世界規格


部活動中の体育館の出入り口で、なにやら影がゆらゆらしていた。
荒木雅子が近づくと、影はびくりと大きくはねて……それでもやっぱり、出入り口付近をふらふら。

「おい」
「……っ!!」

いかにも誰かに気づいてください、声をかけてくださいと言いたげな様子だったのに、呼びかけた瞬間に影…少女はびくんと跳ねて、雅子を遠慮がちに見つめた。

「……ああ、えっとお前」

いつも紫原と一緒にいる少女。
「あ、アツシくんの彼女です」
「お……おう」

自信のない表情なのに、彼女です、という言葉には恥じる様子がない。

……ある時この娘の紫原に対する態度を見たとき、雅子は軽く絶望したのを思い出した。

「のどかわいたー」
「おはよーアツシくん、ほら!あったか〜いココア買ってきたよ〜!」
「おなかすいたー」
「あっ、朝のおやつはもう食べちゃった?えへへ、買ってあるよ!じゃじゃーんコンビニ限定あずき抹茶チョコ」
「ゴミ出たー」
「食べ終わった?おいしかったー?はい、捨てとくからね」
「牛乳こぼした〜」
「ああ、こすんないこすんないの!ほらほら、こうやってお茶を含ませたハンカチでぽんぽんって…ほらとれた!」

……紫原が徹底的に怠惰な生活を続けるのは、なにも彼本人の性格だけではないと雅子は悟った。
……きっと常に、彼女のようになにからなにまで世話を焼いてしまう人間が傍にいたのだ。

「もーアツシくんかわいいっ、でもこれくらいちゃんとしないとだめだよお」
「ん〜……俺がしなくても、してくれるでしょー?」
「そうだけどー!私がアツシくんのことしたげるけどねっ」

お前らなぁ!!と怒鳴り散らしたい気持ちも、気づけば失せていた。

……で、そんな彼女が涙ぐんだ瞳でこちらを見ている。

「紫原を呼ぶか?」
「い、いえ違うんです。荒木先生にお話があるんです」
「あたしに……?」

少女は顔を真っ赤にしてうつむく。
そしてぼそぼそと小さくつぶやき始めた。

「荒木先生なら、私とアツシくん…じゃないっ!あの、男女の交際は不純だとか、決めつけないですよね?」
「あん……?あぁ、まぁ……それは」
「あのあの、それでいて、悩める人生の後輩の相談に、乗ってくださいますよねっ」

人生の後輩、相談に乗って。
その言葉の響きは、知ってか知らずか、雅子の姉御肌気質をくすぐるものだった。

「まぁ、聞けることなら」

そう言って軽く胸を張って、雅子は少女の言葉に耳を傾けたのだが……。

「……このあいだ、アツシくんと初え……え、エッチ……だ、ったん、で、す」
「……は?」
「だ、だから、そういうの、あるでしょう?!荒木先生なら、ダメって言わないでしょ?!」
「いや、ま、そりゃまあ……」
「でも……入らなかったんです……」

そう言ってシクシクと、本格的に泣き出してしまった少女を前に、雅子は。
ひとまず学生のうちは手をつなぐ程度に〜、なんていう建前は捨て、真摯に向き合うつもりで思考を巡らせる。

「えっと、つまり……上手く行かなかったって?」
「あ、アツシくんのが大きすぎて、コンドームが入らなかったんです……」
「…………は?」

秋田って都会なんですねっ、私青森の湖ある方から来ましたけど、水族館も動物園もあるし、
マニアックなものもどんきほーてとかいおんもーるの中のびればんにあるじゃないですかぁ!
うちの実家ひどかったですよ!だってコンビニまで歩いて二時間ですもん!
しかもそのコンビニも夜二十時にはしまっちゃうの!
牛乳と卵と豆腐と、お菓子を売ってるトラックが週に何度もやってくるんですよ。
……という地域格差トークをかまされてなんだか悲しい気分になると同時に、それがどう初体験と結びつくんだと急かしたくなったが、まぁ、少女の悩み。
雅子はゆっくり聞いてやる。

「それで、私、どんきにゴムを買いに行ったんです……」

え、一人でか?とか、そういうものは男に用意させろ、甲斐性ってもんが……とかいう問いは、きっと紫原と彼女のカップルには無意味なのだろう。

「は、恥を忍んで、店員さんに質問までしたんです。こ、これが一番大きい奴ですか?って……」
「…………」

ディスカウントショップで好色な視線に舐め回されるこの娘を思うと、不憫を通り越して笑えそうになってくるのはさておき。

「て、店員さんめっちゃ笑ってて、あの、笑いを隠すのが難しかったから、いっそのこと笑ったれーって思ったんでしょうけど……」
「……んで?」
「うーんこれが入らないなんていう男はいないと思いますよー、そんなねえ、あんまり彼氏に期待しすぎたら実物見てガッカリするんじゃないですかー?……なんて言われて……」
「……いや……それ、で?」
「あの、だからつけようとしたんです。つけてあげようとがんばったんです」
「…………」
「でも、まず最初にかぶせた時点でぱんぱんだったし、長さが足りなくて、半分しか覆えなかったんです!」
「……いや、あの」
「それでもおさえながらならなんとかなるかな……って思ったけど、途中からアツシくんがすごく痛がっちゃって…き、きつすぎるせいであ、アソコが…鬱血しちゃってて…」

「荒木先生!私はどうしたらいいんでしょう?!お互い気持ちも固まってるし、ちゃんと避妊もしようとしてるんです!なのに……なのにっ……!!」

この世界のチッポケな規格が私たちを引き裂こうとしてるんですっ!!
そう言ってだらんだらんと涙を垂らし続ける少女に、雅子はうまい言葉を持てずにいた。

ゆめのケーキ屋さん


ハッ、と、霧に包まれていた意識が覚醒する。

慌てて周囲を見渡すと、そこは庭園のようだった。
きれいに切りそろえられて垣根のようにそびえ立つ紫色のバラの花と、その蔦。

「ここ、どこ……?」

美しい景色に心を奪われるより先に、自分の立ち位置がわからず不安になる。
……と。

「やあ、こんなところにいたのかい」
「氷室先輩……?」

声の方を振り返ると、豪華な花束を持った一年上の先輩が立っていた。

「ここはどこですか?それから、そのお花は?」
「アツシのお店に行くんだろう?なら、この花は君に預けるよ。君から受け取った方が、アツシも喜ぶだろうからね」

柔らかい口調だが、こちらの問いにはちっとも答えてくれない。
強引に大きな花束を押しつけると、じゃ、と氷室は立ち去ってしまった。

「アツシくんの、お店……?」

相変わらず現状把握は出来ないが、妙な確信があった。
このまま真っ直ぐ進めば、アツシくんがいる。


「あれ、どしたの」
「アツシくん!」

予想は当たり、しばらく歩いていくと、お菓子の焼ける甘い匂いのする一軒家があった。
その扉の前に、白衣……なんだか、パティシエの制服に見える……に身を包んだ紫原がいる。

「あの、この、お花……」

氷室先輩からもらった、とは言えなかった。
なんとなく、という気持ちではなく。
……まるでなにかに制約されているように、氷室先輩、という言葉を口に出来なくなっていた。

「お祝いのお花?くれるの、オレに」
「う、うん……」
「ありがとー。ほら、中に入って」
「え……中って……」

疑問を抱く間もなく、背を押されて部屋の中に前のめりに上がり込む。
色とりどりのケーキが飾られたガラスケース。
香ばしく焼き上げられたクッキーが、可愛いバスケットに包まれて置いてあるテーブル。
いくつかのテーブルとイス。

「ここ……ケーキ屋さん?」
「そー。今日、オレのケーキ屋さんが始まるの」
「ええっ?!アツシくんのお店なの?!」

そこで、花束の意味を理解する。
そうか、開店祝いに持っていけという氷室先輩の気遣いだったのか……。

「うん。それで、最初のお客さんっ」

そう言って彼は、へらへらとこちらを指さす。

「お客さん……私が?」
「うん。だって、今日誕生日でしょ?」
「あっ……」

そうだ、今日は私の誕生日だ……。
忘れていたわけではないが……まさかこんなところで祝ってもらえるなんて。

「すっごく大きいケーキ作ったんだ〜。待ってて」
「う、うん……」

紫原が席を外したすきに、お店をきょろきょろと眺める。
まるでお菓子のおうちだ。
きちんと木材で建てられているし、奥を見るにキッチンもあるのだろうけど。
ところ狭しと飾られたケーキ。
ギフト用に、小包にされた焼き菓子がどこを見ても置いてある。

「ぜんぶ、アツシくんが作ったのかなぁ……?」

これだけの量を……?

「お待たせ。ほら、ケーキ」
「あっ、ありが……とぉあぁあああぅ?!」

ガコンガコン、とダイニングワゴンで運ばれてきたのは……てっぺんが天井につきそうなほど高く、土台の横幅は自分の肩よりもありそうな巨大ケーキだった。

「ちょっと、こんな大きいの……!!」
「大丈夫、食べきれなかったら、オレが食べてあげるから」

いや、量よりも……どうやって作ったのだろう。

「途中で味見したくなって大変だった〜。でも、これはあげるって決めてたから」
「あ……あり、がと……」

そう言うと、いつの間にか紫原と二人で大きなケーキナイフを握っていた。

「ふたりで切ろ」
「ま、待って…私、届かない!」
「むー……あ、じゃこうしよ」
「っつわぁ?!あ、アツシくん?!」

……紫原は、軽々と肩車で恋人を担ぐ。
しっかりと自分の身体に身を委ねたと確認してから、再度ナイフを握らせる。

「これなら、出来るでしょ」
「う……うん……じゃあ、切っ……あぁあ?!」
「あっ……!」

一瞬だった。
バランスを崩して、身体が巨大なケーキの中に埋まっていくのは……。

「ちょっ、ちょ、大丈夫?!このままじゃクリームで窒息しちゃう!」
「ち、っそく……むぐっ、ん……甘い……!」

必死に口を開けば、酸素と一緒に甘い甘いクリームが入ってくる。
あなやクリームで窒息という事態も冗談で済みそうにない。
もがけばもがくほど柔らかいスポンジが裂けてゆき、底へ底へと埋まってしまうし。

「捕まって、ほら!」
「んぐっ……!」

なんとか紫原が伸ばしてくれた手で顔を出すことが出来た。

「ごめん……ケーキ大きすぎた?」
「う、ううん……」

しばし、くずれたケーキとクリームまみれの少女と、巨大な男で途方に暮れていたが。

「……食べ物、粗末にしちゃダメだかんね」
「んっ……?!あ、アツシくん?!」

次の瞬間、紫原までクリームケーキの中にダイブした。

「これで中から、ふたりで全部食べてけばいーのっ」
「でも、クリームまみれに……」
「大丈夫、全部オレが舐めるから〜」
「ひやっ、あ、アツシ……くん……!!」

言うなり紫原は、いつのまにか裸になっていたきりかの身体を抱き抱え、その肌にこびりついたクリームをペロペロと舐め始めた。

「やっ……あ、やぁっ、それ、クリーム舐めるっていうか……や、だ、め…あ、アツシ、くん……!!」



「……なんの夢みてんだろ……」
「ん……ぅ、あつしくっ……ケーキ……やっ、限界ぃぃ……!」

自分の部屋で居眠りしてしまった恋人を眺めながら、紫原は首を傾げる。

「ねー……起きて」
「やぁ……スポンジ…そんなの、胸…もりつけちゃ……」
「…………」
「や、やだ……あぁ、ん…エッチなケーキ屋さん……に、なっちゃ…ふ……」
「……ちょっと」

そんなもの存在するのだろうか。
あまりに突拍子もない寝言に、思わず肩を揺らすと。

「アツシくん……大好きぃ……!!」
「…………!!」

肩にやった手に力が籠もって、そのままのし掛かってしまった紫原を、誰が責められようか。

なんぼめば


「なんだ、ここにいたの」
「あっ?!アツシくん!!」

背後から……というか頭上から大好きな恋人の声が聞こえて、は喜ぶより先に鼻頭を手で押さえてしまった。

にとってはバスケ部の試合応援はもはや、無敗を誇る紫原の活躍を見に行くのと同義だった。
東京の大きな会場で全国大会、となっても、「アツシくんのカッコよさが全国規模になる」程度の考えだった。

……まさか紫原や先輩たちが負けるなんて、夢にも思っていなかったのだ。

ブザーが鳴り響いたと同時に手洗い場に逃げ込み、枯れるほど泣いた。
ある程度涙を流し、喉につかえていた何かがスッと軽くなると、ようやく他のことに頭が回るようになって……。
ぜんぜん関わってない私がこんなにびーびー泣いてるんだから、アツシくんはどれだけ泣きたい気持ちなんだろう。
そう考えては胸がザワザワして、落ち着かなくなった。
今すぐ会いたい気持ちと、かける言葉がない不安。
それには今日の夜行バスで秋田に帰るのだ。
……最後に一目でいいから、アツシくんの顔が見たい。
その思いでようやく手洗いを飛び出し、必ず通るであろう通路で彼氏の姿を待ちかまえていたのだが……。

「見に来てくれてたんだー」
「う、うん…あの、先輩たちは?」
「まだ中〜。なんかオレ、あーゆー空気イヤだから出てきた」
「そ、そっか」

……紫原は間延びした口調で言うと、会場内を指さした。
「バスで帰るの?」

「うん…私は東京駅に行って、そこからバス……」
「あー、もう帰っちゃうんだ」
「う……うん……」

思ったほど気にしてないのかな……なんては考える。
敗北がまったく堪えてないはずはないが、の想像ほど深刻でもなさそうだ。

「ほら、あっちで待っ……て?!」
「痛っ!!」
「あっ……」

ふと腕を上げて曲がり角を指そうとした紫原の手が、の頭を弾く。
は反射で声を上げたが、さして痛くもなかった。軽い事故だ。

「……ゴメン」
「え?へ、平気。痛くないよ…そんなに謝らなくても」
「…………」

……だというのに、紫原はそれっきり下を向いてしまった。
下、と言っても元々の頭の位置が高すぎるので、にはちゃんと顔が見える。
どこか呆然とした様子で押し黙る紫原を見て、何か言わなくちゃ、と焦る。

「あ、アツシくん……私…その……ごめん……」
「何で?」
「え?」
「何であやまんの?ごめんって何が」
「え……えっと、変な位置に、体があった…から?」
「はぁ……?オレが叩いちゃったんじゃん。悪いのオレでしょ。なんでそっちがあやまんの?」

当然ながら紫原は悔しかったし、悲しかったし、イジケてもいた。
チームメイトの前では涙という形でこぼれた感情が、を前にすると変な甘えとして現れる。

「もー…ホント、いっつもそー、ごめん、ごめんって、ホントに悪いと思ってる?」

もちろん、こんなに邪険にしてもは絶対に許してくれると知っての言葉だ。
甘えても泣かせてもいじけても、現状がどうにかなるわけではないのだが……。

ちんさー、大体なんで来たの?なんでわざわざ見に来たわけ?」

それでも涙として流しきれない泥は、歪んだ感情として発露してしまう。

「……なして、そっただごどへるべ……?」
「あ?」

……が、の変化はそんな紫原のいじけを吹き飛ばすものを持っていた。
自分の口許を覆ってボロボロ泣き始めたは、涙混じりのだみ声だから、ではすまされない奇妙な声を発していた。

「わほぁ…アヅシくんのこだ…うっ…ほんにすげ思ってれ…えへれねえでけれ……グスッ……」
「え、ちょ、え?え……?ちん……えっ?」
「…うぅ…汽車さへでら、わぁも、出はねべ……泣げっつらいねじゃ…まずながで見たンなか…グズッ……」
「ちょ…ちょっとー……!!なんで?壊れちゃった?!」
「つがる…う…アヅシくん……」
「津軽?えっ……ね、ねぇ、オレ…そんなにヤバイこと言っちゃったの?」
「ズビッ…ウッ…ぐすっ……わがえへれっでどすべ……ううっ…く……ふんじゃまわりぃ…」

はブンブンとかぶりを振って、アツシくんのせいじゃないよ、と…言っているようなのだが。
「……なもけね!」
「…………」

かと思うとフッと涙を指で拭い、無理矢理に笑ってみせる。
「あんづごどへべよぉ…そったごとばし…しゃんべれんでけれ……」
「ヘベ?えっ?」
「アヅシくんさっけ、まんまさけぇ…のそらっとねね…へばめやぐだばってわぁさ、汽車さいがねば…ウウッ…!」
「ねー待って、汽車ってもしかしてバスのこと言ってんの?」

……紫原は、もはやネガティブな感情は忘れ目の前の恋人が発する謎の言語を聞き取らねばならなかった。

ちん…オレが悪かったからさぁ……!」
「なしてへる?わぁがいぐねかって…負げで、アヅシくん…うわぁああぁあ゛ーー!!」
「もー!泣くとか!ホントなんなの?!わかったから、もー、ちん、わかったから!」
「う゛っ……ほんに……?」
「ホンニホンニ。ホンニね」

紫原が適当に頷いてやると、はやっと一息ついて、恥ずかしそうにうつむき始める。
紫原のそれと違い、がうつむくとまったく表情が見えない。

「泣かないでよ……なんかオレまで悲しくなってくんじゃん……」

不満のつもりでそう口にしたが、なぜかそうすると紫原まで涙が出そうになってくる。

「……ちんは、いつものちんでいてくれたら、それでいーよ」
「……ほんにぃ?」
「んー、ホンニホンニ」
「わっひゃあ?!」

縮こまるを抱え上げると、会場前のバス乗り場まで運んでゆく。
幸か不幸か、バスが発った直後のようで人もまばらだ。

「……戻ったら、フツーのちんになっててよ。オレも、いつものオレになるから」
「……うん……」

待合いのベンチにゆっくり降ろされ、ひと心地ついたは紫原を見上げる。

「私ね、アツシくん大好き……」
「…………」

ペト。

「あっ」

キスと呼ぶには色気の足りない、チューとするには熱気の少ない、可愛らしい接吻が頬に降ってくる。

「早く行けし」
「……まだバス来ないもん」
「いーから早く帰れし!」

幼稚な口語を繰り返す恋人の顔を、はどうしても目に焼き付けたい。

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