかについての言及は互いに禁じた。だとしたらなにを考えよう。なにを口にして連想ゲームをしようか。

「……聞いてもいいですか。さっき、どうしてあんなことを言ったんですか……」

君の想い人の亡骸が見える。
青年は私の例え話を悪趣味だと言ったが、それより前に彼はもっと悪趣味なことを口にしている。
後のフォローを信じるなら当てずっぽうなのだろうが、それにしては急所を一度で打ち抜いた。

恨めしさを籠めた視線で横顔を見つめると、やがて彼は観念したようにため息を吐く。

「……何とか君から、強い感情を引き出せないかと考えていた。君の姿は、僕の眼識を信じるのであれば若い女性だ……例えば僕が想像しているようなものが、この暗闇に含まれていたとする。そこに姿を現す女性の裏にあるものを想像すると、最も心を揺さぶる答えは何かと考えた。その結果だ」
「……望む結果は得られなかったんですね」

私は傷つけられ損ということになるが、それを責めたいわけではない。

「僕の憶測の幾つかは外れた。君はそこで憤慨に任せてこちらを責めるような者ではなかった」
「……そう見えました?」
「外れたと言っているだろう」

水を差そうとすると、彼はきっぱりした口調でそれを絶つ。

「君が我を忘れて叫ぶなら、まあ面倒なことだが、何か起こるのではないかと想像した。あわよくばこの暗闇を暗闇たらしめている何かが壊れやしないかと期待した……」
「壊れる……?」

私が小さく呟くと、彼は眼鏡のフレームに指先を添えた。

「……僕はこの闇の中で一人、叫んだり暴れたりする事ができない。先立って眼鏡拭きの例えを出したがそれと同じだ…理性が僕を引き留める……」

要約すれば「みっともなくてできない」と言ったところなのだろうか。
……いや、根幹にあるものがそんな羞恥心や美意識だとしても、時間の感覚さえ曖昧な暗闇でずっとそうしていれば、感情を乱した瞬間に自我を失う、くらいの恐怖が累積していてもおかしくはない。

「だが、もしこの暗闇が概念的なものでしかないのだとしたら、それを壊すのは大きな感情の『うねり』しかないとも考えていた。君が泣き叫んだのをきっかけにして、例えば暗闇に亀裂が入って景観が変化する……こんな想像は夢想的すぎるかね」

……黙ってかぶりを振った。
つまり彼は、ここからの脱出を願っている。その先にあるのがどんな世界だったとしても。
軽々しく茶化すのは難しい。

「……叫んでみましょうか」
「ああ……いや、なんというか、そう前置きをして叫ばれると違う。わかるかね」
「ええ……違うんでしょうね……でも、どうしましょう」

互いにまた、黙り込む。
が、私より先に彼が口を開いた。

「……不思議な気分だ。情動が何かを変える…そんな気持ちにすがりついている……これではまるで……」
「まるで……?」
「まるで、あの人の善すぎる局長だ」

彼は笑った。ちょっと卑屈な笑みだった。

「君は仮にも多世界解釈派を自称しただろう?ならば少し聞いてくれたまえ……とある世界…君の言葉でジャンケンが行われた瞬間の世界で、そうだな…ここを『あいこ』になった世界としよう。同時に僕が敗北した世界と、勝利した世界がある。だが僕は、この中のうちの一つしか選べない。選べない世界は認識できない。だが存在している。認識できないだけだ……」

頷きながらも、ちょっとまずいことになったな、と思っていた。
彼の言うとおり、私は理論武装の道具として聞きかじりの知識を利用しているだけだ。上をいく知識量で圧されるか、深いところを突かれるかすると崩れる。
……つまり本当に賢い人が賢い話を始めてしまうと、ついていけなくなるのだ……。

「だが数奇な運命を辿り、僕は『あいこ』になったこの世界で、『勝った世界』と『負けた世界』のことを認識することが可能になっている……簡単に言えば……」

そこで彼がハッとして口を噤んだので、私はこんがらがりそうになる思考を停止させることができた。

「……待て。そうか」
「どうしたんですか……?」
「……そうか。そうか!いや…いや、ああ、集団思考というのも悪くないな!」

彼は自分の手を叩いてパチンと音を立てた。

「僕の仮説も君の仮想も……誤りだ」

誤りだ。
彼は力強く己を否定した。

「……ああ、突然大声を出してすまない。だが合点が行ったぞ、ははは!ブレインストーミング……悪くないな」
「ど、どういうことですか…!」

彼はふと眼鏡を外すと、自分の目頭を指で揉んでから再び掛け直す。
そして私を、さっきまでとは違った、何らかの確信を持った自信ある面貌で見据えた。

「君は眠りに落ちるように『この世界』に落ちてくると言っただろう。つまり『別の世界』があると……その上で、ここは何らかの選択を迎えた後の世界なのだと、そう認識しているだろう?」
「あ……っ?!」

その言葉を受けて、私の諦観も変化し始めた。

「視点を変えてみたまえ。なぜ君は『ずっと同じ景色』の世界とこの世界を行き来することが可能なのかね。これがただの夢であるというなら僕と君が認識を共有できるのはなぜだ。なぜこの世界に何の変化も訪れないのか。そもそもここは我々が認識する世界から地続きの世界であるのか」

……ジャンケンをする。グーチョキパー、相手が何を出してくるかわからない。勝つか負けるか、引き分けか。

「認識のパースペクティブを一段階上げてみるとしよう。ここは『上位世界』なのだ」

どの結果になっても、結果が出るより前の私が抱いていた他の結果が消えたわけではない。ただその次元にいる私が認識できないだけだ。

「僕には勝った世界と負けた世界の記憶がある……いや、無理に『ジャンケン』になぞらえて二分するならそうだというだけだが…それが落とし穴だった。二つの世界の記憶があるから、どちらにも当てはまらない自分は、三つ目の世界に落ち窪んだものだとばかり思っていた。そもそもこれが記憶であるという確証はない……予知であってもおかしくはない」
「じゃ、じゃあ私が…現実だと思ってるあっちの世界は……」
「無論現実だろう。だが多数存在する世界の一つでしかない。僕はすでに見た。いくつかの結果を。未来を。君はおそらく中途半端に覗き見ているのだ」
「私たち……いま、世界が選ばれる瞬間で…現実世界を、上位世界から覗き込んでるって……こと?」
「それ以外に仮説が立つなら聞いてみたいな」
「私は、あっちの世界を、選びそうになってるってこと……?」

……あの人のいない世界を?

「ジャンケンで負ける世界があって…同時に勝つ世界がある。また同時にあいこになる世界もある…」
「そうだ。あいこになっても再び拳が振られればまた世界は選択される。勝つか負けるかあいこか。そこであいこになっても再び選択される……勝ったからと言って、また逆に負けたからといってそこで『終わる』のが全てではないな」

無限に分岐し選択される世界を、ほんの一瞬、一次元上から俯瞰しているのだとしたら。

「……ここは、終わりじゃない。ましてや死後の世界でもない…私が世界を選ぶ瞬間迷い込んだ、一つ上の次元にある世界……」

やがて迎える未来の、ほんの一瞬の「ためらい」でしかない。
その一瞬で……もし、選べるのだとしたら。
どんな未来を選択しても、その収束する先は同じだとしても、今ここにいる自分が選べるのだとしたら……。

「……あの人のいる世界を選びます。あの人の隣にいる世界を……」
「そうするがいいだろうね。上位世界に迷い込む理屈の詮索は、後からでも構わないなのだから。こんなところに居座り続ける必要もあるまい」
「あなたは……どんな世界を選ぶんですか?」

彼は、その一言を待っていたかのようにニヤリとした。

「あいこの世界を選ぶとするよ」
「……見えない未来を?」
「ああ。一つの世界で敗北して死んだ。一つの世界で勝利して……『ひとまずは』生きているようだ。しかし考えてもみたまえ…人などいずれ死ぬ。勝利した世界を選んだ直後に、僕がすぐさま死なない保証などないのだ。またこうして未来を選択できる上位世界に都合よく渡れるとも思わない」

「死んでも生きても、パースを上げて宇宙から俯瞰したら同じ……」

「ならばひとつ運試しといこう。博徒を気取ってみてもいいと思わんかね」
彼が腕を振り上げる。その手には眼鏡拭きがある。

「……これで眼鏡を拭うとしよう。今の視界が『曇っていない』とは限らないわけだ。この白い布で正しく拭いて……もう一度掛けてみるとしよう」
「見ようと思えば見えます」
「その通りだ。見えないのは見たくないからだ」

彼は眼鏡を外すと、言葉通りに白い布でレンズを拭きあげる。
それをもう一度掛け直し、私を見て……すっと目を細めた。

「……感謝と謝罪は重ねるほど価値が低くなっていく。そんなことを常々思っているのだが」
「…………」
「君との会話は、悪くなかったよ。集団思考も時には窮地を切り抜けるものとなる……何事も追いつめられてみないとわからない」
「……ええ」
「……君の選択の先に、大きな幸福があればいいと思っている」
「素直にありがとうって、言ってください」
「……その手には乗らないぞ。君は僕がむきになって反論するのを狙っているだろうからね」
「あははっ……」
「……さて……認識するとなんてことはない。こんな形だったとは」

彼は……今まで暗闇だったはずの世界をぐるりと見回して……ふと、虚空のなにかに手をかけた。

「選択の先に何があるか、見てくるとしよう……」
「あっ……!」

……映像で見た『居合い』の動作によく似ていた。
彼は虚空の刀を手にして……そして虚空を切り裂いた。
すっと光が射し込んで、暗闇は絶対的なベールを失う。



私が眩しさに目を瞑って、再び目を見開くそのときには……すでに彼の姿はなかった。



「……あぁ……!!」

同時に私も、自分がいるのが暗闇ではないと気がついた。
一瞬の驚きが頭の中に飽和していき……それでも視界が眩しさに慣れる頃には、すでに確信していた。
愛しい人が、私の手を握り返してくれることを。




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