捧げるそぶりで与える(黄瀬)


……ぼんやり、ボールがゴールの中に吸い込まれていくのを見ていた。
体育は休むからルールもろくに知らないが、周りのざわめきでいったいどんな状況なのかくらいは掴める。
けれど……ぴーっ、と、大きなブザーが鳴ると同時に会場が静寂に包まれる中でも、
私はその気迫に参加できずにいた。


……勝手に相手の家に行くなんて、マナー違反もいいところだと思う。
便器は便器らしくおとなしく固定された場所……私の場合は自分の部屋で黄瀬くんを待っていればいいのであって、
勝手に動き出して「使ってください!」などとアピールするのは迷惑千万でしかない……と、わかっていたのだが。



「……え、なんで」

だいぶひなびた様子でとぼとぼ歩いてきた黄瀬くんが、彼の家の前にたたずむ私を見て唖然としたのはしごくもっともだ。

私だってふつうだったらこんな厚かましいこと絶対しない。
けれども、あのまま黄瀬くんが燃えつきてしまいすべての邪念から解脱し菩薩のような生活を送ってしまうようになったら困る。非常に。
私相手されなくなる。

「なんで……ここに」

慰めにきたの、残念だったね、頑張ったね、かっこよかったね。
そんなふうに言うのは私の役割じゃないと、しっかりわかってる。
だいたいそんなこと心にも思ってないし。

「私……」

寒空の下、けっこうこれはこたえた。
制服のスカートをまくり上げて、下着を身につけていない……タイツに包まれただけの下腹部を黄瀬くんの前にさらす。
そのタイツもオールスルーのを選んだし、スカートに隠れる股ぐらは自分でびりびりに破いたし。

「我慢できなくなっちゃった。ねえ……」

……黄瀬くんはがくっと肩を落として……そしてその後にくっくっ、と、笑った。

「いーッスよ。ただ疲れてるから、終わったらすぐ帰ってよ」
「うん……ありがとう」

冷えきった大きな手が私をひっつかみ、初めて入る玄関のタイルに乱暴に叩きつける。

ああ……やっぱり、黄瀬くんは私の理想の人だ。

頑張れない(今吉)


あとちょっと、もう少し……痩せたい。
夏服になる前に、二の腕を若い樹の枝のようにしなやかに。
太ももから足首までを、水鳥のようなあやうさを孕んだ細さに。
胴回りも折れそうなくらいに薄く薄くスキニーにして、
首から上だって年相応のなめらかさだけがある上品さにしたい。

あと数キログラム痩せればその願望は叶うはずで、
そのためには砂糖と油脂を絶って、毎日しっかり歩いて、寝る前のおやつなんて言語道断で……。
ううん、そんなに畏まった考え方をしなくてもいい。

ちょっとだけ食べる量を減らして、
ちょっとだけ歩く量を増やせばいい。
たったそれだけ。
それだけで……私の願いは叶うのに……。



「どうして……私は出来ないんでしょう……」

部屋を訪れた翔一兄さんにそうつぶやくと、しゃあない、と返された。

「自分、今何飲んでん」
「え……え、あ」

口をつけていたマグカップを、慌てて離す。
すると翔一兄さんは軽くかぶりを振って、ちゃうちゃう、といかにもわざとらしい手振りをする。

「飲むなとは言うてへんやん、何飲んでんか聞いとるだけやん」
「ち、違くて……あの、これは……」

……ミルクと砂糖がなみなみ入ったミルクティー。

「ええ香りや。紅茶好きなん?」
「……う、うん、好きで……」
「せやからなんでそんなビビリ入っとんねや、ワシなんも言うてへん。好きやから紅茶、飲んでんねやろ」
「……せ、責めないでください……悪いのは、わかってるんです……」
「悪いて。何が」
「こ、紅茶……に、お砂糖、と、ミルク、入れて、いっぱい飲んでるくせに……」

痩せたいとか言うの、馬鹿だよね。

「ホンマもう、おえんわ。この子は……」

翔一兄さんは胡散臭く笑うと、ほんのちらりと、それでも私に自分の視線が「そこ」に留まったとわかるように、
見せつける動きでベッドの片隅のゴミ箱を一瞥した。
欲に負けて貪った洋菓子の包みが入ったゴミ箱を。

「あっ、あの、あのそれは!」
「ワシは紅茶よりもアレのがアカンと思うわ」
「やです…っ!ゴミ箱なんか見ないで……!」
「ワシが見ーひんかったら食ってへんことになるん?」

…………。

「なんで出来ないんだろう……ほんのちょっと、ちょっと我慢するだけなのに……」

言いながら情けなさに辛くなってうつむいていると。

「泣かんでええ、ワシはちゃーんと解っとる。自分が辛いの知っとる」
「……しょ……」
「そんな辛い、惨めェなおのれの事が好きで好きでしゃーないってのも知っとるで」

しょういちおにいちゃん、と卒業した呼び方で彼に縋り付きそうになった瞬間に、
いきなり鈍器で殴られるくらいに重たいことを言われてしまったものだから……私は唇も手の平も空回りさせるしかなかった。

「なんで出来ひんかって、そら必要あらへんからや」
「で、でも……痩せないと……」
「勘違いしいなや。何も『ジブンはそのままでもかわええ』なんて言うてへんで」
「……!!」
「本気で焦っとらんからや。焦るフリしとるだけ、このままズルズル上手ぁにやってこ、とか思てんねん」

打ちひしがれすぎてその場で黙り込むしかできない私の頬をゆっくり撫でて、翔一兄さんは優しく笑う。
それはもう……優しく。

「脱ぎいな」
「え……?」
「服全部、裸になってみ」

私が声を上げそうになると……翔一兄さんは、ああ違う違う、と言いたげに額に手を当てた。

「ワシが裸見たいからやないで。ホレ、アレやろ言うてるそばから、痩せないとー、やこー言うて、今のままでもワシに見られたがる身体しとると思てんねんな」
「……!!」


そう言われてなじられると、裸にならないことの方がずっと恥ずかしかった。
……視線がくすぐったいとか、照れくさいとか、そういうものは、感じずに済んだ。
私がボタンに手を掛けた瞬間から、翔一兄さんはこちらを振り向きもしなかったから。

「どや」
「……う……う」
「うう、やのうて。どや?」

言われるまま、全裸で、何も隠すものがない状態で……部屋の全身鏡の前に、立つ。

「……い」
「聴こえへんて」
「……く、い、です」

痩せたい痩せたいって言いながら、拒んでいた。
拒んでいることすら自分では気づかなかった。
私は、自分の裸身をまじまじと、まっすぐに見つめたことがなかった。

「み、に、くい、です」
「何て。も一回」
「……醜い、です……」

夢見てばかりでちっとも自分のためにがんばれない私の身体は、己の抱く理想からかけ離れていた。

「……う、っ……」

眼球の表面ぎりぎりに押し留まっていた涙が、堰を切ったようにポトポトこぼれ出した。
そのまま私の、ちっとも思い通りにいかないおへそに流れていく。

「ああ、そねえな顔しいなや。辛気臭うてかなわんわ」

あなたがさせたくせに。
八つ当たりだと解っていてもそんなことを言いたくなるけれど……結局言わずに黙り込む。

「落ち込むことあらへん」

いつの間にか翔一兄さんが涙をこぼす私の傍に立っていた。

「ほんま……いや、頑張ればええねん」

私の身体を上から下へ、ツーッと眺めて含みある物言いをしてから。

「休み毎に来たる。そんたびおんどれ脱げって言うたる」
「……そ、んなの……」
「ほうか、嫌か。ええで。ワシが見たい訳やあらへんから」
「う……う」
「頑張り。健気な子ぉは、嫌いやないで」

好きでもあらへんけどな。
まあ今の自分よりは、好きかもしれへんな。

翔一兄さんは……笑った。


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