ひっそり香りが伝わる距離
大した期待をせずにそこに足を踏み入れた俺は、それなりに驚いた。
店の内装はだいたい想像通りだった。L字のカウンターにテーブル席がふたつ。薄暗い空間。店主の趣味なのか、この時代に再生する環境を整えるだけでも大変そうな「レコード」とかいう円盤があちこちに飾られている。もはやCDさえ過去の遺物なので、実は本物をこんなに間近で見たのは初めてだった。
人生の寄り道気分で、足を踏み入れたことのない場所で酒を飲みたかった。その目的はフツーに果たせそう。よくもないが、悪くもなさそうな店で、誘導された空席に腰かける。
俺が驚いたのは、奥のテーブル席に場違いなほど華やかな女がいたことだ。
ホステスなんだか、コンパニオンなんだか、定義も言葉の意味の違いも知らないが、店の暗がりにまぎれてよく顔の見えない男の隣について酒を注いでいた。
「……」
ちょうど彼女を窃視するのがたやすい席だったこともあり、適当に注文を済ませてから、遠慮なくじろじろ見た。美女だった。こんなに離れているのに、まとっている甘い香りを想起させられた。
チャイナドレスをだいぶ刺激的にアレンジした衣装の上らへんを、豊満な乳房が張り詰めさせていた。つついたらぱつん、と破裂しそうだ。きっとそのときも甘い飛沫があがるのだろう。
こんなさえないというか、突出したものがなさそうな店にあんな女がいることが一瞬ブキミに思えたが、逆なのかもしれない。彼女がいるからこの店は成り立っているのではないか?
だって、あんな美女が自分にかまってくれるんだったら絶対また来てしまうし、常連にならないとああやって隣についてもらえないのだとしたら、何度でも通ってそうなろうと努力するだろう。します。今俺はこの店の常連客になろうと決めました。
(あっ……)
ふと美女が席を立つとカウンターに向かってきた。残念ながら俺の対極側で店主に飲み物を告げると、その場に礼儀正しく佇んだ。両手を股の前で軽くクロスさせて微笑んでいる。
が、そのきちんとした姿勢は、彼女の服装と合わせると異様にコケティッシュだった。なんせタイトなスカートに入ったスリットは深く、骨盤らへんにまでさしかかっている。パンツが見えそう。というか見えていないとおかしいのに、それっぽい布も紐もない。
(え、穿いてないの?)
「ああそんな、席で待ってていいですよ」
「いいえ」
瓶ビールを持って舞い戻ってきた店主は、その場にいる彼女に恐縮した様子で言う。
「……?」
それがどうも従業員に対する態度ではない気がして、さらに注視してしまう。
瓶とグラス、そして後から出された栓抜きを受け取って、女はひらりと身を翻した。
「お待ちどおさまです」
「気に入ってるね、コンパニオンごっこ」
隣の男が蠢いて、暗がりからすっと姿を現した。息が止まりそうになった。特徴的な色のロン毛を三つ編みにまとめた、それはもうびっくりするほどの美青年だった。
「二杯目はもう少し……うまく入れてみせますから」
「アッハハ、頑張って」
言って男がグラスを掲げた。美女はそこに向かって、栓を抜いた瓶を慎重に合わせていく。
「……どうでしょう!」
「うん、いいんじゃない」
泡と液体がちょうどよく釣り合ったグラスを褒められ、彼女は両手を口元に当てて喜んだ。
「嬢ちゃん、こっちも頼まぁ」
突然暗がりから声が響いてびくりとした。ふたりよりも大きなシルエットが動く。ちょうど俺から死角になる場所に、もうひとり男が座っていたらしい。
「どうぞ」
言って美人は、それまでの所作に比べるとずいぶんぞんざいな感じで瓶をテーブルに置いた。どうぞと言ったわりに置いただけで、立ち上がりすらしなかった。
「かァ~……」
しかし男は慣れっこなようで、自分から腰を上げてそれを取りに行った。顔が見えた。すぐ傍の美男に比べると、この店に馴染む感じのおっさんだった。
「これ飲んだら出るぞ」
「はい」
おっさんの言葉に女が頷いたのを見て虚を突かれる。思わず二杯目を頼むそぶり、いや本当に頼むけれど……で店主を呼び寄せて耳打ちする。
「店の子じゃないんですか」
「え?」
「あのきれいな人」
「ああ……初めていらしたお客様ですよ」
「へ……へぇ……」
なんかこう一気にスン……となった。彼女や店に入れあげそうになっていた自分が恥ずかしい。
「……いいですよね」
が、店主がコンプラ意識ガバガバな感じで俺に語りかけたので持ち直す。
「……いいですね」
「隣にいるのがあれだけ美形っていうのも実に」
「どういう関係でしょうね……」
ふたりで無遠慮に、奥の三人を眺め倒す。
「あれくらいの美女になると、岡惚れっていうか、横恋慕っていうか、このくらいの距離でそっと眺めてるくらいがちょうどいいかもしれませんね」
「それは……そう」
うん。負け惜しみ臭いがそう思った。触れられそうなほど近くにいたら、きっと人生を狂わされてしまう。きっとそういうたぐいの女だ。それを飼い慣らしているふうな男は、おそらく彼女と同等の魔物だろう。