ジェラール 第1章・小悪魔小僧

 

2000年 パリ

「おばさん、俺、あんたを犯したいんだ」
マドレーヌ寺院前にある、有名なサロン・ド・テ『ラデュレ』での、ジェラールの第一声はこれだった。私は思わず我が耳を疑った。
「な、なんですって?!」
「もう一度言ってやるよ。あんたをレイプしたいの!」
(レイプですって?何を言うかと思えばこの子は・・・・)
ここは格式のあるサロンだが、店内は案外手狭な上、客席同士は接近しているので、周囲でアフタヌーンティーを楽しんでいた、フォーブル・サントノーレ帰りのスノッブなパリマダム達の耳にももちろん届いている。少しでも広く見せたいのか、店内の壁には重厚な彫刻を施された木枠に入った鏡が張ってあり、上品さを売り物にした彼女らが興味を露骨に表した顔つきで、私とこのふざけた青年に注目している様子が映し出されている。

こんな場合は、恥じ入ると野次馬はますます調子に乗るので、逆に私は昂然と顔を上げ、彼女らを睥睨した。するとマダム達は慌てて視線を戻し、自分達の注文したショコラやマカロンの方へ体を向け、再びおしゃべりを始めた。しかしその内容はこちらへの不愉快な詮索に違いない。
だが、彼の口車に乗ってこんな場所へ連れてきた私が、元はと言えば一番悪いのだ。やはりこんな変な若造は追い払うべきだったと、私は後悔した。

ジェラールは、私が怒りと恥で爆発寸前の表情をしているのもどこ吹く風とばかり、寄ってきた来た係のウエイトレスに平然とオーダーを出している。
「俺、ショコラとイチゴのマカロン食いてーな。あ、モンブランもね。で、紅茶はアールグレイにして」
とんでもない。もうここには、とても恥ずかしくていられない。この子はこれ以上何を言い出すか分からない。私は慌てて、紺色の制服の上に白いエプロンを着けた少女の手を止めさせる。
「駄目よ。もう出ましょう。あなた、オーダーは中止してね」
「何で?今来たばっかりなのに、もう出ちゃうの?」
彼は、ことさら無邪気そうにその蒼い瞳を丸くする。私は思わずカッとなった。
「あなたが変なことを言うから、もう恥ずかしくてここにはいられないの!」
「俺、何か変なことを言った?」
この言葉を聞いて、私は再び呆れてしまった。(あんたはたった今、私にいやらしいことを言ったじゃないの!)と、この破廉恥な青年に怒鳴り付けてここを立ち去りたかったが、他の客の手前もあり、それは出来ない。

「俺、この店初めて入るの。ここのマカロン、うまいって聞いたことあるんだ。それ食べてから出ようよ」
レジ付近にショーケースの方を見ている彼の顔は、本当にこの店の名物である色とりどりのマカロンに心惹かれているように見えるので、私は言葉に詰まってしまう。
「じゃあ、いいわよ。その代わり」
私は彼を睨みすえて厳しい口調で誓約を強いることにした。
「もう変なことを言わないって約束する?」
「ああ、いいよ。もう言わねーよ」
この奇矯な青年ジェラールの、全く悪びれた風もない様子にまた不安になったが、オーダーすることを承諾した。

ピンクと茶色のふっくらとしたマカロンと、堆くクリームの帽子を乗せたモンブランが、リモージュ製のティーカップと共に銀のお盆にセットされて運ばれてくると、今までぼんやりと外のロワイヤル通 りを行く人を眺めていたジェラールはすぐにフォークを取って食べ始めた。まるで目の前に私が存在しないかのごとく、黙って甘いビスキィ生地をほうばって、紅茶を飲んでいる。不思議な子だ。私は改めて思った。

「何見てんだよ。おばさん」
私は遂に我慢できずに抗議した。
「ちょっと、そのおばさんって言うの止めなさい。あまりに失礼だわ。私はまだ28歳なんだから」
「ふうん。でも30前だね。やっぱりおばさんだ」
ああ言えばこう言うというのはまさにこれだろう。本当に腹立たしい若造だ。
「30前って・・・!そういうあなたは何歳なのよ?」
「20」
モンブランのクリームを舐めながら、あっさり言い切るところがまた憎たらしい。 何とかやり返して一泡吹かせてやらねば・・・私は年甲斐もなくムキになってきている。
「え?10代じゃないの?案外幼く見えるんだわね」
私のイヤミをふうんと鼻であしらい、彼はまたモンブランへ取り付いた。
「とにかく、おばさんは止めてよ。人聞き悪いし、気分も悪いから」
「じゃ、なんと呼べばいいの?」

彼は手を止め、いきなり私の目を覗き込んで問い返した。その瞳は、濃いブルーですみれ色と表現すればいいのだろうか?瞳の部分が大きくて綺麗だが外界に興味のない己の蒼さに耽溺しているような眼だと、私は感じた。しかしこの青年のストロベリーブロンドとはよく似合う色だった。
「そ、それはオフィスと同じようにオッセンさんといえばいいじゃないの?」
私は我に返って答えた。
「そんなの駄目だな。あんた、名前は?」
年下のくせに、と私はまた腹を立てかけたが、欧米ではファーストネームで呼び合うのだから当然だと思い直した。
「ハリール。じゃハリールと呼んでいいわ」
「ハリール?ふうん、変ちくりんな名前だな」
このご立派なメッセンジャーボーイの小面憎さは、もはや感動すべきものだった

 

 

この小悪魔のごときジェラール・パラディは、私の勤務する国内最大手の貿易会社で、臨時アルバイトとして二ヶ月前から働いている。うちのオフィスでは、マネージャークラスになると個室を与えられ、秘書が一人付く待遇となる。私が快適なプライベートオフィスを使える身分に昇進したのと、この青年が働き始めたのは、ほぼ同時期だった。

彼の仕事は各部屋を回り、回章を配布したり、連絡すべき事項やメッセージなどを集め上司や同僚に届ける役割や、郵便物の配達など、ほとんど雑用中心の単純作業だった。確か、私の秘書ジャンヌが彼について『可愛い』と評していたようだが、私は元々、若造自体があまり好きではない上、可愛いと役立たずとは同義語だと思っていたので彼女の話は聞き流していた。この時期、私は、一変した自分の地位 に有頂天となっており、「いちごブロンド」のきゃしゃなメッセンジャーの存在を、社内の見慣れた備品に関心を持たないのと同様、ほとんど気を留めなかっていなかったのだ。彼の容姿云々よりも、自分の部屋の窓から見える近未来のモニュメントのような新凱旋門の姿の方を、昇進の感慨を以って眺めるのに耽溺していたのだから。
それにこの人事により、私は憧れのゲインズブル氏のラインとして晴れて活動出来ることになった訳でもあったので、何とか業績を上げて認めて貰いたいと、張り切っていたのだ。

どこの世界でも妬み嫉みは付き物である。
私も早速その洗礼を受けた。一週間掛けて仕上た来期のボーキサイト輸入計画を入れたフロッピーが、少し席を離れた隙に跡形もなく消失してしまったのだ。ジャンヌはその日は風邪で欠勤していたから部屋はノーチェックで入れた。私は慌ててドアを開けて部屋から飛び出し、最近まで自分の場所でもあった、それぞれの机が色とりどりの衝立てで囲まれた大部屋へ行き、他の社員達に訊ねた。
「誰か、赤いフロッピーを見なかった?来期の計画が入っているんだけど」
皆は、訳が分からず首を横に振り、私の尋常でない取り乱し方を見て嘲笑している。
(困った・・・!夕方、取引先の社長が来るのに。それまでにゲインズブル氏に見せて許可を取らねばならないし、やり直すにしても時間がない・・・!)
取りあえず、ゲインズブル氏にこの事態を報告に行くのが無難であろうが、私を抜擢して下さったあの方の期待を裏切るようで、気が引ける。私は、あのフロッピーの所在について、頭の中を整理しながらもう一度考えてみた。確か、完全に仕上がったことを確認した後、机の中へ、それもボックスに入れて保管していたはずだ。 昨日まではあった。それがないということは・・・

私は白黒を明確にせねば気の済まない性格なので、自分には結構敵が多いことを承知している。ゲインズブル氏だけは私を理解して庇ってくれるので、この方には心服して絶対忠誠を心密かに誓っているのだが。
(誰かの嫌がらせだろうか。思い当たるのは、ピエールかジョルジョ。それともアラン・・・?)
ピエールとジョルジョは同性愛者である。その性癖については個人の自由であるから、とやかく言わないにしても、仕事においては才能のカケラもないくせに、他人の足を引っ張り、誹謗し傷付けることにおいては超一流の腕を持っており、会社に寄生しているウジ虫どもだ。このアランと言う男は、甚だしい衒学趣味で、平然と他人の領域に踏み込んで来る厚かましい習性を有している。

私は日頃からこの連中を腹に据えかねているが、ゲインズブル氏は優しく笑い、優雅に紫煙をくゆらせながら、「放っておきなさい。彼らのことは、私も含め心有る人は知っているのだからね」といなすので、今まで無視してきたのだが。
(だが、あのホモ二人に私の個室へ入る勇気はないだろう。それにアランはリヨンへ出張していた)
ともかくフロッピーを見つけることが先決である。私は部屋中の引き出しを片端からひっくり返し、中身を全部出して、大童で家捜しを始めた。 床にファイルや書類の山が次第に高くなるばかりで、探し物が見つかりそうな気配はない。時計の針は容赦なく回り続け、混乱してくるのが自分でもよく分かる。
(何ていい訳をしようか?紛失しましたじゃ・・・取引が壊れた場合は、辞表ものかな?)

その時、ドアの開く低い音がして振り返ると、メッセンジャーボーイのジェラールが青い制服を着て立っていた。私は、この捜索の役に立ちそうにない彼を見て腹が立った。
(この忙しいのに、何よ?!)
「オッセンさん、あの・・・」
「何?先に他を回って来なさい。今取り込み中なんだから!」
彼は私の言葉を聞いて、大袈裟に首を回して書類が散乱した部屋の中を見渡し、「取り込み中ね・・・。なるほどな」と、肩をすくめ、嘲笑うごとくつぶやく。その人を舐めきったような態度が、苛立っている私の神経に触り、つい声が高くなった。
「用がないならさっさと出て行きなさい!私は忙しいんだから!」
ジェラールは私の怒声を平然と受け流して、ポケットから赤く四角いものを取り出し、私の目の前で、ひらひらと左右に振った。
「これ、いらねーの?おばさん?」
それは、まさしく私の探していた大事なフロッピーだ。
「それだわ!それよ!どこにあったの?!」

私が彼に近寄り手に取ろうとすると、彼はサラリと身をかわして、「ある馬鹿が隠していたけど、それは内緒」と、私をからかうように笑った。
「馬鹿って誰よ?!」
「だから内緒だよ」
彼はどうやら私を焦らして楽しんでいるらしい、と分かった。
「もう、いい!それがないと私は困るの!早く返して!」
「これを渡したら」
彼はフロッピーを指で弾いた。「俺の言うことを聞いてくれる?」 と、蒼い瞳で私の目をまともに見ながら言う。 私は、とにかくこの小僧の手からフロッピーを取り戻すことしか念頭になかったので、いい加減に返答をした。
「聞く、聞く!何でも聞くから、とにかくそれをこちらへ渡して!」
「よし。約束だぜ。おばさん」
彼は赤いフロッピーをポンと机の上に投げ出すと、もう興味を失ったかのように、男にしては細身の体を翻して立ち去った。小僧が無礼な口を聞くのを見過ごしたのと、何事かを約束させられたことは、後から考えると一連の腹立ちの原因だったのだが、この時は、自分とゲインズブル氏の顔が潰れないで済んだことへの安堵で、深く考えなかった。

その週末、フォーブル・サントノーレを歩いていた私は、突然背後から声を掛けられた。
「おばさん、おばさん」
当初自分に呼びかけているとは思わなかったのだが、今度は 「オッセンさん!」と叫ぶのが聞こえたので、振り向くと、ところどころわざと破ったジーンズ姿のジェラールが、エリゼ宮の石塀に持たれて立っていたのだった。
「おばさん、俺、喉が渇いたんだ。約束だろ?何か奢ってくれよ」
「ちょっと、そのおばさんって・・・」
(失礼な!この私に対しておばさんですって?!)
私は絶句した。

私は、人を愚弄したがるストリート系の若者とお茶など飲む気は毛頭なかったのだが、ジェラールが私の手から、買ったばかりのナイトドレスが入った『ラ・ペルラ』の紙袋を「持ってやるよ」と引ったくって歩き出したので、後を追うしかなかった。
彼は見掛けによらず歩くのが早い。必然的に私は小走りになったのだが、踵の高い靴で古い石畳を駆けるのはかなり難儀で、何度か躓いてしまった。繊細な作りが特徴であるマノーロ・プラニクの黒いパンプスのヒール部分はすっかり傷だらけになってしまったので、私は情けなさに唇を噛み締めた。
(この靴は高かったのに・・・!何て嫌な子!だがこうなったら、あの『馬鹿』が、誰だか聞き出してやろう)
そして彼は、ロワイヤル通りに突き当たると、それを渡ってから左折し、マドレーヌ寺院の方へ進み、『ラデュレ』の前で足を止めたのだった。

 



 

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