変/不変/朋輩
――チームメイトの有栖川帝統が恋人を妊娠させたと聞いて、幻太郞の頭の中には『破滅』の二文字が浮かんだ。
幻太郞は帝統のことを、ギャンブル中毒のカスだとは思いつつもチームメイトとして信頼――否、友人として信用――否、とにかく心のどこかで、人としてやってはいけないことはしないというか、幻太郞の中にある越えちゃいけないラインは越えない男だと思って、その上で親しくしていた。
だから「こんなこと言うのアレなんだけどよ、彼女が孕んじまって」と言われたとき、もう終わりだと思った。自分の中の有栖川帝統は死んだ。友情もおしまい。フリングポッセは解散。グッドバイ。
「取り急ぎカニ漁船に乗せてもらうことになってよ! アイツの出産費用稼いでくんだわ」
「――え?」
しかし、話は幻太郞の予想とは違う方向へ進んでいく。
「んでさっさと籍入れちまいたくてよ、悪ぃけど証人になってくんねー?」
「帝統?」
「ほらコレ婚姻届、もう俺らのサインは済んでっからよ」
「ちょ……ちょっと待たれよ帝統殿。要するに……出産させるので?」
「おう!」
「そして……認知して、入籍をするので?」
「そーだぜ。あー、俺父親になんだなぁ!」
「あの……」
てっきり「『諸々』の手続きを女に取らせるので金を用立ててくれ」とカスのせびりをされると思っていた幻太郞は拍子抜けしたが、すぐに立て直しまた別方向に足を踏み外す。
「今ならもうすぐ出港する船に間に合うらしくてよ、出稼ぎしてくる。三ヶ月くらいいねーんだ。でもアレだろ? しばらくバトルのほうは、予定もなかったもんな。ポッセは乱数とお前がいりゃ平気だろ」
「それは……ええ、そうですね……」
「赤ん坊生まれたら抱かせてやっからさ!」
言って帝統はテーブルに置いていた婚姻届を持ち上げ、改めて差し出した。幻太郞お気に入りの渋谷の純喫茶、帝統が頼んだオレンジジュースのグラスがカロンと音を立てた。
「帝統、彼女とは……きちんと話し合っているのですか?」
「たりめーだろ? ノリノリでどこで産むか選んでんぜ、女医がいいとかメシのうめーとこがいいとかさ」
「……」
婚姻届には確かに帝統と、何度か顔を合わせたことのある彼の恋人の名前が書いてあった。女らしい字だった。
複雑な感情が駆け巡った。幻太郞の中で、どうしてもあの心の広そうな――いや帝統を恋人にするくらいなので実際心も懐も深いに違いないが、己とそう歳の変わらなさそうな女性が、帝統と子供のできる行為をして、しかも現に今、腹の中に胤を宿していることが信じられなかった。
「不潔ですわ」
「あ? なんだよ」
「いやなんでもないです……」
帝統、小生をさしおいて大人にならないでください。そう言いかけてマイルドな暴言に切り替えた自分に感心してから驚愕する。そうか、己は盟友に置いていかれる、あるいは女性に彼を取られたかのような気分でいるから『複雑』なのか。
「……ここに名前を書けばいいので?」
「あっ、忘れてたぜ。ハンコもいんだよ。さすがに今持ってねぇよな」
「いや、持っています」
「持ってんのかよ。なんで」
「銀行からまとまったお金を引き出すつもりで……通帳と一緒に実印を。嘘ですけど」
「嘘なのかよ。持ってねーの?」
「いえ、持っているのは本当です」
「ふーん。ならホラ、ここにハンコついてくれよ」
婚姻届の証人になるのに、判子が必要だなんて知らなかった。
だって小生結婚を考える相手なんていないモン。純情だから、恋人じゃない女性相手に子供を作る行為もあんまりしないでおじゃる。書いた小説にも結婚どうのという描写はあまりなかったので、ググったこともなかったのでございます。
急に自分が世を知らぬ幼児、井の中の蛙になった気がした。さんざん世捨て人のような作家兼ライマーとして名を轟かせておきながら、友人の今後の人生を左右する紙切れの、どのへんにハンコを押せばいいかよくわからない。
「帝統、井の中の蛙大海を知らず、ということわざを知っていますか」
「聞いたことあんな」
「なら、『されど空の青さを知る』と続くことは?」
「知らねー」
「知らなくて正解。これは出典不明のホラなのですよ」
「また嘘かよ。それっぽいのに」
「井戸には高確率で屋根がついていますから、中にいたら空なんか見えませんね」
「お前なんの話してんの?」
「ダブルハッピー婚、おめでとうございますってことです」
ペンで署名し、ケースの中の朱肉で判を押す。
「サンキューな! 幻太郞、お前は俺のマブダチだぜ」
「ええ、小生もそう思います」
祝いの言葉に嘘はなかった。
「あー、よかった。カッコつけて、お互いひとりずつ証人見つけてくるって約束しちまったから」
「彼女のほうもご友人に?」
「母ちゃんがサインしてくれるってさ。今日コレ持って一緒に実家に行って、そのまま役所に出してくる」
「……彼女のママ上様は、妊娠についてはご存知で?」
「おう。こないだ報告に行ってよ、孕ませてすみませんっつったら父ちゃん出てきて半殺しにされたんだけどよ、その後母ちゃんがアイツと一緒に車で病院連れて行ってくれたぜ。未来のパパが死んだら困るって」
「なるほど……」
彼に対する禊とでもいうものは、もう彼女の父親が済ませてくれたらしい。
「……まぁ、あの帝統が出産費用やら、当座のミルク代やらを、小生や乱数に借りるでも、ギャンブルで増やすでもなく……漁船に乗って稼ぐと言っているあたり、覚悟はできているのでしょう」
「そこで判断すんのかよ~。でもそーだな、俺らしくねーって自分でも思うぜ」
にかっ。
歯を見せて笑う顔は、幻太郞の知っている有栖川帝統そのものだった。彼が変質してしまったわけではない。
ふいに幻太郞は、いじけていた自分がより子供っぽく思えてしまった。
「乱数はこのことを知っているのですか」
「いんや、まだ言ってねー。締め切り近いとかで連絡つかなくてよ。早く教えてー。乱数驚くだろーな。帝統がパパなんてウソでしょ~って」
「――帝統。今日が結婚記念日ということになりますね」
「言われてみればそーだな。婚姻届出す日だもんな」
「小生が乱数を引っ張り出しますので、本日は祭りです。道玄坂のダイナーを貸し切って宴。彼女とご両親、それからポッセの我々で、飲めや歌えの大騒ぎをしましょう」
「いいってそんなん、俺金ねーし」
帝統は、そこで初めて照れた様子を見せた。幻太郞はそれに嬉しくなる。
「小生と乱数のおごりですから心配ご無用」
「た、タダ飯ならまぁ……」
「祝わせてください。心からの友が、人の夫なり父となる瞬間を」
「へっへ……幻太郞って大げさだよな」
『【速報】帝統の彼女が妊娠 本日宴開催』というメッセージを乱数に送りつけると、すぐに既読マークがついた……かと思うと即座に通話呼び出しが起きた。
「もしもし乱数」
「あっ! 俺が用あるって送ったときは出なかったくせによ!」
『げんたろーっ、どういうこと!?』
「速報通りです。ついでにふたりは本日入籍するそうなので、夕方から宴会しましょう。乱数も来るでしょう」
『行く行く! どこの店?』
「まだ決めていません。この唐変木に話を聞いたのが今さっきで」
『ならボクが決めるっ。超豪華でおいしーお店、速攻でデコってもらうからねっ。一旦切るよ、待ってて!』
「助かります。それでは」
通話が終わる。店の予約に乗り出すのだろう。
「乱数が店を手配してくれるそうですよ」
「マジかよ! なんかおおごとになっちまったな」
「なんかもなにも、これはおおごとなんですよ」
「いや、なんか、祝ってもらえるとは思ってなかったからよ」
帝統は鼻の下を擦る。嬉しそうだった。
「――帝統、おめでとうございます。お幸せに」
「おう!」
それにしてもまさか、根無し草の我々の中でも一番ふらふらしていそうな男が一番最初に所帯を持つとは。人生とはわからない。
幻太郞はもうそのときには晴れやかに、友人を祝福する気持ちでいっぱいになっていた。