夏休みの最初の2、3日を、潤はほとんど寝て過ごした。時々起きだして買い置きのカップラーメンを食べ、それがなくなるとコンビニに行くのすらめんどうで、水を飲んで空腹をごまかしていた。さすがに寝るのも限界になって、洗濯機にシャツ類を放り込みシャワーを浴び食料の買い出しに行くと、ようやく日常生活を思い出し、金に連絡してバイトの約束を取り付けた。

金の劇団が公演に使う廃屋は、新玉川線の駒沢大学駅から歩いて20分ほどのところにあった。セミしぐれの中、広大な駒沢公園を突っ切ってしばらく歩くと、周囲の無機的な建物のあいだにポツンと古い洋館があった。現場の前には資材を運ぶ数台のワゴン車が止まっていたので、もらった地図を確認するまでもなく、そこが自分のバイト先だということがわかった。ツタに覆われた塀を映した窓は緑のトカゲの肌を連想させ、開け放たれた玄関を入ると、直射日光の照りつける外界とは異質の、暗くひんやりと湿った空間が広がっていた。

靴を脱ぐのかどうか迷っていると、タオルを頭にまいてTシャツの袖をまくりあげたスタッフらしき青年が潤を見つけ、そのまま入るようにうながした。とりあえず金の紹介のバイトであることを告げると、ところどころきしむ廊下を歩いて、青年は潤を書斎に案内した。室内には、前の主人がていねいに使っていたことがわかる飴色に磨きこまれた作りつけの本棚以外に家具はなく、床にはノートパソコンと数冊の雑誌、台本や書類が乱雑に置かれ、泊まり込み用に敷かれた万年床の上にあぐらをかいて、金が屋敷の見取り図に何やら書き込んでいた。

「おう、潤ちゃん。ちょうどいいや、こっち来て」
示された布団の空いたスペースに腰をおろすと、金は見取り図を潤のほうに寄せて説明をはじめた。
「メイン舞台はこの広間。ここと客間をぶちぬいて例の裸踊りをするわけさ。いま、床の補強と舞台作ってる。それからこっちの寝室では、公演の間中かけて新進の美術家がパフォーマンスする」
「なにそれ」
「ひらたくいうと、部屋全体をキャンパスに見立てて、ペンキぶちまけて一つの作品にするんだよ」
「…はあ」
「そこで役者もヌメヌメやって、そのまま廊下や階段なんかでもフリーに演技する。ボディアート部門だな」
「……」
「館内の要所要所でスライドや8ミリ投影して異次元空間作るから、壁の状態直したり足場作ったり、ようするに、建物まるまる一個が劇場で、いろんな要素のパフォーマンスを取り入れて、観客も参加してのイベントになるんだよ。出し物は常に変化する。偶然と必然の織り成すモザイクだ。おもしろそうだろ?」
「…まあ」
「で、潤ちゃんの仕事は職人さんたちのパシリとか弁当の買い出し、その他モロモロ。俺も指示するし、適当にそのへんにいる人に声かけて仕事もらって」
「なんか、俺の仕事のほうが世の中の役にたつね」
金は、潤の後頭部を軽くはたいて笑った。
「まったくおまえは夢のないやつだな。ま、いいや、とりあえずスタッフの頭数かぞえて弁当買ってきて。最初はヤマトといっしょにやりな」

ヤマトの名を聞いて、先日の「ヤプウ」での出来事を思い出し口をとがらせた潤に、金は言った。
「あいつも悪気はなかったんだから。潤ちゃんも機嫌直ってんだろ?」
「うん、つうか、すみませんでした。でも、あの人にもあやまったほうがいいの?」
「飲んだ上でのことなんか気にしなくていいよ。あ、おまえはラリってたんだっけ。そういえば、仕事中にはキメ物はなしだぞ」
「わかってるよ、そのくらい」
「じゃ、仕事開始。せっせと働いてくれよ」

 

 

金に連れられてひととおりのスタッフにあいさつをすませた潤は、ヤマトと一緒に近くの弁当屋に行った。大人数のときは電話注文してワゴン車で受け取りにいくようだが、日中で役者たちはまだほとんど来ておらず、10人程度が作業しているだけだったので、買い出しは徒歩で充分だった。ヤマトは潤に釘を刺すように言った。
「今日は、今まででいちばんヒマなんだ。これから大忙しになるから、足手まといになるなよ」
「はい」
「今回のイベントはうちの劇団でも最大級に力入れてんだ。大舞台での公演はよくあるけど、こういう実験的な企画ははじめてなんだよ。君は舞台裏まで関われて、ラッキーだぜ」
べつに、こんな文化祭みたいなイベントの舞台裏なんて興味ねえよ。潤は心の中で思ったが、できるだけ素直な口調で答えた。
「うん、めずらしいバイトができてラッキーだよ。ヤマトさんはイベントでは何やるの?」
「俺は、擬人化された宇宙の波動だ」
「は?」
「あ、ごめん、君にはむずかしかったかな。こう、現実と異次元の境目でゆらぐ波長を演じるんだ。背景に溶け込むようなかんじでさ。俺は存在であり非存在であり…」

体を保護色のような茶色に塗りたくり、廊下の暗がりでフラフラうごめいているヤマトの姿が目に浮かび、潤は思わず吹き出しそうになった。とりあえずこらえたもののどうしても顔が笑ってしまうので、仕方なくとりつくろって言った。
「へえー、おもしろそう。俺も本番見たいな」
「だろ?君は一応スタッフだから、バックステージパスもらえるよ。本番もぜったい見に来いよ」
意に反して気を良くしているヤマトを、潤は一瞬馬鹿にした気持ちになったが、「ヤプウ」での皮肉っぽい態度を一転させてにこやかに歩く姿を見て、悪い人ではないんだなと思い直した。

午後は資材運びやスタッフ間の連絡の取次ぎ、タバコや飲み物の買い出しをして、文字どおり「パシリ」のバイトにも慣れ、1週間ほどたったある日、潤は金の書斎に呼ばれた。部屋に入ると、金がドアを閉めるように身ぶりで示し、小声で言った。
「いいもの見せてやる」
金は壁に立て掛けてある細長い布の包みをとりあげ神妙に中味を取り出すと、潤の前に差し出した。
「本物だよ」
「まじ?こんなの持って歩いたらやばいんじゃないの?」
それは古い日本刀だった。金は柄を少し引いて鋭い刃をのぞかせると、ニヤリと笑って言った。
「こないだの山口二矢、採用しようと思ってさ。さすがに真剣はまずいから、美術に同じの作らせるんだ」
「山口二矢?俺やらないよ」
「安心しろ。うちの役者にやらせるから。で、ちょっと手伝ってくれないか」

金は日本刀の包みのそばにあった紙袋から黒い学生服を取り出すと、潤にむかって投げた。
「着てみて」
「なんで」
「役者がまだ当分来ないんだよ。今のうちにイメージ練りたいから、着てみてくれ」
潤がモタモタとTシャツの上からそれを羽織ろうとすると、金は野太い声を出して言った。
「シャツは脱ぐ。下もちゃんとはけ。早く」
仕方なく後ろを向いてコソコソと着替え振り返ると、金は日本刀を小脇にはさんでポラロイドカメラを手にしていた。
「よし、じゃあそのまま窓際へ移動」
「なんで」
「おまえなあ、バイトに仕事頼むのに、こっちこそなんでいちいち説明しなきゃいけねえんだよ。つべこべ言わないで、さっさとやれ」

けげんな顔をしてツタの葉影が透けるスリ硝子の窓辺に立った潤の写 真を2、3枚撮ると、金は学生服のボタンをはずすように指示した。潤がうつむいてボタンをはずしている間も室内にシャッター音が響き、素肌に着た上着の前を開けると金は自分の手ではだけ具合を調整し、また撮影をはじめた。
「金さん」
「ああ?」
「なんか怪しい光景だよな、これって」
「そうか?」
「なんかさ、よくあるじゃん、ポラロイドで変ないやらしい写真撮ったりさ」
「ああ、よくあるな、そんなの。おい、もうちょっと前めくって」
「なー、金さん」
「なんだよ、うるさいな」
「山口二矢って乳首出してたの?」

金は撮影の手を止めると、大袈裟に笑い出した。
「そうだなあ、そういえば山口二矢は出してなかったよ、乳首なんて」
カメラを戻し写真を棚に並べながらまだ笑っている金を見て、安心した潤は自分も笑い出した。その時、金は突然日本刀を鞘から引き抜くと、鮮やかな身のこなしで殺陣をはじめた。黒いスウェットパンツで上半身裸の金が動くたびに鍛えられた筋肉が隆起し、鈍く光る刃先は、さらにその先の空間まで切り裂くかのように流麗な弧 を描き、あっけにとられながらもみとれている潤の喉元で止まった。動きを封じられた潤がおそるおそる金の目を見つめると、金は刃先をゆっくりと垂直に下ろし潤の股間でピタっと停止させ、鋭い目線で決めゼリフのように言った。
「やらせろ」
「い・や・だ」
迫力に負けまいと睨み返しながら答えた潤に、金はふたたび笑いながら刀を脇へやると、わざとらしく学生服の肩をポンと叩いた。潤もひきつった笑顔を作って、金を警戒しながら床に脱ぎっぱなしだった自分の衣服を拾い上げると、とたんに全速力で部屋を飛び出した。
「うわああああ!」
「待てい!」
刀をふりかざしながら追ってきた金を振り返りながら、潤は助けを求めて常にスタッフがいる広間に駆け込んだ。

 

 

「助けて!金さんに殺される!」
5、6人で作業中だったスタッフはいっせいにこちらを振り向き、必死の形相の潤を見て何が起きたのかと身構えた。が、次に入ってきた金の時代がかった大仰な表情に、全員があうんの呼吸で悪のりをはじめた。
「獲物はそっち行ったぞ」
「ひっとらえて殿に献上しろ」
部屋の中を逃げまどう潤をヤマトがつかまえ、後ろから羽交い締めにした。
「おーい、ビデオ回せ。面白い絵が撮れるぞ」
スタッフの一人がハンディカムを手にしながら近づき、潤はレンズから顔をそむけながらもがいていたが、すぐに金が目前に立ちはだかり、わざとらしく舌舐めずりをしながら芝居口調で言った。
「さあて、世を騒がせた憂国少年を、どう始末してくれようか」
「なんでだよ、俺、おとなしくバイトしてただけじゃん」
「ニブイやつだな、いまは山口二矢だろ」
後ろから馬鹿にしたように言うヤマトを、先日いったんは見直したことを潤は後悔した。まわりのスタッフたちは口々に「打ち首にしろ」だの「切腹させろ」だのとはやしたてている。
「山口なんてそんなやつ知らねえよ、はなせよハゲ!」
「あーあ、先輩にそんな口きいて。殿、たっぷりとお仕置きを」

金は不遜な笑みを浮かべながら片手で潤の額を押し退けると、いきなり喉元に吸いついてきた。意外な行動にスタッフたちは一瞬静かになり、執拗にねぶられる舌の感触に潤が思わずあげた声が広間に響くとヤマトが叫んだ。
「潤が勃起するに1000円!」
堰を切ったようにカケに乗りはじめたスタッフたちをよそに金は顔を上げると、舌を出して見せた。そこにはわずかに血が乗っており、唇のはしにもだ液で薄まった血が付着していた。潤は羽交い締めされていた腕をふりほどいて自分の喉にさわってみると、指先にもかすかに血がついた。喉元に刃をつきつけられたときに傷ついていたらしい。金はさっきまでとはうってかわったやさしい顔つきで潤に言った。
「はい、治療おしまい。ごめんな、ここまでやるつもりじゃなかったんだ」

気まずい空気のなか、潤は黙ってヤマトから離れると部屋の片隅で着替え、「帰る」と一言だけ言って屋敷を出た。それから最寄りのコンビニでライターと大量 のネズミ花火を買い込んで現場に戻り、庭を横切って広間の裏に回ると花火を束にして一気に火をつけ、窓から投げ込んだ。外に漏れてくる白煙と火薬の匂い、連続する破裂音の中であがるスタッフたちの悲鳴に満足すると、潤は「ざまあみろ」とつぶやいて残りの花火を放り込んだ。明日からこのバイトに来る気は、もうなかった。

 



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