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外伝 ラバニの娘
2001年9月10日 パリ16区 バカンスも終わったけだるい朝。私は持病の偏頭痛に悩まされていたが、今日は大事なクライアントとの交渉があるので出勤時には晴れやかな顔で出かけねばならない。メイドに言いつけて朝食をベッドに運ばせることにした。クロワッサンとカフェ・オ・レが盆に載り、ル・モンド紙と共に運ばれてくる。私はオ・レだけを飲んで新聞を広げた。すると「マスード氏死亡か?」という白抜きの文字がいきなり飛び込んで来た。手に持っていたカップを落としたのも気付かず、新聞を凝視し握り締め、記事を何度も何度も読み返した。 やはり死亡とある・・・ 「私が死ぬ時、それは神の意志だろう。ただ疎の時まで燃焼するように生きたい。神の御加護がある限り私は闘う」 私は元アフガニスタン大統領ラバニの娘、ヒンド。予言者ムハマンドの妻の一人と同じ名前だ。父上はよく私にこの名前を名づけたことを後悔すると笑ったものだ。美しいが気位 の高い気性の激しい女性の典型で、私がその通りに成長したとからかって。私はパリで暮らしてもう20年以上になる。リセも、バカロレアも、大学もこちらで通 った。故郷へはほとんど戻らない。二度の結婚も離婚もここで体験した。その他に恋もした。今は独身で投資会社の副社長をしている。 この国際都市の冷淡さと無関心さは異邦人には心地よい。同郷の人々とは仕事以外ではほとんど交流はないが、彼・マスードが4月に欧州会議に出席した時、私にも招待状が来た。彼は欧州各国を歴訪し首脳クラスと会談しアフガンの平和を強く訴えた。彼の人柄や情熱はどこの国の人々にも感銘を与えたようで、ここでも歓迎のレセプションを開くことになったようだ。コンコルド広場の海軍省の隣の由緒あるホテルでの歓迎会に私は出席するか否か迷ったが、父上の弟子であり盟友である彼を無視するのは周囲にも不自然なので、結局承諾したのだ。 シャンデリアの豪華な会場で私は彼・アフメッド・シャー・マスードと再会した。彼は昔の通
りの笑顔で私を見つけ、微笑みながら近寄ってきた。若い頃からある笑い皺の深い目元をほころばせて。 「君は昔と変わらず気高く美しい」 彼を歓迎する行事が始まった。アフガニスタンの音楽家による演奏があり、それを聞く彼を私は少し離れた席で見つめている。誠実な彼が目を閉じ知性を研ぎ澄まし音楽に聞き入る様は昔のカブールでの夜会の光景と私の記憶の中で重なっていった。 ナジブラ親ソ政権を駆逐しようとする勢力は、ラバニ・マスードのイスラム協会、ウズベク系のドスタム将軍、イスラム党グルバディン派ヘクマティアルなどのパシュトゥン系、ハザラ系などがあり、それぞれが拮抗し、アフガン各地で独自の縄張りを張っていた。マスード将軍は各派の対立を乗り越えてアフガニスタンとして一つにまとまった新政権を目指し、各派の指導者を説得し、イスラム暫定政権を認めさせ、大筋で合意を得ることに成功した。 1992年4月28日、イスラム暫定政権発足。1992年4月29日、マスード司令官カブール入城。大統領には私の父ブルハヌディン・ラバニが、そして国防相には彼が就任した。この新政権に欧米各国の承認を取り付ける為、半年後に総選挙実施を目指すなど開明的な政策が取られ、一度だけではあったが、欧州風の夜会をカブールのインターコンチネンタルホテルで、各国の使節や各派閥の指導者を招待して開催されたことがあった。私はカブール陥落の祝いにパリから本国へ帰国していた。 この夜会にはザヒル・シャー在位
当時のように女性の参加可能だという。母上や妹、父の妻達はしり込みしたが、私は即答した。
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その夜、私は戦場に赴く兵士が高揚し幾分挑戦的な心持ちで、武具を念入りに手入れするかのように、化粧をし着飾った。インドから取り寄せた金紗を織り込んだ赤い布をまとい、鏡の前で自分に向かい、フランス語で挨拶をする。完璧だ。私は美しい。よし出陣だ。父上や家族と共に政府専用車に乗り込む。車の窓から外を見ると、平和だというのにほとんど明かりが見えず、崩れた建物の残骸が黒々と闇に横たわっている。 インターコンチネンタルホテルが見えてきた。その周囲だけは別
世界であるかのように光りに満ちている。私の重苦しい気分は消失した。 狼の風貌を持った精悍な獅子。私が彼を初めて見たのは、1975年パキスタンでのこと。彼はダウト政権に対して蜂起したが失敗し隣国に逃亡中だった。同じくカブール大学を追われて亡命中のラバニの元へ23歳の彼は度々やってきた。背が高く痩身で物に取り憑かれたような鋭い目をした青年だった。私は子供心にも彼の鋭さを感じ、怖いと思っていたのだ。 彼は当時習っていた空手を父上の家の庭で時々練習していた。凄まじい気合で型を作り木切れを素手で割る。ある時彼は弾みを付け過ぎ自分の足を叩いてしまった。私がこっそり木の影から見ていたのに気付き、思い切り笑い、「やあヒンド、僕は下手糞だと思うかい?」と私に話し掛けた。私は彼に恋をしていることに気付いた。1988年、彼が父に私との結婚話を打診され断ったと聞いたのはパリの大学在学中だった。結婚はまだしたくないと思っていたけれど、その悲しさと悔しさは並大抵ではなかった。 「どうしたのですか?退屈しているの?」 彼は明るく笑って答えた。
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「ウズベクのドスタムとか言う男の下品なこと。さっき私と父上に挨拶に来ましたが、酒臭くて下卑た笑いを浮かべて私をジロジロ見て本当に不愉快だわ」 ヘクマティアル。父上が最も嫌う男の名前だ。薄汚いマキャベリストで下劣な策を弄することを何よりも好むという。 「マスード国防大臣閣下。この度は新政権発足おめでとうございました」 この人が戦士?私は驚いた。アラビアの王宮で優雅に社交しつつ詩でも吟唱しているのが相応しいような。それにこの光沢のある純白のローブは質の高い絹だ。 私は会場を後にし、女性用に用意された部屋へ行った。部屋は女達の笑い声や管弦の音、様々な香水の匂い、甘いお菓子の匂いなどで一杯だ。(いかにも女臭い)と思いながら部屋へ入ると、歓声が上がった。 フランスの画家が描いたオダリスクさながらの光景。美しくてたおやかでしとやかでそしてしたたかな女達。実は針を含んだような嫉妬と策謀の応酬。 彼の妻はまだ20歳にもならない小柄な細面の女だった。栗色の長いまつげに覆われた緑の夢見るような大きな瞳以外何の変哲もない女だ。浅黄色のベールをまといこじんまりと座っている。 |