彼らの次の住まいはフロリダ州デルレイビーチのコンドミニアムだった。ここに借りた2つの部屋と近隣のアジトにアルカイダのメンバーが集まり、サイードとアルナミは空港まで迎えに来たハムザ・アルガムディと同室だった。ハムザは人の良さそうな男で、自分と同姓のサイードを親しげに迎えた。他のメンバーたちもサイードを快く歓迎したが、彼らはアルナミとはすでに面 識があるようだった。

アルナミと二人きりのパキスタンでの生活は重苦しいところもあったのだが、ここでは訓練も勉強も以前よりゆるやかになり、それ以上に先輩たちから受ける「悪魔の生活」についての講議は、正直に言うと魅力的だった。
デルレイビーチのあるマイアミは大西洋を見渡し瀟洒なホテルが立ち並ぶリゾート地だ。その美しい海の街で悪魔は遊び、酒を飲み肉を食らい、女の子をくどきお洒落な服装に散財する。すべてがはじめて知ったことばかりで、サイードの価値観はアフガニスタンを出た時からひっくり返ってしまった。

新しい先輩たちはそんな初々しいサイードを面白がり、彼も持ち前の人懐っこさで応えたために、年中「悪魔の国の視察」に連れ回された。ある時など、海岸のバーで酒を勧められさすがに断ったが、これも勉強だと言われ二口ばかり飲んでみると、見なれないきらびやかなネオンサインがいっそう輝きだし、天国が目の前に出現した気分になるのだった。
サイードが「視察」にひっぱりだされ遅く帰った晩には、必ずといっていいほどアルナミも不在だった。ある日酔った勢いで先輩たちに問うと、アルナミは変わったやつだからあまり関わらない方がいいと釘をさされた。

メニューが減ったとはいえ、彼らは毎日の訓練をかかさなかった。朝夕のジョギングに、スポーツクラブでの筋力トレーニング、時には米軍施設での軍事訓練に参加させられたこともあった。この時、サイードはなぜ自分達がいとも簡単に敵軍に侵入できるのか疑問に思ったが、アルナミによると「こちら側に寝返った悪魔の手引き」とのことだった。数名のメンバーは航空学校で飛行訓練を受けていたが、サイードやアルナミら年少の連中は、ひたすら身体を鍛えさせられた。

フロリダに来てからもサイードとアルナミは基本的にはいっしょに行動していたが、ある日シフトの関係でサイード一人でスポーツクラブに行ったことがあった。ところが、トレーニングを始めると間もなく停電が起こり、復旧に時間がかかるというので会員は早々に帰された。サイードはたまにゆっくりするのも悪く無いと思い、ブラブラと散歩しながら部屋に戻った。
ドアを開けると誰かの話声が聞こえたが、いつものことなので気にもとめずリビングに行くと、入れ代わりにあわてた様子で別 のアジトに住むアルシェヒという髭面の男が出て来て、すれ違い様に目配せしながらサイードの頭をクシャクシャなでそのまま出かけて行った。おかしいなと思い室内を見渡すと、ソファにアルナミが寝そべっていたので声をかけようとした時、サイードは頭を殴られたようなショックを受けた。アルナミのシャツは大きくはだけ、ベルトははずされチャックが半分下ろされていたのだ。
「…な、なにやってんだ」
「さわらせてたんだ、おまえもさわっていいよ」
悪びれもせず、横たわったままでアルナミは言った。サイードはカッとなって大声でどなった。
「アーメッド、服をただせ!」
「年下のくせに命令するのか」
「関係ない、ただせ!」
「おまえこそ、関係ねえだろ」

怒りに震えながらズカズカと歩み寄ると、サイードはアルナミの腕をつかんで力まかせにひっぱりソファの上に起きあがらせた。
「アーメッド、何度も言わせるな」
しかし、ずり落ちたシャツのまま背もたれに寄りかかり、ふてくされて動こうともしないアルナミに業を煮やしたサイードは、これ見よがしにさっさと自分の手で乱れたシャツを直し、開いているボタンを全部留めた。そうしているうちに怒りと情けなさで涙がこみあげて、はみだしたシャツの裾をきっちりズボンにおさめ、ベルトを絞め、アルナミのひざに涙をポタポタ落としてしゃくりあげながら言った。
「コ、コーランに、な、なんて書いてある」
「知ってるよ。でもみんなやってる」
「お、おれたち、正しい者は、やらない」
「気づいてなかったのか?俺、みんなとやってるよ」

サイードの脳裏には、深夜によく連れ出されていたアルナミのことが浮かんだ。アルナミを連れ出すのは決まって大物の幹部連中だ。「アルナミと関わるな」ってのは、このことだったのか?それから、立ち止まると墜落するというパキスタンでのアルナミの言葉を思い出し、胸が痛くなった。
「い、いまからでも、やめろ、そんなことは」
「……サイード、俺、イマームになりたかったんだ」
唐突に、アルナミはサイードをさえぎるように言った。
「尊敬するイマームがいて、彼のようになりたくて必死に勉強した。最初に俺をやったのは、そのイマームだよ」

どう答えてやってよいかわからないサイードは、ひざまずきアルナミの手をとって頬によせた。アルナミは他人事のように話し続けた。
「あの頃の俺はおまえのように弱かったから、泣いたり悩んだりした。サイード、泣くのはおろかなことだ。どうにもならない事にかまけるのは時間の無駄 だ」
「アーメッド、でも、人間は、泣くんだ」
「あまいな、俺たちは現世を捨てたはずだ。現世のないものは人間じゃない」
アルナミの言う事は正しかった。彼らはもうこの世界には属していないのだ。後戻りはできない。日夜叩き込まれたアルカイダの理念からわかったつもりになってはいたが、今さらながらつきつけられた現実にまだ若いサイードは押しつぶされそうになり、アルナミをなぐさめるつもりで握った手に、今度は自分がすがっていた。

「いいものやる」
泣きじゃくるサイードをしばらく眺めていたアルナミは思い出したように立ち上がると、自分のベッドの下にもぐり込み1枚のコーリングカードを持って来た。
「公衆電話から国際電話がかけられる。まだ1回しか使ってないから」
「…な、なんで、こんなん、も、もって」
「メッカに行くって言って家を出たきりなんだ。探されたら面倒だから一度だけかけた。おまえも最後に家族の声聞いて、現世への未練を断て」
「かけかた、わ、わかんねえよ」
「一緒に行ってやる。そのかわりぜったい内緒だ。バレたらハンパじゃないことになるぞ」

差し出されたカードを受け取ったサイードは、アメ玉でももらった子供のように泣き顔を輝かせた。が、一瞬でまた顔をゆがめて言った。
「ていうか、おれんち電話ねえよ!」
アルナミはキョトンとしてサイードを見つめた後、笑いだした。
「あははは、おまえって、ついてないやつだな」
サイードはアルナミが心から笑っているのを見たのははじめてだった。その光が射したような笑顔は重くのしかかった不安を溶かし、サイードもつられて笑った。
「おまえこそ、かっこつけてるけどほんとは家が恋しかったんだろ」

この日、サイードは現実を目の当たりにすることになったが、一方で心を許せる相手ができたことはこの先の厳しい日々を乗り切る救いになった。

 

 

数日後、彼らのリーダー格のモハメド・アタという男が皆を一室に集め、具体的な「戦い」について説明した。それはサイードには予想もつかなかった恐ろしい計画だった。4機の旅客機をハイジャックしてそれぞれの目標に突っ込むというのだ。主要なメンバーたちはすでにそれを知っていたが、若いメンバーたちにははじめて聞かされるもので、背筋の凍るようなこの話に、部屋は緊張に包まれた。
アタは淡々と説明を続けると、それぞれの持ち場と役割を告げた。サイードとアルナミはニューアーク空港発フロリダ行の便に乗り込み、客室を制圧する。近辺に住むアーメッド・アルハズナウィとジアド・ジャラヒがコクピットを襲いジャラヒの操縦でホワイトハウスに突入する。サイードは膝の震えをおさえることができずにアルナミを見ると、彼は平然としてアタの説明を聞いていた。そういえば、パキスタンの空港で飛行機をよく見ておけと言っていた。アーメッドは知っていたのか?

ひととおりの話が終わるとアタは彼らにアラビア語で書かれた書類のコピーを渡した。そこには「実行にあたっての心得」が示してあり、これから当日まで必ず朝晩それを読むように言った。そこには日常生活から計画を終了するまでの心構えと、彼らの行いがいかに神に愛され、祝福されるかが逐一にわたり記されていた。

翌日、スポーツクラブの帰り道でサイードはアルナミに尋ねた。
「あの計画、知ってた?」
「ああ、ベッドの中でたいていのことは教えてもらえるんだ」
「アーメッド!その話は俺の前でするな」
「うるさいな、冗談だよ」
「ふん、まあいい、けど、おまえはともかく俺らにはなんで今頃話したんだろう」
「ここなら怖じ気付いても逃げようがないからだろ」
「みんなアラーに誓ってここに来たはずだろ。なのに信用されてないのかな」
「アタさんたちはイスラム以外の世界をよく知ってる。信仰心はもろいってこともね」

今でも時間が許すかぎり礼拝をかかさないアルナミがそんなことを言うので、サイードは意外に思い聞き返した。
「アーメッドの信仰心ももろいのか?」
「いや、俺は、他に信じるものがないから」
「じゃあ、他に信じるものがあれば信仰を捨てるっていうの?」
「ああ、でもありえない。今までも見つからなかったし、もう時間はない」
「いいかげんなんだな」
「そうでもないさ、信仰をとったら俺はカラッポになる。だから信仰とは俺自身だ」
「信仰が自分自身だとしたら、ものを考えたり感じる自分はどこにいるんだよ」
「まだわかってないのか?そんなのいらないんだ。俺たちの仕事には必要ないんだよ」

海を見渡す広いビーチに出ると、アルナミはちょっとさぼって行こうと言ってコンクリートの堤防に上がり腰をおろした。サイードも着替えの入ったスポーツバッグを放り出すと足を投げ出して横に座った。
「めずらしいね、立ち止まると墜落するんじゃなかったっけ」
「へんなこと覚えてるな。もうすぐ終わるんだ、たまにはいいだろ」
「アーメッドは破滅を望んでるみたいだ」
「そんなことはないさ」
「アーメッド、俺は違う。俺は生きたいんだ。イスラムの平和な世界で、家族や、友だちや、尊敬する人たちと泣いたり笑ったり喜びあって。そのために悪魔と戦って、理想郷を作 らなきゃいけないんだ。俺は戦争と貧乏しか知らない。他のやり方がわからない」
「……ふうん、おまえはきっと、立派に英雄になれるよ」

二人とも、海を見たのはここへ来てはじめてだった。この水平線を越えて故郷の山々へ帰ることはもうない。父さんたちが子供の頃は美しい高原で羊を飼い必要なだけの作物を育て、女たちは洗濯場で楽しいおしゃべりをし、子供たちは家を手伝い山で遊び学校へ行き…。 サイードにとって、年長者の語るそんな光景は夢物語だった。ソ連とアメリカという大きな2つの悪魔が入って来てからというもの、彼の故郷は度重なる戦乱でむごたらしく地肌をさらし、どこへ行くにも地雷の恐怖におびえ、仲たがいが絶えず、親しい誰かが死んでも、それは単なる日常茶飯事なのだ。

にぶい夕日に染まり、海は凪いでいた。波打ち際で小さな抵抗はあろうとも、もしこの静かな海のように世界が調和できるのだったら自分はここへは来ていなかったろうし、アルナミと出会うこともなかったのだろう、とサイードは思った。



 

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