気持ちはわかるが、抗議するために君が代を歌うことはない。日の丸を掲げ振ることはない。
取り壊しを依頼された解体業者や警察官に対し「日本人として恥ずかしくないのか」と声高に訴えても、それは違うだろうと思ってしまう。
強行に取り壊しを迫る公権力に「君が代」「日の丸」でもって対抗しようとする周辺住民(といわれる)の皆さんの行動は少なくとも私の目には奇異に映る。
別の意志が見え隠れするようで、かえって事態が悪い方向にいくような気がしてならない。
君が代・日の丸は「日本」のシンボル(と法律で決まった)。
天皇家も「日本」のシンボル(と憲法で決まっている)。
だけど「君が代・日の丸」=「日本」=「天皇家」ではないはずだ。
そういう形で、そういう意図での保存活動ならば賛同できない、という人は多いと思うのだが。
あの屋敷を残すか残さないかは、少なくとも全国民注目の関心事ではない、と思う。(特に私の年齢ではそう。御成婚に沸き立った時、そもそも生まれていない。)
かといって国有財産の処分という単純な事務的な問題でもないけれど。
私の中では、豊郷小学校の保存問題と、旧正田邸の保存問題は、本質的には同じだと思っている。
以前ここにも書いたが、「貴重」とか「歴史的な意義」だとか、「芸術性」という尺度は、受け取る人によって大きな差がある。
基本的に、その建物になんの思い入れもない人にとってはどうでもいいことなのだ。
私的な屋敷であれば、取り壊そうが、売っぱらおうが、誰も文句は言えない。ところが、そんな建物を行政が持ってしまうと、必ずといっていいほど同様の問題が起こる。
行政の持ち物(財産)は、私たち主権者、みんなのもの。
だけど、事が複雑になってしまうのは、「残すべきか」「取り壊すべきか」という選択に、ハッキリと結論を出せる「尺度」が今の日本にはないということ。
要は、こういうものをこの国や、この国の人は、お金を出して「残す」のか「残さない」のか「意志」をもつべきなんだと思う。
沢山の「日本」が失われていっている今、それを考えないことの方が「日本人として恥」なんじゃないのかなぁ?