断 罪

2001年9月11日、4機の旅客機がハイジャックされ、ニューヨークの世界貿易センターの南北2つのタワー、ワシントンDCの国防総省に次々と突入し、残る1機フロリダ行き93便はペンシルバニア州ピッツバーグの林野に墜落した。いまも世界中の人々の心に暗い影を落とす同時多発テロ事件である。すべての犯行はイスラム原理主義過激派組織「アルカイダ」の仕業とされ、首謀者のオサマ・ビン・ラディンを匿うアフガニスタンへのアメリカによる報復攻撃がはじまった。

 


セントラルパークの木々も若葉の頃を終え、深い緑の葉を風にそよがせていた。ニューヨークの密集した都市の息抜きのような広大な敷地には、様々な人々が訪れ時を過ごす。犬を散歩させる人、時計を見ながら足早に道行くビジネスマン、ローラーブレードを履いて軽やかに通 り抜ける少年たち。ベンチにはサンドウィッチの紙袋を抱え遅いランチを取る人、新聞を読んでヒマをつぶす老人、仲良く寄り添い、秘密の会話を交わす恋人たち。
活気にあふれる公園で、黒髪の、アラブ系の青年がひとりベンチに腰掛け、手持ち無沙汰に行き交う人々を眺めていた。

「アーメッド」
明るくはずんだ声に青年が振り向くと、座っていたベンチのすぐ横にほっそりとした金髪の少女が立ち、いたずらっぽくほほ笑んでいた。
「何むずかしい顔してたの?あなたの悪い癖ね。楽しいことのまえにはいつもそうだわ」
「そんなはずないな。いま、君のことを考えてたところだったんだから」
「そうやってごまかすのね。いいわ、じゃあこれあげない」
「それ何?見せろよ、イーファン」
アーメッドはイーファンの手首を掴んで自分のほうに引き寄せた。彼女は勢いあまって彼の膝に腰を落としたが、そのまま胸にもたれかかり、長い茶色の睫 毛でふちどられた大きな青い瞳を見上げて言った。
「何だと思う?オペラのチケットよ。来週の金曜日、わたしの家族があなたを招待するの。ワグナーは好きだったわよね。でも気をつけて。あなたきっと寝ちゃうわ」

アーメッドは彼女の家族とはまだ会ったことがなかった。彼女の父親はドイツから移民してきた設計技師だったが、アーメッドとイーファンの仲を快く思っていないと聞いていた。
「寝るどころか緊張して卒倒しちゃうよ。なんでまたお父さんはそんな気になったんだ」
「わたし泣いたのよ、ふた晩も」
アーメッドの胸元にあてられたイーファンの白い手が、ギュッと彼のシャツを握りしめた。
「あなたとずっと一緒にいたいって。許してくれないなら家出するって言ったの」
「イーファン、どうしてそんな乱暴なことを。時が来るまで待とうって、ふたりで約束したじゃないか」
「怒らないで聞いて。パパはムスリムが嫌いよ。アラブ人というだけで毛嫌いするわ」
「知ってるよ。だから俺が認めてもらえるようになるまで、一緒にがんばろうって誓ったろう」
「でもそれじゃ遅いかもしれないのよ。イスラエルのニュースを見て、パパはいつもカンカンなの。ムスリムなんか、友だちでも許さないって」
「過激派のことか。ムスリムだってやつらのことを敬遠してる。あんなやり方、俺は大嫌いだ」

その頃、領土問題でもめるイスラエルに対して、パレスチナのイスラム過激派が爆弾を抱いて市街地で自爆するというテロがひんぱんにあった。イスラエルだけではない。エジプトなどイスラム圏の各所で欧米からの観光客や施設を狙ったテロが何度も起こり、先進諸国からは批判が沸き上がっていた。

「お父さんが怒るのも無理ないよ。でも俺たちみんながそうだと思われるのは不満だな」
「気を悪くしたのね」
「まあ仕方ないさ。どこに行ってもそういう人はいる。でもドイツから来た君をドイツ人だからって嫌う人はいないだろう。俺たちは損してるな」
「ごめんなさい」
「あやまることないよ。一番損してるのは君なんだから」
「どうしてわたしが?」
「イーファン、足がしびれた」
アーメッドは彼女を膝から下ろし横に座り直させると、不安げな顔を覗き込みささやいた。
「君は変わり者だよ。なんで俺なんか好きになったの?」
「ぜんぶ言ったら日が暮れちゃうわ」
「暮れてもいいから言ってごらん。そのあと俺が1週間かけて、どんなに君が好きか説明してあげるから」
「じゃあわたしたち、半日と1週間このベンチで過ごすのね」
「さっそく君が家出したと思って、お父さんが必死で探すだろうね。…はあ、俺たち、問題が山積みだな。君は趣味が悪いんだよ。俺は君にふさわしくない」

答えはもう出かかってる。俺たちはたぶん、じきに別れるだろう。しかし、イーファンのいつも微笑みをたたえている唇が歪んで泣き出しそうになるのを見て、アーメッドはやはり希望を捨て切れないと思い直し、軽くキスしてから言った。
「いや、まちがった。俺ほど君にふさわしい男はいない。これでいい?」

イーファンの表情から不安が去り、桜色の唇は愛らしい弧を描いた。ゆるくウェーブのかかった長い金髪が木漏れ日に透けて、優しい輪郭をつくっている。アーメッドはそんな様子の彼女を見るたびに、天使を思い出す。聖母マリアに受胎を告知する、白ユリを持ったあの天使だ。すると俺は、十字架に踏み敷かれる異端者だな。

 

 

機嫌のなおったイーファンと約束の映画を見た後、お茶を飲み彼女を地下鉄のホームまで送ると、アーメッドはダウンタウンから少し離れた自分のアパートに帰った。いちおうエレベーターのついたワンベッドルームの部屋だったが、廊下はところどころタイルがはがれ、剥き出しの配水管はさびつき、薄暗い照明は常にどこかしら蛍光灯が切れているといった古い建物だった。これでも市内ではけっこうな家賃を払わねばならず、サウジアラビアの避暑地アブハでホテルを営む比較的裕福な実家からの仕送りでも、生活はきつかった。
ルームメイトを探すことも考えたが、日に5度も礼拝し食物など生活上の規制が厳しいイスラム教の信仰のさまたげになると両親が反対し、結局一人暮らしとなった。両親は息子たちに欧米の教育を受けさせ、先端の知識とそれを欧米流の経済の中で活かす技術を学んで帰国することを願っていた。石油にたよっていた時代は終わりつつあり、サウジアラビアは腐敗した政府とともに斜陽の時を迎えようとしている。彼の両親は、敬けんに信仰しながらも欧米社会と経済や文化を共有し、得た利益をイスラム社会に還元するという新しいムスリムの生き方を息子たちに求めた。

留学した大学で法律を学ぶアーメッドは、いずれ弁護士としてサウジアラビアに帰るはずだった。しかし、彼は両親の期待に添えそうにはなかった。だいたい、兄弟で一番出来の悪い俺にまで大金を使うことはなかったんだ。アメリカに来たばかりの頃はやる気もあったし、じっさい勉強もかなりした。だけど、見てみろ。ここでは最低のいいかげんなやつらだって、アメリカ人ってだけで階段のずっと上にいる。ムスリムはよほど優秀でなければ仕事は選べない。ツテがなきゃ、ありつくことさえむずかしい。映画やテレビの中では必ずテロリスト役、みんな何の疑問もなくテロリストがやられるシーンを見て喜んでやがる。イーファンの親父だって…。
アーメッドは昼間渡されたオペラのチケットをカバンから取り出しベッドに腰掛けて眺めた。オペラだって?馬鹿にしやがって。俺を試して、彼女のまえで恥をかかせるつもりなんだ。だいたいワグナーって何だよ。いつ彼女とワグナーの話なんかしたっけ。

ベッドに仰向けに身を投げ出してアーメッドはため息をついた。一日の最後の礼拝の時間がきたことはわかっていたが、最近はまともに祈ることも少なくなっていた。なんでこんなに疲れるんだろうな。俺はすごく無駄 なことをしているような気がする。勉強も、彼女のことも、最初から無理だってわかっているのに失うのが怖くて惰性で続けているかんじだ。何もかも失った自分ってどんなやつなんだろう。

ふと、アーメッドは故郷の友人のことを思い出した。同い年で名前も同じその友人「アーメッド」の家は貧しく、大工の父親のわずかな日銭で細々と暮らしていた。彼の家に遊びに行ったとき、痩せこけた末の妹が粗末な床にふせっており、枕元にほとんど具の入らない水のようなスープが置いてあったのを覚えている。「アーメッド」は妹を可愛がり、よく妹の寝床の端に腰掛けて、その日にあった出来事や昔話を聞かせてやっていた。時々、妹の髪には小さな野の花がさしてあり、よく似合うと誉めてやると、兄さんが毎朝摘んできてくれるのだと嬉しそうに笑っていた。
「アーメッド」はいじけたところのない真直ぐな性格の少年で、将来はモスクの礼拝指導者になりたいと、家の手伝いの合間を見ては熱心にコーランを読んでいた。その真面 目さをからかうと、彼は照れくさそうに言った。
「僕の選べる道のなかで、一番正しいのがこれなんだ」

友人はいま大学でイスラム法を勉強していると聞いた。サウジアラビアでは大学の授業料は無料で学生には補助金も支給される。それでも、その時間を仕事に割り当てなくてはならない貧困家庭の子どもにとって、最後まで勉強を続けることは容易ではないだろう。アーメッドには、自分を信じて、望んで勉強する故郷の友人の姿がまぶしく思い出された。

あいつと俺の一番の違いは、夢を持ってるかそうじゃないかだな。目を閉じると、彼と一緒に歩いた故郷の道、涼しい風の渡る高原、そして将来を語り合った泉のほとり、懐かしい風景が次々と浮かんでくる。俺は、アメリカに来ないほうがよかったのかもしれないな…。
アーメッドはそのまま眠り込んでしまった。

 

 

どのくらい時間がたったのか、部屋が蒸し暑く汗まみれで彼は目を覚ました。眠っていたはずなのに、ひどく息が早い。額にへばりついた髪をかきあげようとした時、体が鉛のように重くて動かないことに気づいた。無理に起き上がろうとしても両手が空しくシーツをつかむだけだ。それに全身が激しい運動でもした後のように熱をもって痛む。
どうしたんだ俺は、病気にでもなったのかな。注意深く意識を集中すると、部屋の隅から誰かの寝息が聞こえてきた。それも一人ではない、数人の男がこの部屋で眠っているようだ。いや、起きているのもいる。影がひとつ、ベッドのすぐ横に立って、俺を覗き込んでいる。

影はしばらくじっとしていたが、やがてゆっくりのばした手をアーメッドの胸に置いた。はだけたシャツの隙間から冷たい手のひらが差し込まれた時、彼は抵抗感で体をこわばらせたが、意外にも恐怖はなくむしろ「またか」というかんじだった。「またか」だって?こんなこと、今までにもあったっけ?影の手は細かい筋肉の隆起や骨格までも確認するように、ていねいに胸をなでまわしていたが、その動きはまともではない、恋人同士がする愛撫のようなものだった。

それがわかった瞬間、一気に恐怖がこみあげてきて、アーメッドは大声をあげようとした。結局声にはならなかったものの、その勢いでようやく体を半分起こすことができた。激しく肩で呼吸をしながら、窓から漏れる街の灯りで薄暗く照らしだされた部屋を見回すと、そこは普段と変わらない様子で、床にはベッドに入るまえに投げ出したカバンがそのまま転がっていた。
夢か…。しかし胸にはあの忌わしい感触がまだ残っている。俺は欲求不満なのかな。さっさとイーファンをやっちまうか。すぐにアーメッドは舌打ちして、自分の考えを訂正した。だめだ、彼女にはせめて綺麗な物語を用意しておいてやらなきゃ。それから、そんな自分に対して皮肉な笑いが浮かんだ。俺はずいぶん紳士だな。あんな女の子、たぶん一生抱く機会はないのに。




 

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