潤にはおかしな癖があった。松崎のような俗物には虫酸が走ったし、ふだんは好きなナベやその他の連中が松崎に媚を売ることも理解しがたかった。しかし、それよりも今こうして他人に触れられていることに安らぎを覚えてしまうのだ。相手は誰でもかまわない、ただ体温を与えられている状況をどうしても優先してしまう。結局他の客がリクエストしたマイルス・デイビスの有名なアルバム「カインド・オブ・ブリュー」を聴きながら、甘えた声で後ろから自分を抱いている松崎に話しかけた。
「ねえ、マイルスっていいよね。俺、これとスター・ピープルが好きだな。松崎さんは?」
松崎は潤の頭に自分のアゴを置いて答えた。
「同感。その2枚は名盤だね。しかし、君はどこからそういう情報を仕入れてくるんだか。マイルスなんて子どもにはわからない世界だろ」
「だから子どもじゃないって。音楽聴くのに年は関係ねえだろ」
「それにしても、ヘタしたら息子の年代のコにそんな話されるのは、正直意外だね」
「息子の年代?おもしろいな。ありえるよ。じゃあ、いまから俺のパパになって」
「バンビちゃん可愛いな」
髪にキスされていることを感じながら、潤は続けた。
「でもやっぱ、松崎さんキモイ。普通はパパはこんなことしないよ」
「普通じゃないパパじゃだめ?」
「お楽しみのところ悪いが、ぼうやが飲んでるの、それ何?」
突然話に入ってきた太い声に振り向くと、松崎の肩越しにシゲオの顔があった。薄暗い照明に浅黒い肌が沈み、逆に生き生きとした眼と厚い情熱的な唇が目立ち、肩まで伸ばしたドレッド・ヘアは板について、直情的な表情を男の魅力に見せる額縁となっていた。
「これ牛乳。あと、あれ」
ボックス席にいるナベのほうを指差すと、シゲオは礼のつもりか潤にウィンクしてそちらに向かい、どこから持ってきたのか大きなマグカップにナベのマイヤーズ・ラムを遠慮なく注ぎ、カウンター席に戻ってきた。
「ユキさん、牛乳入れて」
バーテンのユキが少し緊張しながらマグカップに牛乳を継ぎ足しているのを横目で見ながら、シゲオは誰にともなく言った。
「昼間フリーマーケットで100円で買ったんだよ。いいだろ。アンパンマンだぜ」
赤いマグカップにはアンパンマンとバイキンマンの絵がプリントされていた。シゲオは店内を見渡すと、牛乳が満たされたカップを掲げた。
「気をつけろ、乾杯するワインには毒が入っている。これ、誰のセリフだっけ。まあいいや、今夜の俺たちはミルクで乾杯!」
「乾杯!」
店の雰囲気が一気に変わった。シゲオは存在するだけでそこから連帯感が生まれるような、不思議なオーラを放っていた。本人はとくに意識してそれっぽく見せているわけでもなく、アンパンマンのマグカップのように、むしろ格好の悪さを平気でさらすようなところがあったが、それがシゲオのカリスマ性にリアリティと親しみやすさを持たせ、誰もが彼と語りたい、一緒の場所にいたいと思わせるのだった。
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「松崎さん、こないだのグラビア、なんだか俺おっさんみたいに写
ってるな」
立ったままラム入り牛乳を飲みながら、しばし松崎と雑誌の話をしていたシゲオは、一段落して潤の横の空いている席に座るとマルボロのボックスを開け、5、6本混じっていた細い手巻の煙草を取り出しライターで火を着けた。潤はそれが何だか知っていたが、松崎にもたれかかったまま黙って眺めていると、シゲオは煙を吐き出しながらニヤニヤ笑って火のついたままの煙草を潤に渡した。
「ありがとうございます」
場違いな敬語に残りの煙を吹き出してしまったシゲオは、わざとらしくむせながら潤の方に向き直し、両膝をそろえておじぎをした。
「いいえ、どういたしまして。君とは何度か会ってるよな。まあ、あいさつがわりにやってよ」
潤が慣れた仕種で煙を吸い、胸にためこんでからゆっくり吐く様子を観察していたシゲオは、ボックス席の仲間のほうを振り向いて言った。
「おいおい、誰よ、この子連れてきたの。とんでもねえワルガキだな」
「屋上のメンバーだよ。俺らのギタリスト兼おもちゃ」
ナベの言葉に、潤はすかさず突っかかった。
「おもちゃは余計だろ、クソジジイ」
「シゲオさん、聞いたでしょ。こういうワルガキだよ、お仕置きしてやって」
「名前は?」
シゲオがたずねると、潤は居ずまいを正して答えた。
「潤です」
「俺のライブの打ち上げにも来てたよな。ずいぶん若い子がいると思って印象に残ってたよ。高校生ぐらい?」
「はい、2年です」
「あのさ、その言葉遣い、俺のことからかってるの?」
「べつに。ステージ以外ではどういう人なのか、まだよく知らないから遠慮してるだけ」
「あはは、すぐにわかるさ。わかりあうにはこれが一番」
ふたたびすすめられた紙巻きの大麻を何服かするうちに、今までは遠くから見ていただけのシゲオが何年も前からの知り合いのように思えてきた。急に立体感を持って流れてきた音楽も、昂揚を盛り上げた。しかし、隙のなさすぎるマイルス・デイビスのトランペットが今の気分には合わないように感じてくると、シゲオがユキに言った。
「気分じゃねえな。音楽変えていい?」
マイルス・デイビスをリクエストした客はだいぶ酔いが回って話に夢中になっているので、ユキは同意して希望のアルバムをたずねると、シゲオはその役を潤に振ってきた。
「たまには今の子の好みのやつが聴きたいな。潤ちゃん選んでみな」
「じゃあ、ストーンズのブラック・アンド・ブルーがいい」
「なんだよ、ずいぶんおっさんくさいの知ってるんだな。今はラップだヒップホップだなんだって流行ってるじゃない。そういうのは聴かないの?」
「嫌いじゃないけど、ああいうのは英語わからんのに聴いてもつまんないじゃん。日本人がやると盆踊りみたいだしさ、かっこ悪いよ」
「ストーンズだって英語だろうが」
「ストーンズはいいよ。なんつーか、魂が入ってる」
シゲオは面喰らった顔をして笑い出した。
「魂が入ってるって?わかってんだかわかってないんだか、確かに入ってるよなあ、タマシイ」
「な、シゲオちゃん。面白いだろう、この子」
「ああ、気に入ったよ、俺に譲ってくれ」
潤の肩ごしに割って入った松崎に、マルボロの箱から手をつけていない紙巻き大麻を1本取り出して渡すと、シゲオは潤を立ち上がらせてボックス席に移動した。「屋上」のメンバーたちが詰めて2人分の席を作ると、シゲオは潤を奥に座らせて、自分はその手前をふさぐように腰掛けた。
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「さて、今夜の獲物をどう料理するかな」
「俺、ガンジャ1本で売られちゃった。ノブさん買い戻してよ」
「残念だが手持ちがないな。ナベちゃん、助けてやれよ」
ナベは声をひそめて言った。
「直角なら入るぜ。確約はできないけど、来週まで待ってくれれば」
「俺も欲しいな。いくら?」
静かに飲んでいた川口も身を乗り出してきた。直角とはLSDのことで、四角い小さな紙片に液状のLSDをしみ込ませてある形状からきた隠語だった。他にもアシッドやペーパーなどと呼ばれていたが、大麻にくらべて手に入りずらいのと、長時間に及ぶ強烈なトリップができるので、機会があれば飛びつく連中が多かった。
「よんごー。まとまれば少し安くなるかも」
「じゃあ、3つくれ」
「俺は2つ。潤を買い戻す分は、悪いけど金欠だ。おとなしくシゲオさんに料理されてな」
「ヘイ!」
ノブが言い終わらないうちに、松崎がカウンター席から声をかけて、自分を指差すと両手を広げて10枚という合図を送った。
「潤ちゃんはこの中から俺が買い戻すわ」
ニヤけながらふたたび背を向けて飲み始めた松崎を見て、ボックス席の一同はあきれたように顔を見合わせた。
「…おそろしい」
「聞こえるか?ふつう」
「シッ、これも聞こえてるんじゃねえの?地獄耳のおっさん…」
松崎のせき払いにメンバーがいっせいに顔をそむけると、シゲオが笑って言った。
「弱い動物ほどミョーな能力が発達するわけさ。なあ、松崎さん、あんたの弱味は、俺はだいぶ握ってるもんな」
「わかったよ。じゃあシゲオちゃんにも2つあげて」
苦笑しながら松崎の追加注文の数を煙草のケースに書き加えると、ナベが潤にもたずねた。
「潤はいらないの?」
「いらない。お金ない」
「潤は、優雅な仕送り生活だもんな。親の金で悪さするなんて、考えたこともないよな?」
ノブの皮肉に、松崎が振り向いてまた会話に入ってきた。
「潤ちゃんはいい子だよ。悪さする分はちゃんと自分で稼ぐもんね。お金ないなら、またおじさんところでバイトするか?」
「いやだよ。松崎さんとこ、へんなおもちゃばっかりあるんだもん」
潤は松崎の出版社でアルバイトをしていたことがあった。松崎は、仲間内では音楽雑誌の編集者で通
っていたが、部数の少ないマイナーな雑誌だけではやっていけるはずもなく、じっさいはアダルト雑誌やAV、大人のおもちゃやブルセラの通
販で食いつないでいた。潤は、最初は簡単な校正や雑用などをまかされていたが、仕入れてもいないセーラー服が発送できない言い訳に、持ち主の女子高生になりすました女言葉で手紙を書かされたり、通
販の注文と称してかかってくるイタズラ目的の電話の対応をやらされたりして嫌気がさし、3ケ月程でやめてしまっていた。
「じゃあ、おじさんの愛人になれば?お給料はずむよ」
「キモイ。ねえ、話すの疲れた」
「なんだよ、潤は?」
ノブが潤の顔を覗き込むと、シゲオが親指と人さし指で煙草をつまんで吸う仕種をして見せた。
「なんだ、きまってんのか。アホらしい」
壁にもたれかかって、雑然とした話声の中から音楽を拾って聴きはじめた潤を放って、仲間たちも大麻の回し飲みをはじめた。時々、ふざけた誰かが潤の鼻先で煙を吐き出し、半分減ったまま手をつけていないラム入り牛乳を口元に運んで飲ませた。そのうちに店内全体がだらしなく心地よい連帯感に染まり、誰からともなくBOSEのスピーカーから流れるローリング・ストーンズの歌を口ずさみ、リズムをとり、音楽談義や哲学論や下ネタなど、無責任に主題を変えるおしゃべりが続くのだった。
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