雪の止んだ朝


少しのためらいの間の後ドアが開かれ、そこにははじめて見るが懐かしい顔があった。入り口に立ったまま言葉もなくうつむいた潤を、彼女は部屋に招き入れた。
「この部屋、ほんとは摩天楼を眺めるには特等席なのに、今日は雪で何も見えないね。寒かったでしょ?」
やはりはじめて聞く彼女の声は、優しくおさえたトーンで緊張した空気をほぐした。潤のために用意してあったらしく、ドリップされたばかりの熱いコーヒーをカップに注ぎながら、彼女はソファに座るようにうながしたが、彼は黙って立ちつくしたままだった。
「どうしたの?掲示板やメールではあんなに元気なのに。なんだかちがう人みたいだよ」
「だって、なに言っていいかわかんない」
ようやく口を開いた潤に、からかうように彼女は言った。
「ああ、君ってヒキコモリ君だもんね。こうしてホテルまで会いにきたってだけで合格点あげないといけないかもね。でも、私だって、ほんとは困ってるのよ?」
「うん、たぶんそうだと思う。でも俺のほうが困ってる。だって、男だって言ってたじゃん」
「あはは、だまされたね、ぼうや。でも、ふつう、女だったら喜ぶんじゃない?」
「まあそうだけど。やっぱ、ネットって信用できないや」

 

ふたりの出会いは、インターネットの掲示板だった。父親の仕事の都合でニューヨークの郊外に越してきた潤は、進学のために通 っていたESLを止め、家に引きこもっている毎日だった。日本での高校時代に両親の離婚騒動があり、気が散って勉強がはかどらないだろうと父親が借りたワンルームマンションで一人暮らしをしたことが、問題のはじまりだった。いわゆるエリートの父親は一人息子の潤に期待をかけていたが、付ききりで勉強させても思うような成績のとれない彼に苛立ち、いつも怒りをぶつけていた。「自分の血ではない」、必ず最後にはこの言葉でしめくくる父親を、潤も憎んでいた。これは離婚の話が浮上した原因のひとつでもあり、両親がケンカのたびに自分のことを持ち出し、あげくのはてに母親が浮気してできた子どもだと罵倒する父親を見たとき、潤はショックというよりむしろあきれはて、家を出ることは彼の希望でもあった。

一人暮らしをはじめた潤は、うるさい父親がいなくなったとばかりに勉強を放り出して、当時組んでいたバンド仲間とライブハウスに入り浸ったり、やはり父親を見返して認めさせてやろうと猛勉強をはじめるという極端な繰り返しの生活をしていた。しかしいつもつきまとうのは、勉強のためと言いながら体よく捨てられたという恨みだった。じっさい父親は、一人暮らしの部屋にはいっさい訪ねることも電話をかけてくることもせず、理解者だと思っていた母親も、「お父さんの機嫌が悪くなるから」という理由で自分が連絡をよこすことも、潤が実家に電話をすることも、よほどの緊急時でなければひかえるようにと言った。あとから考えれば、母親自身も精神的に追い込まれていた結果 だとわかったが、当時の潤には、むしろ母親の裏切りへの憎悪と落胆のほうが大きかった。

高校は進学校だったため、思い出したように猛勉強したといっても、潤は落ちこぼれていた。父親に似て攻撃的な性格だったため、クラスメートとの会話でも納得できないことがあると食い下がり、場の雰囲気を保つということができなかった。けっきょく高校では友人はできず、もっぱらバンド仲間とつるむ毎日だった。
子どものころから音楽が好きで、ピアノも習わされていた潤は、中学時代にはじめたクラシックギターもそこそこの腕前だった。父親の目を盗んで中古の安いエレキギターを買ってからは、エキセントリックな響きと自由度の高い演奏のスタイルに魅入られて練習にも力が入り、他のバンドからもたびたびセッションの誘いを受ける程度には弾きこなしていた。ライブハウスに出入りする仲間にはかなり年上の連中が多く、クラスメートからは敬遠される攻撃的な態度も単なる「生意気」で済まされ、むしろそれをからかって冗談にしてくれる仲間たちに、彼は親しみを覚えていた。

しかし、彼らの自堕落な生活が潤に悪影響を与えたのも確かだった。仲間たちは夜通 し飲み歩き、次々と女を変え、仲間内で同じ女性とつきあうのも平気だった。グルーピーには風俗業界に勤める女性たちも多く、情に厚い彼女らは一人暮らしの潤を心配して何かと世話をやく一方で、まだ知らなくてもいい大人の世界のことも彼に教えた。また、同性愛を遊びととらえ、たわむれ程度なら人前でも堂々と行う連中もいた。彼らは真性の同性愛者というよりは、先進的で退廃的なインテリをきどっているにすぎなかったが、興が乗ってくると、きわどいこともかなりした。「ノンケ」の連中も彼らに苦笑するだけで、よくふざけの対象になっていた最年少の潤が、弄ばれて困惑する様子をはやしたてた。たむろするのが同好の志ばかりであれば、彼らは遠慮なく潤をおもちゃに「同性愛ごっこ」にふけるのだった。未成熟なままこの異常な行為の洗礼を受け、罪悪感にもすぐに慣れ、やがてそれは快楽の味つけになり、潤は性的なモラルを形成する機会を逃した。

なかでもいちばん大きく彼を変えたのは、ある違法行為、つまりドラッグだった。彼らとつるんでいれば、様々な種類のドラッグがいつでも手に入る。それは音楽やセックスを楽しむためにも効果 的だったが、トリップしながらの怪しげな議論は、心の闇の扉を次々と開けていく、危険な行為だった。年長の連中にとっては単なる知的な遊びにすぎなかったが、世間を知らない潤は、彼らの展開するロジックを間に受け、現実よりその異様な理屈の世界にいることに安らぎを覚えるようになった。基幹のない議論は都合良く自由に論旨を変えることができる。同じ場所で陶酔しているという連帯感が、極端にエスカレートした結論を求める。それはもっとも簡単に自分や現実を超越できる方法だった。しかし、彼はその超越がにせものだということに気づいていなかった。

非現実で非常識な世界に逃げ込み、不摂生な生活に溺れ、やらなければならない問題から目をそむけつづけた潤に、破たんが訪れるのは当然だった。ある日、久しぶりに帰った部屋でひとり、惰性で参考書を広げていた彼は、突然ひどいめまいと倦怠感に襲われ起きていられなくなった。ベッドに倒れ込み、目が覚めたときは、自分が肉体から分離したような奇妙な恐怖感と吐き気、全身を支配する不自然な緊張感で思うように動くことができず、やっとの思いで自宅にかけた電話に出た母親に助けを求めようとした時、声が出ないことに気づいた。そのまま電話を切り、友人にメールを打って、ようやく母親に連絡を取ってもらうことができたのだった。
高熱もあったので2週間ほど入院し、あとは自宅でふせっている日々だったが、父親は潤の状態を「ヒステリーの発作」だと言い、母方の親戚 の、ノイローゼのはてに自殺した人物の名前をあげた。しかし、すでに自分の症状に慣れて落ち着きを取り戻していた潤には、父親の言葉はあいかわらずシラけるだけだった。この件で両親の離婚話もうやむやになり、2ケ月もすると潤は回復したが、そのまま自室に閉じこもる生活がはじまった。

 

 

「ネットが信用できない?私だってそうよ。君の話がどこまで本当か、今だってわからないもん」
「ぜんぶネタだよ、テロのこともヒキコモリのことも。ネナベだったおまえといっしょ。でも、ニューヨークにいるのはほんとだったでしょ?」
「調子出てきたね。コーヒーさめちゃう、コート脱いだら?雪でビショビショだよ」
コーヒーをテーブルに置いた彼女は、バスルームへ行くとタオルを持ってきて潤の頭にかかって溶けた雪を拭いはじめた。
「いいよ、すぐ乾くから」
「そういえば、こっちの人、あんまり傘ささないってメールで言ってたね。部屋の中、乾燥してるのね。お肌に悪いわ」
レンガ色のダウンのハーフコートの肩に溶け残った雪を、彼女はタオルで払わず手に取って見せた。
「でも、こんなに降ってるときは傘さしたほうがいいよ。風邪ひいちゃう」
潤は彼女の手のひらで溶ける雪を見つめていたが、いきなりその手を取って自分に引き寄せ、彼女を抱きしめた。彼女は、抵抗することもなく黙って彼のするままにさせていた。

「…おまえが男でも女でも、会ったらこうしようと思ってた」
「だから会うのがこわいって言ってたんでしょ?」
「うん、たった一人の友だちだから、終わりが来るのがこわかった」
「さすがヒッキー、暗いことばかり考えるのね。もっと仲良くなれるかもって思えないの?」
「うるさい。ちょっと黙ってて」
彼女は自分の手を潤の背中に回すとなだめるように自分も抱きしめ、ささやいた。
「はい、だっこ。掲示板でいつも、おっさん、だっこしろってふざけてたね。今日はほんとのだっこだよ」
「ずっとこうしていたいよ」
「残念でした、明日帰るもん。この続きは、いつになるかな。もうないかもね」
「あーーーもう、気が散る!うざい!」
彼女は笑いながら潤から体を離すと、片手に持ったままだったタオルを掲げて言った。
「ドクターストップ。とにかくそれ脱いでくれないと、私まで風邪ひいちゃう」
「ちぇ、風邪ひいて帰れなくなっちまえ、クソババア」
「ひどーい、こんな綺麗なお姉様をつかまえて」

たしかに、潤のコートのボタンをはずそうとする彼女の、ふせた長い睫 毛に気位の高そうな整った鼻筋は美人の条件でもあるものだった。ふれらているボタンを自分ではずそうと手をそえると、彼女は何気なく彼を見上げたが、その瞳は気の強さと無邪気さが同居した、存在感のあるまなざしを持っていた。
「まあ、ブスじゃなくてよかったってことにしといてやるよ」
照れ隠しでわざとつまらなそうに言った潤の言葉に、すかさず彼女も答えた。
「こっちこそ、ブタメガネよりはマシだったって思ってるわよ。どうせあんな掲示板に出入りする連中なんて、モテないオタクばっかりでしょ」
「ばか。おたがいその掲示板で知り合ったってこと、忘れたの?その説だと、俺もおまえもモテないオタクになっちゃうじゃないか」
「少なくとも君のほうは当たってそうね。モテないオタク。このダウンの色…ダサすぎ。ああ、どうしようかな。クロゼットにしまっちゃうと乾かないし、バスルームは使ったばかりだし」

脱いだコートを持って部屋を見回す彼女の長い髪は、すそのほうが濡れたまま背中にかかっていた。結局クロゼットの扉を半開きにして、そこにコートを吊るしている彼女に、潤はニヤつきながら言った。
「バスルーム使ったの?どうして?俺が来るから?」
怒った表情でふりむいた彼女は、横にあったサイドボードからホテルのマッチをつかむと、彼に投げつけた。
「しね。昼間歩いてきて雪で濡れちゃったからよ。体冷えちゃったし。あんたみたいなガキが来るからって、わざわざそんな気つかうもんですか」
「無理しちゃって。俺にメールよこせって言ったのって、ほんとはあのレス読んで感じたからでしょ?」
「あのレスって何よ。あんたのレスなんていちいち覚えてないわよ」
「そんなはずないな。ニューヨークで会って、いっしょに夜景を見ようっていうレス。おまえはあれから態度変わった」

 

>819 :192 :02/01/08 06:19 ID:g9r4eKYr

>いいか、ネナベの722、目を閉じて俺を想像しろ。
>ここはニューヨーク。いま、部屋にふたりきりだ。
>おまえは窓からマンハッタンの摩天楼を眺めている。

>「テロがなかったら、貿易センタービル見れたのにね」
>「でも、君が会いにきてくれたから、それだけでいいよ」

>俺は後ろからおまえを抱きしめて、髪にキスしてる。
>俺の腕を、おまえの両手がつかんでるよ。俺はおまえの指が好き。
>おまえがキーボードを打つ時、いつも願ってる。
>俺のことを書け、俺のことで頭がいっぱいになれ、俺を好きだって打ち込めって。

>そしていま、その通りになってる。
>ご褒美にもっとたくさんキスしてあげよう。でもキスだけじゃ足りないな…。
>おまえの腰に俺を感じてる?俺はどんなふうになってる?熱くなってるだろう。
>欲しかったら言いなさい。俺を愛してるって、夜の間中ずっと。

>この夜は明けないんだ。だから、おまえは永遠に俺のもの。



 

 

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