塔の中でだけ
「バルサー先輩って素敵よね」
そのあとに続く言葉を、私は知っていた。
「でも、変わってるわ」
――ほらね、やっぱり。
そんなふうに思いながらも、気分を害したわけでもないので、黙っておく。
平和な学園のお昼休み、女子生徒たちが集まってのランチタイム。
みんながお弁当を広げながらおしゃべりする中に、この私も入れてもらえる。
「何度見てもほれぼれしちゃうのよねえ。睫毛が長くて、鼻筋がすうっとしてて」
「唇もすてきよね、髪の毛だってさらさらで」
「……でも、あの片目はどうしたのかな。本当に格好いいのに、あそこだけもったいない」
「子供の頃に事故に遭ったって聞いたわ」
「聞いたって、誰から」
「さあ、風の噂で」
「いい加減なことを言わないでよ」
クラスメイトたちの会話は、心地よい鳥のさえずりのようだった。
心地よい。そう感じる。その中にあって、お弁当箱の貧相な中身を隠そうとする私だけが不協和音を奏でている。ときどきそれに耐えられなくなる。
「でも、それにしても変なのよねえ」
「うん……変わってる、わよねえ」
ルカ先輩の容姿だとか、おうちがお金持ちだとか、成績がいいとか、そういうことをひとしきり褒めたあと、みんなそんなふうにちょっと声を低くする。
「…………」
私はぼんやりと、そんな同い年の少女たちを眺めた。彼女たちがおしゃべりに夢中になっているうちに、具材が一種類だけ、それも指の先程度しか入っていないサンドイッチを、さっさと口に詰め込んでしまう。
◇
(変わってる、か……)
実際、バルサー……ルカ先輩の思考回路は、ちょっと難儀だった。
「…………」
放課後の化学実験室で、ルカ先輩本人を見ながら思う。変わっている。それは要するに「社会性のなさ」をかなり柔らかい布に包んだみたいな物言いだった。
人付き合いが悪い。急におかしな行動を取る。よくないときには呼んだって返事すらしない。
みんなはそういう行動に難色を示していて、要するに「イケメンなのにもったいなーい」と噂話をするわけだ。
(でも……)
どれも、懐に入って紐解けばなんということはない。
――人付き合いが悪い。
ルカ先輩は今そうしているみたいに、機械仕掛けをいじることを第一目標にしている。
それに比べればクラスメイトとのランチも、放課後の約束も、休日のショッピングも些末なこと。
それが多くの人からすれば「信じられないこと」らしいけれど、彼はすでに人生という青写真に地図がある状態なので、私や他の同年代みたいに、うろうろしなくていいというだけ。
――急におかしな行動を取る。
それはやっぱり、機械仕掛け第一の人生を歩んでいればしょうがない。歩いていたり、別のことをしている最中にふとアイディアが浮かぶのはよくあることらしい。ルカ先輩は人目を気にしないので、それをいきなり痙攣的に発言したり、人前でメモを取り始めたりするだけ。
――呼んだって返事すらしない。
これは、こればかりは、ルカ先輩の生まれ持っての欠陥と言えるかもしれない。
先輩はひとつのことに夢中になると、他人の声や存在を意識の外に追いやってしまう。返事すらしない、というのは無視ではなく、気づいていないだけ。
だけ。だけ。だけ。ひとつずつ分解していけば別に、ルカ先輩は言うほど変人じゃない。それどころかよく喋ってくれるし、笑ってくれるし、人当たりのいい男の人だった。
(……でも)
でも、だいたいの人はそうやって彼を解体できるほど、近くに置いてもらえないんだもんね。
性格の悪い私は、そう考えてにやりとしたりする。
「先輩」
彼は今も過集中のさなかにあった。私が呼んでも気づかない。そんなのは最初からわかっている。
だから先輩が手に危険物を持っていないのを確認して、肩に手をかける。
「二十五分です、ルカ先輩」
「おおっ」
揺すぶられて、ルカ先輩はようやくこの場に私という存在があったことを思い出してくれた。
「もう四セット目だから、今日はこれでおしまいです」
「なんだ、もうか。まだ二セット目くらいの気分だが……」
「ダメですよ。また校舎を閉められちゃう」
――本当にささいなきっかけで、私はルカ先輩と仲良くなった。
「はじめのうちは君にも悪いことをしたな。先生には叱られるし、散々だった」
私は他の女の子だったら気にしたかもしれない、ルカ先輩の「変なところ」がわりとどうでもよかった。
放っておかれようが、一緒にランチができなかろうが、放課後や休日にデートができなかろうが、特に嫌な気持ちにはならなかった。
ただルカ先輩を間近で見られていればそれでよかったので、彼が工作に没頭するのをただ眺めた。
そしてときどき先輩が、過度な集中から解放されたあと、気絶したように眠り、いくら起こそうとしても覚醒しない状態になることを知った。
もう教師たちもそんなルカ先輩にさじを投げているらしく、下校時刻を過ぎても彼が校内にいることや、ときには帰宅せずそのまま準備室で一夜を明かしていることを放っておいていた。
そんなことを知りもしない私は、夕暮れ時に先輩の姿を探してさまよい、死んだように眠る彼を発見して、必死に起こそうとした。
しまいには「誰か助けて! 先輩が!」と叫びだした私の姿を認めた帰宅直前の担任は、ルカ先輩の頭を思い切りはたいて言った。
「他の生徒を巻き込むな!」
「君が提案したテクニックは最高だ。おかげで私はこの教室の硬い床で寝ずに済んでいるし、毎日家に帰り、入浴や朝食の重大さを見つめ直すことができた」
「それが、当たり前……なんですけどね」
「結果的に私の脳みそは今までよりずっと快調だ! 思考も冴え渡っている。ありがとう」
「……はい」
ルカ先輩は格好いい。微笑んだときに、形のいい唇から覗くそこだけ野性的な八重歯が特に好き。
「それにしても、よく思いついたな。誰かから教わったのか?」
「もともと、よくやってた方法なんです。勉強のとき。なんとなく思いついて、続けられたからずっとやってます」
――二十五分作業や勉強をして、五分間休憩を繰り返すこと四回。
それが私が編み出した、集中力を長続きさせるコツだった。
ルカ先輩に提案してみたところ、最初は普通に嫌そうな顔をされた。「二十五分なんて一瞬だぜ。合金接合の工具を一往復させたら終わっている」とのことだった。
でもまあものは試しで、と推して、二十五分のあとに容赦なく五分の休憩を取らせることを繰り返すと、先輩は考えを改めたようだった。
「不思議だ。ただ五分の休憩を挟んで時を切り刻んだだけなのに、二時間通しで作業したときよりも意識がはっきりしているし、疲労もほとんど感じない」
「でしょ?」
「君はこの作業効率化を研究して、レポートにまとめて、しかるべきところへ提出すべきじゃないか。なんらかの褒賞がもらえるかもわからないぜ」
「そんな大それたことじゃないですって」
「いや、大きなことだ。ほら」
「あ……」
ルカ先輩は、油汚れのついた手袋をそっと脱いだ。
「余った時間で、こうして君と遊ぶことができる」
「ん……」
そして私の制服越しの腰を、そのまま優しく抱き寄せてくれた。
ルカ先輩は工具と油の匂い。みんなたぶんそう言う。それらを漂わせている服の向こうにある肌からは、なんだか甘い香りがすることを知っているのはきっと私だけだ。
「君は私の人生に、余暇というものを与えてくれたな」
「う……」
「無論、頭の中の最高傑作を形にすることが最優先なのに変わりはないのだが……君はそんな私のことさえ許してくれるから」
「許す……というか……んっ! だめです、先輩……」
紺のブレザーが、あっという間に脱がされてしまう。抵抗は口だけだ。私は結局嫌がっていない。
「軽く触れるだけだ」
「あっ……ふ、あ……く」
これもたぶん、他の生徒はあんまり見たことないだろう、先輩のむき出しの手と指が、シャツ越しに私の胸元を探った。
「ここで本気になって、それを見つかりでもしたら厄介だからな」
「はっ……うぅ、ん……じゃ、じゃあ……」
ついさっきだめです、なんて言った口で。
「いつ……最後まで、してくれるんですか……?」
そう告げた瞬間に、彼の口の端が、いつものハンサムなふうが嘘みたいに野性的な動きをした。
ぐっとつり上がって、私の大好きな八重歯がむき出しになる。
「本当なら今すぐしたい」
「ほんと……う、って……」
「いつか迎えに行くから、待っていてくれ」
「……っ」
そんなの嘘だ。先輩くらいのお金持ちと、私みたいな、お弁当のサンドイッチに十分な具材を挟むこともできない貧乏人の人生が重なるのは、この学園の中だけだ。
そう思うと私は急にワガママな女になりたくなった。きっと今まで先輩に近寄っては去って行っただろう女の子のように、どうして私を一番に考えてくれないのよ、今すぐ私を奪ってよ、なんてふうに暴れたくなった。
「ん……ふ、う……ふ……」
でもしなかった。だって私がルカ先輩の傍にいられるのは、彼の決意や性質や、夢や目標や理想像を否定しないからなのだから。
私がどうにかルカ先輩の人生に作ることができた余暇。隙間。休憩の時間。
そのさなかに少し触れてくれるだけでも、嬉しいんだから。