長崎市の成人式の取材に行った。
式全体としては実に静かで、大人の聴衆だった。
しかし、一部、新聞にも書かれていたが、意味不明の野次を飛ばす新成人が2人いた。
最初の一人は、挨拶をしている人物の名前を叫んでいた。二人目は意味不明の野次。
2人とも、市の職員から注意を受け外に連れ出された。
情けない限り。
なら来なきゃいいのになどと怒りにも似た感情が湧きあがるのだが、取材で行っている以上、彼ら二人を番組中でどう扱うかを悩んだ。ここ数年続いている”新成人の傍若無人ぶり”という切り取り方だ。
で、結果、私は彼らの行動は全く取り上げなかった。
テレビというメディアは、映像・音声という断片で全体を描かざるを得ない。
最も全体を象徴する「断片」を構成してひとつのニュースが出来あがると思っている。
確かに野次が上がったと言うのは事実。伝えるべき情報の一つであることは認識している。
しかしながら、だ。たった二人という断片を見て、それが新成人全体だと感じる人がいると具合が悪い。
騒いだのは二人だけであとの新成人は静粛に話を聞いていた。
「私たちも、こんな連中と同じだと思われたくない」と感じていた新成人はきっと多かったと思う。(だからこそ、他の新成人の『野次を諌める声』や『行動』もあった。)
酔った上で、みんなの式を意味不明の野次でぶち壊そうとする「お子ちゃまぶり」をメディアが流すことは、「とにかく何だか目立ちたい」という彼らの思う壺ではないか。
そんなお子ちゃまは、管を巻く己の姿を見て、恥ずかしいと思うどころか、してやったりという表情で眺めることは容易に想像がつく。
そんなお子ちゃまのためのニュースにはしたくないのだ。
ただ、彼がそのまま逮捕されれば、これは出しますよ。それは勿論のことです。